未分類」カテゴリーアーカイブ

15年ぶり涸沢カール訪問記(後編)

◆雑感その1 山の挨拶ルール

前穂高を望む(横尾)

橋を渡る登山者たちの声で目が覚めたら六時半だった。
今日は戻るだけなのでゆっくりでよいが、体はすぐに動いた。
少ない酒が変な夢を見せたのか、寝返りを打ち続けたせいで体の節々が痛い。
外を覗くと他のテントはほとんど撤収していた。
空は曇っていて暑くもない。歩きにはちょうどよいだろう。

荷造りをしてテントを撤収し、八時過ぎに横尾を出発した。
徳沢へ向かって歩く。前から来る人の群れ、群れ、また群れ・・・
「こんにちはー」「こんにちはー」と挨拶を交わす。

初めのうちはにこやかで丁寧な声が出る。ああ、みんな元気ですね、お気をつけてと思う。
だがそれがひっきりなしに続くうちにウンザリして、遂には下を向いて黙って過ぎる。
そのとき感じる軽い罪悪感が、鬱陶しい。
この挨拶のルール、誰が広めたのだろうかと恨めしく思ったりする。

◆雑感2 お手手つないで

横尾から徳沢へ向かう森の道

徳沢園でひとやすみ。お汁粉を作って飲む。これが元気が出る。
薄曇りで、風が気持ちよい。
出発する。明神まで1時間かからないだろう。
日の差し込む気持のよい林の中をどんどん歩く。前をゆくカップル登山者。
見るとしっかり手をつないでいる。
若い二人だな、微笑ましいではないか。



しばらく同じ歩調で、彼らの後ろを歩くことになった。見るとはなしに見る。
この二人、片時も手を離さない。ぴったり肩を寄せ合っている。・・・少し呆れてくる。
エイ顔を見てやれ、と追い越して振り返ると、歩きながら微笑み見つめ合い二人だけの世界。
毒気を抜かれ、お幸せにね・・と念じて、もう振り返らずに早足に遠ざかった。

昨今、山でお手手つないで歩く男女が多いが、いい歳して幼稚園児みたいで不自然である。

◆雑感3 山ガール

明神岳を望む(明神にて)

「すみませーん、お先に失礼します・・」
後ろから声をかけ、元気よくスタスタと追い越していった女性ハイカー。
小柄だが足が速い人だった。小気味好いリズムで遠ざかって行く。

明神に着いて休んでいると、さっきの彼女が近くのベンチに座っていた。
彼女はさっと飲み物をのみほし靴を履き直すと、凛々しく立ち上がりザックを背負った。
隣に座っている女性に軽く会釈をして、颯爽と上高地へ歩き出した。

一連の動作がじつに自然で、滑らかで優美で、僕はその人の去りゆく姿に見とれてしまった。
気持ちのよいものを見たと素直に思った。

ありがとう
山ガール

あんな人がいるのだから、山ガールも馬鹿にしたものじゃないな・・
僕は少しばかり頑迷だったと反省し考えを改めた。

◆雑感その4 上高地を去る / 沢渡(さわんど)温泉

人にとって芸術とは何かと考えさせられる

混み合う上高地ターミナルから、臨時増発のバスに乗りこんで沢渡の駐車場へ向かった。
「木漏れ日の湯」を楽しみにして、最寄りの駐車場に車をおいて来ていた。
上高地に通っていたころ、必ずここで汗を流し山行を締めくくったものである。

車に戻って温泉道具を持ち出すと、道路を渡ってログハウス風の建物に歩み寄る。
しかし入り口に鍵がかかっていた。
誰もいないし、どこからも入れない。今日は休みなんだろうか?

バス停の切符売り場のお姉さんに尋ねると、経営者の身内にご不幸があり営業していないとか。
そうか・・やっぱり十五年も経っていたんだよな。心に静かな冷たい風が吹き抜けた。
建物はそのまま残っている。その光景が余計に寂しかった。

少し下流の「梓湖の湯」で汗を流して、今回の山行の終了宣言とした。

W杯後記 _ ロシアとソ連は別ものである

🔹サッカーの祭典に見たロシア民族の誇り

わたしは有名選手たちの活躍よりも、開催国ロシアの戦いに注目していた。
国を代表するチームは、その国情を多かれ少なかれ、反映するものだ。
「ロシアW杯2018」は現今の国際政治の流れに照らして、運命的であった。

