大雪山・高原沼の紅葉

Kogen_Onsen121

予定していた道東の取材を変更して大雪山の高原沼に入った。
この地域での撮影は私の秋の恒例行事である。

ただ今年はあまり時間が取れず、一日だけの取材となった。
その日は朝から曇りで紅葉撮影には向いているとはいえなかったが、
私は「どんな状況でも必ず美しさはある」と信じている方なので
勇んで沼巡りコースに入山した。

大学沼までの往復(ヒグマ出没のため規制されている・・・)は
慣れた道とはいいながら、毎回感動的な自然の色がちりばめられていて全然退屈しない、希有なルートである。

光が鈍い分、画面構成と対象の絞り込みに頭を使うので、
これはこれで結構面白い撮影ができたと思っている。

途中の沼でのんびり撮影しながら大学沼に着くと
大勢の人々が昼食を摂っている。
私も皆にならって今朝車の中で作ったおにぎりを頬張る。

「人間は米さえ食っておけば死にはせん」
いつか伯父が言ったことは私を支えている真実である。

帰りに林道沿いの渓流で釣りをした。
いかにも釣れそうな渓相なのだが、どのポイントを攻めても
不思議に全く当たりがない。

「まだ水温も高いのに、オショロコマ一匹かからないとは???」

昨日の雨でやや増水気味とはいえ、この程度なら問題なさそうだが。

もしや凄腕の釣り師が先に全部釣ってしまったのか?
それともエサが悪かったのか?(私はブドウムシを使っていますが)
高価なイクラでないと食べないのかな?

どなたか、9月のヤンベタップ川でオショロコマを釣るコツを
ご教授下さいませ。去年も全く駄目だったので悔しい・・・

浮島湿原

Ukisima-shitugen0111

北海道森林インストラクター会の総会と実地研修で、久しぶりに道東の浮島湿原を訪れた。
すっかり秋色の高層湿原、標高800mの風が汗ばんだ体を冷やしていく。
静かな別天地。
人間が訪れる前、はるかな昔から
オオルリイトトンボたちは生を営んでいたのだろう。
遠く大雪の峰が見える。新雪を薄くまとったのは旭岳。
もう冬がそこまで近付いている。

えっ夫婦別姓?

Sounkyo-Ginryu041
今回は怒りの投稿になってしまった。

実は取材中に「夫婦別姓が導入される」と聞いたので
初め携帯メールから字数制限のある中で一度投稿した。
しかし、いかんせん感情が先走ったうえ
字数が足らず論点がずれてしまった。情報も正確ではなく
早とちりもあったと反省している。
改めて、修正させていただく。

夫婦が同じ姓を名乗ることは
日本の伝統ある社会安定の知恵だと思う。

そもそも、現状に何の不都合があるのか?
なぜ、わざわざ変えようとするのかわからぬ。
麗しく自然な先人の知恵の価値をなぜ切り捨てる?

過剰な個人尊重と過去を切り捨てるムードが社会にはびこり、
ついに手をつけてはならない部分にまで、魔手が伸びるのか。

私たちの当たり前の秩序と幸せが壊されようとしている。
歴史への敬意と見識のないものたちの正体見たりという思いだ。

この変更は「大した影響ない」ことでは決してない。
社会の在り方、人間関係の在り方のすべてが
根底から変わってしまう重大な意味を持っている。

もし単純に「選択肢を増やすのだからいいことだ」と
思っているとしたら大間違いだし、認識が浅すぎる。

先人の連綿たる歴史と今を生きる個人の繋がりが断たれ、
過去の社会制度すべてが「博物館送り」となり
「生きた意味を持たない遺物」になってしまう。

それは、この国の実質的滅亡を意味する。

私はこの愚行を行う者を決して許せないし、
日本人同胞はこの問題にもっと関心を持ってほしいと思う。
(下手すると来年通常国会で成立する可能性がある)

今回は写真とは関係ない話だが、自然を相手にしていると
現代人の落ち込んでいる暗闇がよく見え、さらに古代からの知恵の
素晴らしさを身にしみて感じることが多い。

私たちの先人たちが守ってきた社会秩序を、当世代だけの考えで
自分勝手に都合よく変えてしまう行為がいかにも軽率で浅薄、
卑しく下品なものに見えて仕方がない。

この現代をむしばむ進歩主義的な考え方は、
いわゆるマルクス主義からきているのだろうか。
主導する人たちが社民党だということは。

鳩山首相は前向きではないらしいが、このような破壊的な
法案は突っぱねる良識を見せてほしいと切に願う。

自己施肥

Sounkyo-Obako013
北国の秋の彩りの中でもナナカマドとモミジの赤、
カツラとヤチダモの黄は群を抜いて美しい。

紅葉目当てに層雲峡大函に来たが
川岸にハンノキが多いせいか今ひとつ地味だ。

晩秋に濃緑から茶色に変わり
そっと冬支度をするこの木は見えない実力者で
根に住まわせた菌に空中の窒素から
肥料を作らせるのだ(自己施肥)

