厳冬の原野にて(1)

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冬の日高地方は晴れる日が多い。
日本海を越えて吹き付けるシベリア颪(おろし)が
列島の脊梁山脈にぶつかり雪を降らす。
水気を降り落とした乾いた風が、太平洋側に吹き下りてくるのだ。

天気はよいが、そのかわり冷え込みは厳しい。
断熱効果を持つ雪のブランケットのない、むき出しの原野の寒さは
撮影中の夜を車で過ごす僕にはいつも厳しいものだ。

夜はエンジンを切り、登山用の羽毛寝袋に毛布をかけて潜り込む。
明け方は車の中でもマイナス10度まで下がり、呼気で毛布の襟元は凍り付く。
(道東地方での撮影は、さらに羽毛かけぶとんを必要とする)
そんな状況だから朝は寒さで4時頃目が覚める。
懐に抱いて寝たガスカートリッジ「コン郎」をセットして
湯を沸かす。いつもエンジンをかける瞬間はどきどきする。
お年寄りの車だけにバッテリーが気にかかる。
ぶるぶる震えながら無事に始動したときの安堵感といったらない。

***   ***

窓ガラスの内側に凍り付いて美しく広がる結晶が消える頃には、
熱いコーヒーとフライパンで焼いたパン、目玉焼きで朝食だ。
今日も、神様との根比べの一日が始まった。

(写真:愛嬌者のコミミズク)

十勝川河口域で

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先日、冬鳥を求めて遠出してきた。
行き先は十勝川河口域。

この北海道第2の大河は
大雪山の奥深くより流れ出し
多くの支流を集めて南へ下る。

やがて真東へ湾曲して帯広市を貫流し
東大雪からの音更川、日高からの札内川、
陸別からの利別川という大きな支流と出合う。

最後は豊頃町の南東に開いた河口から
広大な太平洋に悠々と溶け込んでゆくのだ。

この延長156kmに及ぶ大河が抱く自然、
野生動物たちの多様さは素晴らしい。

源流・上流域の山岳森林地帯はもとより
河口に発達した砂浜海岸と
雪の少ないこの地方ならではの冬の原野は
渡り鳥の中でも
ワシ・タカ類やフクロウ類といった猛禽にとって
格好の採餌・生息のフィールドとなっている。

僕はこの地域に毎年通っている。

年によって多少異なるが、いつも見る常連たちは
オジロワシ、ケアシノスリ、コミミズク。
中でもコミミズクは特に気に入っている。

中型のフクロウで、茶色に枯れた冬の原野を
優雅な低空飛行ですいすいと飛び回る。
濃いマスカラを塗ったような顔がユーモラスだ。

夕方、辺りを赤い光が包む頃に
防風林の柵や枯れ枝の低いところに止まって
原野をじっと見つめるコミミズクの姿は
幻想的な光景である。

ところで残念ながら今回の撮影は空振り。
冬鳥たちはまだ来ていなかったと思われる。

コミミズクはフクロウの仲間で夜行性だが
雪が積もると昼間でも活動するようだ。
積もった雪はネズミの捕獲を難しくするため
彼らも必死になるのであろう。

僕もそれだけ彼らに出会う可能性が増えるわけだ。
年が明けて粉雪が舞い白く凍り付く頃に
また探しに来よう。

そのときには去年来ていたケアシノスリも
見られるとよいのだが。

晴天率の高い十勝の冬は
放射冷却でぐっと冷え込む。
外気温はマイナス18℃
ばりばりに凍った水溜まりを踏み砕きながら
車をゆっくり走らせる。
太平洋から昇った朝の光が
日高山脈の白峰を淡く浮かび上がらせていた。

青空を優雅に舞う冬鳥たちの姿を
脳裏に描きながら僕は帰途についた。

怒りの矛先がおかしい

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もう昨日のことになるが、
NHKの夜9時のニュースで
ちょっと信じられない光景を見た。