ソビエト政権という異形の支配者による暗黒時代から解放されてから27年。
ついに「ロシア民族によるロシア」が世界の檜舞台に立つ日がきた。
スタジアムを埋め尽くした大観衆の後押しで、好成績もついてきた。
下馬評で最弱と評されたロシアチームは、気力溢れる見事な戦いでベスト8に輝いた。

試合前の国歌吹奏でロシア選手や監督たちが見せる、深い眼差しと表情はじつに印象的だった。
共産政権下の75年に及ぶ苦難の歳月に失われた、二千万同胞の無念の魂への哀悼なのだろうか。
或いは、国を奪われて味わった塗炭の苦しみを乗り越えた、民族の歴史への誇りかもしれない。

 

🔹ソ連とロシア_悲劇のユダヤ革命

「ソ連時代を通じて●回目の、ロシアとしては初めての・・」とTVのアナウンサーが話す。
ロシアはソ連とは別の国家だということは、ほとんど理解されていないのだろうと思う。

だがこの事実を理解しなければ、世界の真実に迫ることはできない。

ロシアは1917年のボルシェビキ革命によって、一度は滅ぼされた。
その革命を起こしたのは、ロシア人ではなかった。
ユダヤ人革命家(レーニン、トロツキー、ジノビエフ、カメネフら)だった。
私たちが教科書で学んだ「貧しいロシア人労働者たちの蜂起」はウソである。

ロシア革命とは、少数派のユダヤ人がロシアを乗っ取った事件なのである。
そして欧米のユダヤ財閥が、彼らに巨額の援助をしていた。
(ロスチャイルド、ヤコブ・シフ、JPモルガン他)

当時の書籍はその間の事情をつまびらかにしているので、一例をあげる。
(残念ながら日本の二冊は戦後GHQの没収で絶版。私は古書店で入手した)

  1. 『The Jews』ヒレア・ベロック原著(1922年)/日本語訳『ユダヤ人』 2016年 祥伝社 (渡部昇一監修)
  2. 『世界的に激化するユダヤ問題と日本』宇都宮希洋 著 1939年 内外書房(宇都宮氏は陸軍所属)
  3. 『ユダヤ民族の対日攻勢』武藤貞一 著 1938年 内外書房(武藤氏は元毎日新聞社主筆)

革命政府によりロマノフ王家一族は虐殺され、ロシア国民は恐怖社会に突き落とされた。
秘密警察KGBが日常的に目を光らせる、暗黒の年月が始まったのである。

政権を批判した者は「反革命思想の持ち主」として逮捕投獄された。
「労働者」でない者、あるいは「ブルジョア」の烙印を押された者も同じ運命だった。
そうして普通の人々が次々と強制労働と獄死、あるいはその場で銃殺されたのである。
その数は二千万以上で、ナチスを遥かに凌ぐ蛮行にも関わらず、なぜか世に語られない。

***

戦後の「シベリア抑留」の記憶は、私たち日本人に「反ソ連」の感情を刻み込んだ。
それがそのまま「反ロシア」になっている観があるが、それは正されるべきであろう。
なぜなら、上述の通りロシア人たちこそソビエト政権の最大の犠牲者だったからである。
歴史の事実が示すものを、私たちは偏見を捨てて学び直すべきではないだろうか。

今後、世界で重きをなすロシアを、過去の間違った認識に囚われて誤解しつづけるならば、
望ましい日露関係を築く妨げとなるばかりか、世界の情勢変化にも立ち遅れることになろう。

🔹2017年、トランプ大統領が米国に誕生

米国民が覚醒してトランプ大統領が誕生した。この意味はとてつもなく大きい。
一言でいえば世界は「秩序の破壊」から「正常化」へ踏み出したのである。
隠されてきた世界史の真実が、これから次々と明るみに出てくるだろう。

この一年間で、欧州にナショナリズム復権の波が堰をきって溢れ出してきた。
民族意識の高まりを反映して、仏、伊、墺国などに右派政党が台頭してきた。
これぞユダヤ財閥による「共産主義思想によるグローバル化(世界統一)」の策謀に対し
欧州の国民が立ち上がった「民族レジスタンス」の大波と呼ばずして何と呼ぶか。