地味な実力者については人の世も同じで
静かで思慮深い人ほど皆を支える強さを持つ。

私たちも
能ある謙虚な鷹を尊敬する精神風土を取り戻さなくては・・・

十勝岳のキタキツネ

090922-D-240

白金温泉付近のキャンプ場で迎えた朝は
小雨が上がった雲間から青空が見え隠れ。
秋風の冷たさの中、日差しのぬくもりにはまだ夏の名残り。

さわやかな大空に弧を描くのは 三羽のトビ。
上富良野の黄金色の田や、収穫の終わった畑を
上空から餌を探しているのだ。

昨年11月の雪山研修以来、約一年ぶりの白銀荘で
お湯を頂く。連休中で洗い場の混雑はすごい。

ここの露天風呂の雰囲気が好きだ。
39、44、46度Cの三種類の湯がある。
真冬なら46度にも入れるが、今は39度が精いっぱいだ。

白銀荘を後に、十勝岳温泉凌雲閣へ。
十勝岳、上ホロ、富良野岳への登山客で賑わっている。
昼過ぎなので、早くも下山してきた人たちだろうか。
今日みたいな天気は絶好の登山日和だ。
さぞ気持よかったろうな。

駐車場にキタキツネが現れ観光客の耳目を集めている。
餌をやらずに写真だけ撮る。キツネはもちろん餌を
期待しているものの、微妙な警戒心は捨てずにいる。

***  ***  ***

人間と野生動物の距離についてはいつも考えさせられる。
「餌をやるとキツネは自活できなくなる」というのは通説だが
「夏は餌をもらって冬は自活!」というしっかり者は確かにいる。

思うに
餌をねだる動物を遠ざけるという優しい配慮の本質は
人の子供の躾(しつけ)をそのまま当てはめるようなもので
人の自己満足に過ぎないのではないか。

そもそも野生を失うとは、一体どんな状況を指すのだろう。
彼らは自分なりにいつも真剣に生きている。
夏に餌を誰からもらおうが、冬には当たり前に自活する。
それが野生ではないだろうか。

ガソリン心配

090917-D-173

風に誘われるままに山に入ってしまった。
今更仕方ないが帰りのガス欠が心配。
残り10Lを切っているランプ点灯。
地図には層雲峡にエネオスの印。だが記憶にない。
もしなかったら(-_-;

***   ***   ***

太古の静けさの森でナキウサギを待つうちに
心は清く正しく前向きになるのが不思議。

神様に祈ることで身を正し、物事を落ち着いて受け止める心境。
覚悟ができると不思議、みんな良い方へ流れ始めるのだ。
ガソリンもきっと大丈夫だ!

層雲峡にて

090917-D-097

天気小康、大函に行ってみる。

まだハンノキの緑が大半の中、ダケカンバの黄とヤマモミジの赤が
柱状節理の岩壁の上部に張り付き、陽光に輝く様が目を引く。

閑散とした駐車場で三脚を出し、
写真は撮らずに昨日洗った登山シャツを干した。

石狩川の支流ニセイチャロマップ川が本流に注ぐ辺りが大函、
少し下流で滝が連続している辺りが小函である。

数日で秋の錦絵は最盛期を向かえるだろう。
長い間遊歩道は通行止めで小函には行けない。
大函はダムと展望台ばかりが小綺麗で風情はあまりない。

昔はよかったと皆が言うのが悲しい。

雨の夜

090917-D-134

遠く沼の原に最初の滴を落とした石狩川。
大雪の清流を貪欲に集めて、今私の目の前で銀流の滝をも一呑みして、
闇の中を上川、石狩平野へと駆け下りてゆく。
この壮大なる川の長い旅を思う夜。
明日は雨は止むらしい。ナキウサギは顔を見せてくれるとよいがなあ。

山道を行く

090915-D-015

大雪山の一角、東大雪の中では登りやすいユニ石狩岳への道にいる。
重なり合う苔むした岩の上にハイマツが根を張り、
倒木の上にはびっしりと、これも名も知らぬ苔が蓋っている。
太古の気配の漂う神秘的な空間。

鳴兎園と呼ばれるこの場所で、名の通りナキウサギが暮らしている。
果てなく続くような静寂を破り、鋭い声がピキッ、ピチッと響く。

北の国からのご挨拶

090903-D2-002

静岡生まれの私が札幌に住み始めて、もう14年が過ぎました。
正直、思ったよりずっと長くなっています。

若干の計算違いと多数の勘違いのせいなのですが
一番の計算違いは、こちらで登山に目覚めてしまったこと、かな。
結局その流れで今の自分がおり、紆余曲折はありましても
「我 事において後悔せず」で頑張っています。

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私は写真家を名乗っておりますが
実はメカとしてのカメラにはそれほど興味もないのです むしろ疎い。
昔からコンテストや賞にも興味がなく 有名な先生のお名前にもあまり詳しくない。
そういうところがまるで素人っぽいと自分でも思います。

私の関心事は、自分と世の人の心、人の生きる本当の意味についてです。
それは深くてつかみどころのない、考えるほどに見失う、形なき雲のようなもの
そして、山や森にはその答えのかけらが、真実の扉がある
私はそれを感じていきたいと思っています

万年未熟の精神を抱えて自己と他者への不信の日々をなんとなく生きる
そんな典型的な現代人の弱さと臆病を自分の中にも見ているのですが

野生のものたちはそんな私を静かに叱咤し、導いてくれる気がします
彼らと森で出会ったときの素直な喜びは、疑いようのない真実との出会いだと感じます

そしてそれは、どん底にいても、いつでも再スタートをきることができるという
そんな根源的なエネルギーを与えてくれます。

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「私たちが自然を言葉で表す時、それはすでに自然ではなくなって
人としての心を通して、ひとつの物語を紡いでいる」
私はそう考えています。

きっと私の文章や写真はそのような思いを映していくことでしょう。
科学的な考察やデータよりも、人間の直観と感受性を大切にしたいのです。

そんな思いを秘めた北の国の野生たちとの交感を、少しでも言葉に表せないかと思い
ささやかにブログを始めてみることにしました。

この世界では入門したての白帯ですが、どうぞよろしくお願いいたします。