昭和二十年三月十日といえば
僕のような戦後生まれでも知っている。
東京大空襲のあった日だ。

米軍のB29爆撃機が約300機で襲来し
既に防備力尽きた東京の下町を
一晩で四十万発の焼夷弾を落として
焼き払った。

死者は十万人以上。
人類史上最悪の空爆だったといわれる。
当時の悲惨な情景や回顧録を
僕も読んだり聞いたりした。

敗戦後に開かれた極東軍事裁判(東京裁判)では
民間人殺傷を意図したこの大空襲が
戦時国際法違反の犯罪であったとする
日本側の主張は 途中で
日本語訳が打ち切られ、議事録から消された。

東京裁判の不公正さはつとに知られている。
大空襲は明らかにアメリカの戦争犯罪であるが
連合国側の裁判官たちは、原爆投下の罪とともに
徹底的に無視したのである。

***   ***   ***

さて、本題はここからである。
この東京大空襲で亡くなった人たちの遺族が
原告となって訴訟を起こしていた。

相手はだれか?
空襲の被害について訴える相手は、誰なのか。

こともあろうに日本政府だった。

これはどうみてもおかしい。
もしアメリカ合衆国を訴えるなら筋が通る。
実際には無理だろうが、考え方はまともだ。

だが彼らはこういうのだ。
「軍人が恩給や援護法を受けているのに
民間人の被害者は何の援護もなく放置された」と。
亡くなった原告の遺影を胸に涙ながらに訴える兄妹の
映像が、肉声が延々と流れる。ほだされそうだ。

だがちょっと待って欲しい。
戦争で被害を受けたのは、東京大空襲だけではなく
大切な身内を亡くした人は全国にたくさんいる。
あの戦争では300万人が亡くなったのだ。

戦争の惨禍は国民全体が共有した悲劇ではないのか。
身内を失った悲しみを国民みんなが共有し、
力を合わせて昭和の時代を生きてきたのだと僕は思う。

「誰のせいでこうなったのか」
そうした個々の思いをぐっと呑み込んで、
みなで団結して国を守って戦った記憶として昇華する、
そういう暗黙の、重い重い約束があるような気がする。
それでこそ戦後の復興が成ったのではないだろうか。

だから今になって急に
「国は謝罪せよ、一人1千万円だ」というのはどうか。
こう言ってはなんだが
全国の遺族の思いに対する裏切りではないか。
誰が焚きつけたのか、誰がどんな思惑で始めたのか。

僕は原告の方々が本気だということだけは、わかる。
戦後の歴史観がそうさせていると思うからだ。
戦争について、国民はとばっちりを受けた被害者だと
思いこんでおられるのだろう。
だがそれは・・大いなる虚妄である。

真相は占領政策により忘却の淵に沈められた。
アメリカの占領軍GHQは
終戦後7年をかけて日本人を洗脳した。

「軍国主義の侵略国家・日本が支配欲で始めた戦争だった」
という歴史観の刷り込み・洗脳が
図書没収、私信の検閲、学校教育、公職追放…
あらゆる手段で、全ての日本人に対して徹底的に行われたのだ。

当時、報道は100% 占領軍による検閲下にあった。
新聞やラジオは日本軍の暴虐ぶりをねつ造・誇張して
ウソを全国の家庭に送り続けたのである。

そして戦後60年たった今も
マスコミは同じことを続けている。
5月放送のNHKスペシャル
「ジャパンデビュー」シリーズでは
戦前の台湾統治を悪しざまに描き、
事実に反する内容と取材証言の改ざんと
捏造が指摘されている。
(この番組に対し、全国の一般視聴者一万人と
取材を受けた台湾人が原告となり
NHKに対し訴訟を起こし係争中だ)
そして昨日のニュースである。

原告団の訴えは東京地裁で棄却された。
僕は当然だと思った。
だがNHKのテレビカメラは
悔しそうな原告の声や顔をアップで
映し出し、スタジオのキャスターは
無念そうな表情で言った。

NHK:「こうした人々がまだまだいることを
私達は忘れてはなりません」

NHKは、洗脳は全く解けていない。
「占領軍なき占領軍支配が続いている」(田母神俊雄氏)
残念ながら、至言であろう。

これでも日本の内閣? 