イギリス国民は、これ以上EUに留まれば伝統の英国は滅びると悟り、離脱を決した。

対照的に、独のメルケルは「多様性と寛容」を訴えて中東から大量移民を受け入れてきた。
だが移民が人口の30%を超えて、ドイツ社会崩壊の危機に目覚めた国民は、彼女を見放した。
メルケルは迷走して中国共産党と結ぶ愚を演じ、ドイツの将来をさらに危うくしている。

トランプは米国内のユダヤ勢力のうち「イスラエル民族派」と結んで世界戦略を立てている。
そしてウォール街のグローバリズム派ユダヤ勢力と、水面下で激しく戦っている。

“国境をなくして世界を統一する”という、ロスチャイルド、ロックフェラーやキッシンジャー、ブレジンスキーらが広げてきた大風呂敷は、いまやボロボロに破れて穴だらけなのだ。

欧米や日本のフェイクメディアの必死の洗脳も、追いつかない速さで世界は変わりつつある。
国民はもう新聞もテレビも、信用しない。フェイクニュースを見抜こうと目を光らせている。
グローバリズム(国家を破壊して世界を市場で統一する)の陰謀は、破綻したのだ。

この情勢に、愛国者プーチンの率いるロシア民族が輝きを増してきたのは自然なことだろう。
わが日本も、安倍首相を後押しして日本ファーストで国民がまとまっていかねばならない。

🔹ロシアは、ソ連ではない

「シベリア抑留」はソ連政権がやったことであり、ロシア人の仕業とはいえない。
だが日本のメディアは、パブロフの犬のように「ロシアは悪、プーチンは極悪人」という。

だが私たちは別の視点をもったほうがよい。
ロシア国民の圧倒的なプーチン支持という現実を、素直に、かつ公平に見てみよう。
決して「独裁者による非民主的な圧政」などではないことが、すぐに腑に落ちるはずだ。
こうして私たちは、またひとつメディアの洗脳を脱して、世界を見る目が開かれるだろう。
(終)

春に寄せて

三月も半ばを過ぎました。皆さまは如何お過ごしでしょうか。
暖かい日が続き「春(^^)」と油断したところに寒雨の嵐来たれりの三寒四温。
ひと雨ごとに春の深まりを感じながらも体調には気をつけましょう。
ともあれ、桜色のそよ風がうずうずと待たれる毎日ですね。

🔹野鳥

「花粉非常に多し」との予報、それでも陽気に誘われて静岡市の池に野鳥撮影に出かけました。
この日の主役は鵜(ウ)。彼らは魚をウんと捕食するので、ライバルの釣り人や漁業者には不人気なのですが、改めて眺めるとなかなか味のある面白い鳥だと思います。
のんびりタイプ、せっかちタイプなど一羽ずつ性格が違うのがよく分かり、剽軽な顔つきも相俟って微笑ましいものを感じます。
頭のいい鳥なのでしょうね。長良川の鵜飼漁は余りにも有名です。

おしなべて野鳥は人に近寄りはしませんが、みんな賢くて素直で、愛すべき奴らに違いない、といつも思うのです。

夜明けから6時間、他にミサゴ、カイツブリ(地元名「いっちょもぐり」)、バン、カルガモ、アオサギ、ゴイサギ、カワセミ、ヒヨドリといった鳥たちが見られました。
そのほか、カケスが二羽頭上を飛んで対岸の朝日を浴びた繁樹に溶け込んでいきました。

ミサゴは鷹の仲間で、英語名「Osprey (オスプレイ)」です。空中から水面にダイブして魚を掴み飛沫と共に空へ舞い上がる、見事な狩りをします。幸運にもその日は私の目の前で披露してくれました。

🔹「梅が島」の梅

梅が島は静岡市を流れる安倍川の上流にあり「信玄の隠し湯」と呼ばれる歴史ある温泉郷です。この暖かな日ですからぜひ満開の梅を、と期待して行きました。
車道は所々で狭く、また曲がりクネっているので慎重な運転が必要です。ほぼ40分ほどで大野木地区の梅園に到着しました。見事な花盛りの樹は手前の半分くらいで、奥はまだ硬い蕾。
週末に梅まつりが開催されるので、それまでに咲けばよいがと思いつつ、見頃の樹をいくつか撮影してきました。

梅にうぐいす、というのは昔から定番の花札の絵柄ですが、薮や草地を好むウグイスが梅の花に来ることは実際にはなさそうです。
古くはメジロやヒヨドリなどを「うぐいす」と呼んだとか?然し春を告げるウグイスの美声は和歌にも詠まれており、まさかメジロと混同するとも思えません。
おそらく春の美しいもの、慶ばしいものを組み合わせた、古人の創作による絵柄なのでしょう。そういう自由な感覚が私は好きです。
想像力をのびのびと広げて、科学知識や合理主義の枠に縛られずに、世界を柔らかく素直に感じたいものです。

久々に更新です

思うところがあり暫く別の作業に没頭して、本来の撮影活動が停滞しておりましたが、
春も過ぎて夏に向かうこの時期、富士山麓で活動を始めました。
手探りで続けるうちにいろいろ見えてくると思います。

🔹富士山麓

昨日行ったのは富士山スカイラインの「西臼塚」の森。
時間が遅かったためか人影もなく、夕方の光に輝く木々の若葉がゆるやかな風に揺れていました。
降るような小鳥たちのさえずりです。森は生命に満ち溢れています。
小道をゆくと、注連縄に囲まれたご神木のミズナラが静かに鎮座していました。
我々の信仰心の原点、豊かな自然に育まれた日本人の素朴な感謝が、そこに黙然と在りました。

北海道の森は森閑たる神秘的な雰囲気で、その原始性を私は愛してやみません。
それに比べて、富士山麓の森には人の匂いを感じます。
それは親しい身近な存在としての森を感じさせ、北の森とはまた違う新しい感覚がありました。
山川草木にカミを感じ、その宿る神霊を信じて大切に守ってきたわが祖先たちを思います。
森は樹木の群れであるけれど、その存在の由来を静かに辿れば、宇宙を一貫する大きな生命に行き着く。
我ら人の営みもまた、その大生命の局所的な現れに過ぎない、そんな大きな思いに至るのです。

🔹祖先から受け継ぐ日本の信仰心

私は日本の信仰たる神道のこころ、古事記の世界にとても惹かれます。
何といいましょうか・・・
日々見聞きする言説、次々現れる新技術や商品の話題、国際金融とグローバル化。
みんな金銭がらみの、人間ご都合主義の作り物、胡散臭くて嫌気がさします。
そんな臭いものに囲まれて息詰まるなか、遠い昔の日本神話や神道の考え方は実に開放的で魅力的です。

天照大神あまてらすおおみかみを始め、八百万やおよろずのカミ様たちは私たちと同じく悩みもし、時に過ちも犯すご存在です。
それもそのはず、私たちはみな「天の益人あめのますひと」といってカミの子孫で、八百万の神様は私たちのご先祖なのです。
だから私たちの心は本来神性をもち素直で清らかに出来ています。それが現世的欲望に引張られて離れる異心ことごころが出る。その異心を祓い清め、本来の「清く明けき心」に還る、それが祓いなのです。

本居宣長は『古事記伝』第三巻で次のように日本の古代の「カミ」を解釈しています。

すべ迦微カミとは古御典等いにしえのみふみどもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に御霊みたまをも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣とりけもの木草のたぐひ、海山など、其余何そのほかなににまれ、尋常よのつねならずすぐれたることのありて、可畏かしこき物を迦微カミとは云ふなり」

つまり人はもちろんのこと、自然界の鳥や獣、木や草、海や山など、善悪に関係なく、尋常ならざる力を持っているものは、みんな畏れ多きカミとして敬ったのです。

日本の「カミ」観は実におおらかで、自然界に生きる人間の真理を語っていると感じます。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の絶対的一神教と根本的に違い、そこに人為的な約束事は一切ありません。
日本人の信仰は祖先崇敬の素朴な心で、信仰の根源に最も近いのではないかと思えるのです。
だから「これこそホンモノだ」と、心の奥の奥、いわば魂の次元でしっくり噛み合う感触があるのです。

私自身、幼い頃から古いものに憧れたり、現代的な科学合理主義に強い違和感を持ってきました。
それは日本人のDNA、いにしえをカミと敬う大きな宇宙観に発しているのだと思います。

🔹取り戻そう、日本の素直な清い心を

明治以前の日本は、安定し充実した日本の伝統に抱かれて、本当に自然な形で発展してきたと思います。
しかし西洋一神教文明との接触以来、その自然さは混乱し中断され、素直な心が霞の向う側に隠れてしまった。

明治以来、文明開化だ、進歩主義だと突き進んできたこの150年の間、己を見失った不自然が積み重ねられた末に、肥大化した我欲に囚われて、利便性の追求という単純な物質偏重に落ち込んでしまったように思えてなりません。