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自然や写真と関係ない話題で恐縮だが
僕は 撮影に出ていないときは
時事問題や社会に関心が集中してしまう。

きっと皆さんも感じているだろう。
最近の日本の政治状況は
もうひどいなんてものじゃない。

常識感覚が欠落した発言と行動に
政治家の資質そのものが疑われている。
もちろん予想はしていたけれども
ここまでとは。

自民党政権時代なら、とっくにアウトだ。
マスコミが連日容赦なく叩きまくっているだろう。

民主党はマスコミが応援しているから強い。

本日のNHK世論調査では支持率は59%(前回比-9)。
衆院選で僕は民主党には入れなかった。

首相は「国民の皆さまの支持を得た内閣」と
ことあるごとに言うので、
不支持の僕はどうやら国民じゃないらしい。

それはいいとして
最近の民主党の暴走ぶりはひどい。

今日15日、中国の次期国家首席と目される人を
天皇陛下と会見させるという。
ニュースでも再三言う通り、
病後の天皇陛下のお体を慮って、会見の申し込みは
1か月前で締め切るというルールがあったのに。
それを無視して強引にきめてしまった。

「30日前ルールなんて誰が決めたの?」(小沢一郎氏)

「相手がどうしてもと要求してきた。
日中関係が良くなるからいいことだ」(鳩山首相)

だそうだ。少しも問題と感じていないらしい。

****
日本国民として、はっきり言っておきたい。
なぜ天皇陛下が
中国の一政治家の要求に従わなければ
いけないのか?

30日ルールを誰が決めたかという問題ではない。
なぜルールを破ってまで相手に迎合するのか。
天皇陛下を日中友好とやらに利用しようとする
その軽率さ、あまりの不見識に腹が立つのだ。

祖国の元首を軽々しく扱われた、侮辱に対する怒りだ。

中国と聞けば条件反射的にへつらう鳩山・小沢の
まるで奴隷のような姿勢に情けなさと憤りを感じる。

売国奴め!と心の中で声の限り叫ぶけれども
悲しいかな 僕は無力な一般国民である。

あ、民主党政権下では国民ではないのだった。
来年の夏には国民に戻れるだろうか。

タテのつながりという視点

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12月8日は
日本人としては忘れえない対米戦の開戦日。
そして私的には静岡の祖母の誕生日である。

すでに卆寿を迎えた祖母は、
年相応の衰えはあるものの
健康そのものは至って穏やかで、
本当にありがたいことである。

私は少年時に1年半、
祖父母のもとで暮らしたことがある。
父の英国駐在に伴い
家族とともにロンドンでの生活を送っていた私は、
翌年の高校受験を控えて単身帰国した。

家族が帰国するまで、
当面祖父母の世話になることになったのだが
思春期の少年を預かる祖父母たちの気苦労や
また預ける両親の気苦労を思うと、
今更ながら感謝の念を禁じえない。

短い期間ではあったが
祖父母との生活が私に与えたものは
まことに大きなものがあり、
人生を左右する貴重な体験だったと思う。

中でも大切なことは、自分と祖先との間の
「タテのつながり」というべきものを、
生活の中で実感し体得できたことだと思う。

祖先を意識することは、今生きている自分を、
過去から未来へと連綿と続く時間軸の中で
相対化する視点を得ることである。

ともすれば個人中心的な狭い視野に陥りがちな
核家族時代にあって、祖父母という存在は
「絶対的個人たる自分」を離脱して
はるかな祖先から続く果てしない織物の上に
現れた模様の一つである
「相対的な自分」を教えてくれた。

私もまた祖先と同じように、
後世の子孫からは歴史的存在として
扱われるのだという、当たり前の真実に気付くのである。

そのことは、人間に謙虚さという資質を備わらせる。
今、この世に生きている者だけがすべてではない。
死んだ者、まだ生まれてこない者たちも含めた
広い視点でこの世界を見るとき、
初めて私たちは
現代の価値観を絶対正義とすることの
傲慢と愚かさに気付く。

まさしく(私達が今頑張っているのと全く同じように)
私達の前の世代、その前の世代も、
みなそれぞれの時代において最善を尽くしてきたはず、
そう肯定的に信じる根拠がある。