明治は西洋文明との衝突から始まりました。その不可抗力性と不運を理解した上で敢えて言いますが、この150年の経験は日本民族にとって大きな災厄であり試練でした。西欧との出会いは私たちの精神を混乱させ、欺き、絶望させ、遂には叩きのめしました。
明治史を彩る大日本帝国の華やかさと雄々しい活躍ぶりの中に、どこか哀しい調べがあるのは、裏を返せば、西欧による侵略攻勢の大なるに脅かされた、我らの先輩たちの命をかけた必死の戦いの絵巻だったからだと思います。
世界が拡大してゆく中で、ある意味必然的な流れがあったとはいえ、あまりに悲劇的な運命でした。
大東亜戦争は、日本を計画的に破滅させようと追い詰める悪意ある欧米列強に対し、我が国民が見せた全力の反撃でした。

敗戦後の日本は欧米金融勢力に屈服し、自らを小さく見せることでお叱りを受けないようにする臆病な子供のように哀れです。

そうした悲劇の歴史事実を率直にみつめ、正しい自己認識のもとに日本は出直すべき時だと、私は強く思うのです。
古い殻は、いつかは脱ぎ去らねばなりません。
それは決して「戦前に還れ」などという視野の狭い話ではありません。
私は「明治以前に還れ」といいたい。それくらいの精神的な大転換がいま求められていると思います。
米国、欧州を始め世界的に戦後秩序の再編が始まっている今こそ、日本も覚醒して再出発しなければならないのです。
そのことは、また稿を改めて論じたいと思います。

🔹この春の桜の回想

毎年見ていたのは、北海道神宮の境内や、函館五稜郭公園の桜たち。
静岡に移った今年はどこがいいだろう?なんだか気が乗らないままグズグズしていると
今年は開花が遅いと油断しているうち、あっという間に咲いて、雨ですぐ散ってしまいました。

諦めたあとで偶然出会う「残り桜」はひとしお嬉しいものです。
四月末に二度目の伊勢参宮を果し、立ち寄った三重県の美杉村で「三多気の桜」に出会いました。


またあちこちの見聞を記したいと思います。
今回はここまで。ありがとうございました。

新年のご挨拶と抱負

120106-D-0093

遅くなりましたが、新年のご挨拶を申し上げます。

昨年は日本全体がいろいろな意味で大きく揺らいだ年でありました。
東日本大震災による被害が最たるものですが、それに付随する形で今の日本の抱えている根深い病が一気に顕在化したように思います。
特に政府閣僚がこぞって当事者意識と大局観を欠き数々の失態が演じられました。

首相の無見識が復興着手を妨げ、脱原発の不毛な闘争が煽られている間、わが国が被った無駄な消耗は計り知れません。
未曾有の危機に対応できず幼稚さを露呈した政治に多くの人が危機感を抱きました。

政治の低劣さは、あくまでも彼らを国政に送り込んだ国民全体の責任です。
ひとりでも多くの国民が現実に目覚め、諸問題に対して私心を排し力強く見識を発揮して行動する平成二十四年になりますようにと、
天照大御神を始め八百万の神、そして国難に殉じた英霊を思い、静かに誓いを立てる次第です。

続きを読む

中島社長

shashou-01

強い衝撃を受けた。JR北海道社長・中島氏が書き置きを残して失踪というニュース。
8年前に私がJRを退職したとき氏は常務取締役で、笑顔の優しい温和な方だった。
直接の上司になったことはないが皆から慕われていた印象がある。
社長になられたのはごく自然なことだと思ったものだ。
それが今日の知らせに耳を疑った。


JR北海道が直面した今年の事故は確かに耳目を集めるものが多かった。
石勝線トンネル内の列車火災や信号機の故障、列車の部品脱落などで
監督省庁からの指導も多数に及んだと聞く。
新聞やメディアは例によって「過労による」「心労がたたって」という。
おそらくそれは正しいし、それ以外にはないだろう。
「温厚で責任感の強い人だったから」という。
それも間違いない。

だがこれらは無意味な説明である。問題の本質はほかにある。
私は今回の中島社長の行動を通じて企業経営者が置かれている立場の危うさ、重圧を改めて思わざるをえない。それは常に不特定多数の「敵対的な視線」に曝されている誰をも頼れない孤独と救いのない残酷な立場なのだと思う。

仕事だからという一言では済まされない常軌を逸した重圧を生む主因は
私はメディアによる一方的で執拗な企業叩きの報道姿勢にあると思う。
それが誠実な経営者ほど道義的に苦しむ状況を演出している気がしてならない。


先のJR西日本の運転士の居眠りによる脱線事故は悲惨な結果をもたらした。
事故で命を落とした人々の無念、関係者の胸の内は計り知れない。言葉も無い。
だがその思いを勝手に代弁するかのように正義面でJR西の経営陣をはげしく非難するテレビ出演者を見て、私は心の底から嫌悪を覚えた。
「あんたら、何様のつもりだ」と。
鬱憤ばらしさながらに、立場上反抗できない者をいじめて楽しむごとき報道姿勢、あくまで形式上の責任者を道義的に断罪する無軌道さは見るに耐えない醜悪さで知性の欠如そのものであった。


あえて言えば、事故はもう起こってしまったものだ。
100%防ぐことができたはずだとは誰もいえない。起きてしまった事実は返らない。
居眠りしたのは過酷な勤務のせいだというが他の運転士も同じ条件で働いている。
これこそが原因だ、などと言い切れるはずがなく、日常の何でもが事故の原因になりうる。
その意味で事故は運命という一面をもつ。人間の努力と注意の及ばない領域があるのだ。


JR西日本には社会的な重大責任がある。誠心誠意の補償と謝罪をするしかない。
だが誰もが同じように突然の事故で世を去る可能性はあって、この世に生きている限り我々はみな運命に対して同じところにいる。
JR経営陣は神ではない。事故に道義的責任を負うほどの全知全能の存在ではない。
それでも誰かを悪人に仕立て上げて、みんなで袋だたきにして正義面しようとする、ヒステリックで幼稚なその姿を見て哀しくなった人は実は多いのではないか。
マスコミの興味本位・面白主義は関係者のやり場のない悲しみと怒りを冒涜するものだ。
「どうしてそっとしておいてやらないのか。本当に悼む気持ちがあるなら」


JR北海道の中島社長が、どうか思い直されて皆の元へ帰ってこられることを心から願う。
かつて貴方を知りお世話になった一人として、どうか強い心で戻ってこられますようにと願う。

私には祈ることしかできない。

(photo: JR時代に車掌勤務中の小生)

被災者の方々への哀悼と

notoro-110307

その時、私は北海道東部、早春の雪が美しく輝く知床の森の中にいた。

静寂の中に風の音と海鳴りだけがかすかに耳に響く穏やかなこの午後に
東北地方を中心に関東・中部を襲った大きな揺れを感じることはできなかった。
撮影中は情報隔離状態の私が今回の事態を把握したのは、翌朝になってからだった。


本州の家族親族の無事が分かって安堵したものの、被害の実態が判明するにつれて暗澹たる気持ちになる。

同情ではない。突然に非日常に投げこまれ、問答無用の現実に命を曝されている被災者の心境をいくらリアルに想像しようとしても出来はしない。
もし私に被災体験があったとしても「今このとき」の彼らの必死の思いを共にできるはずもない。

ただ、大切なものの一切を失ってしまった彼らを待っている堪え難い空虚と絶望を想うとき、この世に生きていく誰もが逃れようのないある種の悲哀が強く胸を締めつける。


日常は突然前触れもなく非日常に変貌した。その過酷な現実に思いを馳せるとき今自分がここにあたかも部外者として存在していることの意味を考えざるをえない。

自分が当事者でないことには何の必然性も合理的理由もないからだ。

人間社会とは何と危うい微妙なバランスの上にある存在なのだろうか。


札幌に戻ってきたのが13日、こちらは幸い何事もなかったかのように動いている。

歴史上希有なこの自然災害で心ならず鬼籍に入られた方々のご冥福を心からお祈りする。

そして困難な復興に立ち上がるすべての同胞とその心を合わせ支えんことを願う。

タダほど怖いものはなし(慨嘆)

100220-D6-042

小生の住む札幌市では今年から「子宮頸がん予防ワクチン」の接種が無料化された。
これまでは自費負担で5万円かかる高価なもので、ありがたいと喜んでいる親御さんも多いかもしれない。

だが、しばしお耳をお貸しいただきたい。
このワクチンに関する情報は、かなり偏っていることにお気づきだろうか。
本来肝心の「安全面」に関しての説明がほとんど報道されておらず、
「無料」ということだけが強調されているように思われないか。