それが祖先への自然な敬愛と尊崇の念と呼ぶべきものかもしれない。

私的な祖先のことだけではなく、国全体の祖先たちに対しても
全く同じことが言えると思う。

たとえば先の大戦に関しての祖先の行いや決断に対して、
否定的な側面からのみ断罪するような教育や報道が
強力になされ続けている。

占領下に流布された虚偽の数々が
今や明らかにされているにも関わらず
いまだに当時の日本の行いに一片の理も認めないような
戦後日本の空気のこわばりがある。

だが大戦時における祖先の必死の思いや真剣さを
単純に「過ち」「悲惨」という絵の具で塗りつぶすことは
その時代を最善を尽くして生きた日本人への冒涜だと思う。

それは歴史に対する謙虚さを欠くばかりでなく
人間としての健全な精神を著しく阻害する状況と
言わざるをえない。

私にとって
12月8日は大切な祖母の喜ばしい記念日であり
また祖父母を含めた祖先に対する誇りと
日本人としての矜持を再確認する日なのである。

春までおやすみ

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サシルイ川の秋(知床)

「もう12月になってしまったのか・・・」
季節の移ろいの何と確かなこと!
ささやかな個人の想いや感情の起伏に関わりなく
確実にやってきて、そしてあっさりと去ってゆく。

「あはれ今年の秋も往ぬめり」

一生の内あと何回、秋を迎えることができるのか。
そう思うとやり残したことばかり頭に浮かぶ。

先月から数えて知床での撮影は3回行った。
主な目的は川に現れるヒグマであるが、最近はいい場面に
出会うことがない。

今年はやむをえない事情で撮影に入る時期を逸した。
目指した川にはもうサケの姿もなく、漁師さんに尋ねてみると

「もう魚(の時期)も終わりだよ、今年は少ないなあ。
熊も食べもんがねえし、もう山奥に入ったんじゃないかな」

そうか、もう冬籠りの準備に入ったんだねえ。
子を産む母熊は少し早目に穴に入るのだけど。
今年はオスもみんな早く寝ることにしたのかな。

また来年、元気な顔を見せておくれよ。
くれぐれも町の方に出てきて撃たれないように・・
春になったら山に逢いに行くから、待っていて欲しい。

冬タイヤ交換、冷や汗のおまけ

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もうすぐに雪がやってくる。
先月、知床の撮影に出る前に家の駐車場でタイヤ交換をした。
物置から引っ張り出した4本の冬タイヤは、冬眠ならぬ夏眠を
終えて出てきた熊のよう。GW以来お久しぶりの対面である。

ジャッキで車を持ち上げて十字レンチでボルトを外し、夏タイヤを
外す。(ご苦労さん、また来年頼むよ)

冬タイヤを付ける。回転の向きが決まっているから装着時に確認。
ボルトを締めて、ホイールキャップを付けて・・

4本すべてを換え終わると、寒空にも関わらず汗びっしょりだ。
何だかとてもうきうきした気分になる。
早く雪がふらないかなあ、などとこの時ばかりは心待ちだ。

さて勇んで知床に撮影に出たのだが、1時間ほど走った岩見沢で
右後ろのタイヤ付近から妙な音が聞こえてきた。

「シュッ、シュッ、シュッ」まるで蒸気機関車のようだ。

スピードに合わせて音が速くなったり遅くなったり。
音が大きいので不安になり三笠のスタンドで診てもらったが、
「ブレーキシューが減っていて引きずっているのかも」
と言われた。分解点検できないからよくわからないとのこと。

その後小康状態だったので、札幌に戻らずに先へ走った。
富良野での撮影を終え、今度は上川から丸瀬布へ。

そのままオホーツク海側へ出て、一路知床へ向かうつもり。
片道400kmを超える長旅である。

ところが、網走まで来たときにまた例の音が始まった。
しかも今度はシュッ シュッどころではなく、
「ぎちっ ギュチギュチッ」という何かをにじるような音。

こりゃまずい・・さすがにこんな音が出るなんてオカシイ。
網走の国道沿いにあるディーラーショップに行く。
メカニックに数分乗り回してチェックしてもらうと・・
「タイヤのボルトが緩んでました。」
唖然としてしまった。

タイヤが走行中左右にぶれながら出していた音が、
一連の異音の正体だったのだ。
「あのまま知床まで走ったら、タイヤが外れていたかも」
と言われ、危機一髪だったことに冷や汗が出た。

これからはタイヤ交換時のボルト締めはきっちりしよう。
今まであまり意識していなかったけれど・・

旅を終えるものたち

Pink_Salmon

知床半島の川で撮影しているとき
たくさんの遡上するカラフトマスを見た。
長い旅の果てに帰ってきた彼らは
故郷の川で 最後の仕事 繁殖の営みを終えて
今 眠りにつこうとしている。

早朝 冷え込んだ秋の川で
ふらふらと、力尽きて流される一匹のカラフトマスを見た。
懸命に体をくねらせて川岸の溜りにたどり着くと
先に逝った仲間の体に寄り添うように静かに横たわる。

瞳に映る晩秋の高い青空に 白い雲がひとすじ流れていた。
ああ
なんだろう この胸の底にうずく哀しみは
魂の共鳴とでもいうような
深いところから湧き上がる哀愁に満ちた感動は・・・

その瞬間
僕はもしかすると
生命の根源のようなもの 宇宙の真理というものに
億万年のときを飛び越えて
触れていたのかもしれない。

知床連山から吹き下ろす秋の風は
かすかに冬の匂いがした。

マガンの秋

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宮島沼が大賑わいの季節である。

美唄市にあるこの池は、シベリアから渡ってきたマガンたちが
本州へ渡る前にひととき羽を休める一大拠点だ。
多いときは6万を超えるという数が集結する。

ここ数年やや減少気味だとも聞くが、どうなんだろう。

このたくさんのマガンたちが、
夜明けとともに一斉に湖面から飛び立つ様はまさに壮観だ。
幾たびかの鳴き交わしが盛んに行われた後
羽ばたきは突然起こる。

数千、いや数万羽が黒い雲のように水面から湧き上がる。
轟音は天まで届かんばかり
黎明の空気を振るわせるその響きは
スサノオの天の詔琴もかくやと思わせる。

興奮の一大イベントであるが、いつもこの一斉のねぐら立ちが
見られるとは限らず、ちょぼちょぼと小分けになることも多い。

(脅かすと一部が慌てて飛んだりして乱れるので、なるべく
近づかずに観察しましょう。)

小学生の頃、「大造爺さんと雁(がん)」というお話を国語の教科書で読んだのを覚えている。
羽の一部の白い模様から「残雪」とあだ名されている賢いリーダー雁と、猟師の大造爺さんの、毎年繰り返されるかけひき合戦、頭脳戦。

ある年、連れ合いの雌の雁が怪我をして動けないのを守ろうとして
大造爺さんの前で逃げずにじっとしている「残雪」を見つけた爺さんが
「よきライバル」を撃たずに逃してやるという、いい話だったと思う。

マガンの季節にはこの話を思い出して懐かしい気持ちになる。
食えー、食えーと大声で鳴いているマガンだが、なんだかホロリとして
食指を動かす気持ちにはなれそうもない。

逝きし国士の面影

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今日 私は大切なものを失った。

我が国を愛し想っていたと断言できる数少ない
政治家・中川昭一氏の訃報に接して
時が経つにつれ無念と悲痛が湧き上がってくるのを
如何ともしがたい。

一面識あるわけでもないというのに
私ごときの胸にすら迫る この空虚な失意は

中川氏の言葉に底流する保守の真理と知性
国を想い、信念を貫く一途で真摯な姿

そして
軽薄な商業主義にまみれ
価値の光を見失った世の中で
健全な未来を取り戻すために戦おうとする
氏の情熱への
限りなき追慕の想いゆえである

実直真面目な愛すべき酒豪
人間味あふれる英才・中川昭一氏
彼の人が皆に示した保守の精神への回帰の道を
私なりに心の指標として刻んで生きていこう。

氏は毎夏 靖国神社の英霊に詣でられていた。
私は、中川昭一氏もまた戦なき世の真の国士として
我が国を卑下し溶解させんとするものたちとの戦いに殉じて
英霊になられたのだと信じる。

心から冥福をお祈りするとともに
これまでのご努力、ご功績に感謝を捧げ
心の中でのお別れを申し上げた。

(願ハクハ共ニ我国ノ未来ヲ見守リ下サランコトヲ・・)