(ウチには女の子はいないけれど)気になったのでちょっと調べてみた。
するとやはりこのワクチンはかなり問題のある代物であることがわかった。
心ある人たちが今懸命にこの危険性を声を上げて訴えている実態に出会ったのである。

**
専門的な詳細は別途ご覧頂くとして、心配な点をかいつまんで説明しよう。
まず大きな問題は、ワクチンに含まれるアジュバンドという成分だ。
これは実はペット(犬や猫など)の去勢・避妊薬としても使われており、
専門家はこのワクチン接種によって女性が妊娠能力を失う危険性すら指摘している。

またこのワクチンはカナダでは既に使用禁止になっているという。
副作用による死亡例もあるらしい。

普通に考えて、これだけでも接種を控えるべき理由としては十分であり、
なぜ札幌市や厚生労働省は安全性の議論を敢て無視して接種を奨励するのか不可解だ。
国民の健康や安全を軽視する無責任な態度だと言わざるをえない。


先日、札幌の保健所の方がラジオの番組で言っていた。
HPVはそもそも女性のほとんどにいて、90%は自然に消滅していく。
残り10%の人のうち運悪く子宮頸がんが発現するのは1割ほどに留まるらしい。

その後研究が進み、現在ではHPVウイルスは子宮頸がんの主な原因とは
いえなくなっているとのことだ。ワクチンもHPVに対し6割程度の効果しか
期待できないという。

さらに、HPV(ヒトパピローマウイルス)には種類がたくさんあって、
この輸入ワクチンが効果を上げるとされるウィルスの型は欧米人には多いが日本人には少ないタイプだという。

つまり大和撫子には役に立たない薬を、税金を使って大量に輸入している・・・
喜ぶのは薬を売る外国製薬会社のみだ。

**
わが国では子宮頸がんにより年間3000人以上が死亡している。
この数字は痛ましいし、何とかしなくてはいけない。
だがこのワクチンをあたかも救世主として仰ぐほど無意味なことはあるまい。

以上述べたように危険が多いだけで効果はほとんどない代物なのだから。

子宮頸がん自体は、検診で早期発見をすれば治療できるものだという。
ワクチンは副作用のあるもので、ゆえに「劇薬」に分類指定されている。
安全性を考えて、むしろ定期検診を周知し充実させる方策を考えるべきであろう。

手軽な劇薬をみんなで接種する方向を奨励するのは、やはりおかしい。

げに恐ろしきは無知なる善意
宝珠の無垢な乙女らを危きにさらして
「われ善を為せり」と悦に入るこそ浅はかなれ
市政の軽薄、偽善の姿ここに見たり

このワクチンを全国で無料にするべく運動している人たちがいる。
単なる無知によるものなのか、それとも恐るべき悪意があるのか・・・

いずれにしても賢明なる我々国民はこのワクチン接種は避けるべきであろう。
まさに「タダほど怖いものはない」のである。

(写真:芦別岳と空知川冬景色)

※上で紹介した詳細は以下で見られます、ぜひご覧いただき共に考えて下されば幸いです。
(URL全体を指定して右クリックからブラウザを開いてください)

○ ワクチンによる危険について知らせる動画とブログ↓
チャンネル桜「(薬害の恐れ)子宮頸癌予防ワクチンの危険性」H22/7/29

「サーバリクス子宮頸がんワクチンによる民族浄化」弁護士 南田喜久治氏

ブログ THINKER 「子宮頸がんワクチンの危険性」
http://www.thinker-japan.com/hpv_vaccine.html

ブログ「老婦人の日記」(子宮頸がんワクチンを打つのは待って下さい!)
http://blogs.yahoo.co.jp/sannsyou91/25334920.html

○こちらはワクチン接種を奨励する記事↓
徳島県医師会
http://www.topcs.or.jp/special/122545452297/2010/05/2010_127336861757.html

リポンムーブメント(女子大生によるワクチン接種奨励運動)
http://ribbon-m.com/

○ 参考
新型インフルエンザに関する記事
「待って!そのワクチン本当に安全なの?』

外国の製薬会社と利権絡みで、またぞろ汚い世界が動いているようです。
日本人は危機感が薄いので世界中からカモにされているのでしょう。
薬害エイズの教訓です。厚生労働省もあてにはならない。自分の体を守るのは自分。