あからさまな侵略の意思に対して

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この度の尖閣諸島における中国漁船による領海侵犯事件の顛末について、皆様はどう感じておられるだろうか。

日本の領海内で犯罪を犯し拘束され、国内法に従い裁判を受けるべき船長がなぜか処分保留で釈放された。彼は政府チャーター機に乗り込む際、Vサインをして「また尖閣で漁をしたい」とうそぶいた。

中国の強迫におじけづいた日本の菅内閣は、一言も弁を戦わせずに敵前逃亡。武力行使どころか経済制裁すらされていないのに、早くも怯えて「ちびった」のだ。世界史上希有なお子ちゃま政府の目を背けたくなる哀れさだ。


我々は世界の嘲笑を浴びている。軽薄な政権交代ブームに乗せられた2009年衆院選の歴史的大失敗のツケを払うのは国民だ。政治に無関心で自分の生活しか眼中にない日本人の因果応報とはいえ泣けてくる。

テレビ朝日は報道ステーションで「取り返しのつかないことにならないうちに、日本は譲歩すべきだ」といった。

NHKニュースでは「中国国内で日本に抗議するデモ」ばかり報道して、日本各地の「日本人の怒り」を伝えない。

今や完全に北京政府の操り人形と化した、卑屈な日本のマスコミ。
こんな報道に接していると、中国の言い分にも理があるような錯覚に誘導される危険がある。
「尖閣諸島は日本の領土だというのに、なぜ中国はこんなにも強硬に干渉してくるのか。
ひょっとして何か我々の知らない正当な根拠があるのではないか?」そんな疑心暗鬼すら出てきそうだ。

これは尖閣諸島を「中国に配慮して」きちんと実効支配してこなかった自民党政府の弱腰と、歴史的経緯をマスコミや学校教育がきちんと国民に教えてこなかった怠慢に起因する、日本人の自信のなさの表れであろう。熱狂的なナショナリズムなど必要ない、本来淡々と事実を知ればわかるレベルの話なのに。

私自身は「尖閣諸島は日本の領土で中国が資源を狙っている」という認識だったが、今回新たに知ることが多々あった。

中でも、現在尖閣諸島は私有地であることは知らなかった。かつて石原慎太郎氏が国会議員時代、防衛のため買収を申し入れたが丁重に断られたという経緯がある。昔からしっかりと日本の法律が及んできたことがわかる。

そして歴史的経緯について。
日本が尖閣諸島を領有する宣言をしたのは明治18(1876)年で、当時シナ(清王朝)の支配は及んでおらず、その後の中華民国も日本領と認めていた。
例えば、難破した福建省の漁船の乗組員が尖閣の日本住民に助けられる事件があり、中華民国は日本政府に感謝状を出している。尖閣には戦前まで日本人が多く住み、缶詰工場もあった。
今は誰も住んでいないが、戦前は覇気のある多くの日本人が夢を持って海外雄飛した時代だったことを考えれば、離島とはいえ漁業資源の豊かな島に人々の生活が営まれていたことは驚くに値しないだろう。

そして大東亜戦争後アメリカ占領下にあった南西諸島が、昭和27年のサンフランシスコ講和条約により日本に返されたとき、尖閣諸島もその中に含まれていた。中華人民共和国政府は異議を唱えず、昭和30年代の中国の地図にも尖閣は日本の領土として記載されていたのである。誰も尖閣諸島が中国領だなどと言うものはいなかった。

**
中国が領有権を突然言い出したのは、1969年に国連アジア委員会がこの地域にエネルギー資源埋蔵の可能性を明らかにしてからで、72年の沖縄返還でこの地域からアメリカの影響力が減ったことも彼らにとって好機だったといわれる。

こうした歴史をみても尖閣諸島は疑問の余地なく我が国の領土であり、日本人は自信を持ってよいのだ。どんなに強硬でも中国側の言い分には一分の理すらないと我々は堂々と言うべきだろう。石原慎太郎氏は「中国は暴力団と同じ」と言った。シナ大陸の国は聖徳太子の昔以来、我々日本人とは常識を異にする文明であり、付き合うには慎重な工夫と警戒が必要な隣国であることは間違いない。

今日29日、仙谷官房長官は「中国がこんなに強硬に出るとは思わなかった、自分たちが甘かった」とのたまった(何を今更!)・・・彼はきっと、あの能天気な日本国憲法前文を無条件に信奉してきたのだろう。

「平和を愛する諸国民の信義と公正に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と。

だが中国共産党には信義もないし公正もない(北朝鮮にもない)。
愚かでおめでたい平和幻想に遊ぶ政治家は、一刻も早く国政の場から去ってもらいたいと強く思う。普天間問題しかり、平和ボケ民主党政権のもとで、我が国は日一日と国際的な信用と尊敬を失い続けているのだ。

民主党政権が終わったら、そのあとが大事だ。戦後65年で失った日本人の自立心と道徳、誇りを取り戻そう、その志を持つ政治家と政府を育てることができるのは、私たち国民だけである。同時にそれは歴史あるこの国に生まれた者としての義務でもあろう。

(写真:石狩川と層雲峡の秋)

クマを探した夏

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今年はあの尾根から探してみよう、あの沢に張ってみようなどと思いを巡らした夏の大雪山。
豈図らんや、誰もが驚くとんでもない集中豪雨に見舞われて、道内各地で道路の崩壊や洪水だらけ。
入山にも危険が生じ、考えていた撮影計画はほとんど白紙に戻さざるを得なくなった。

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国民精神はどこにある

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「人ごとではない」
「最後はみんな独りなんだ」
100歳を超えるお年寄りの所在不明が続発している。
生死すらわからない、連絡がとれないという。
あろうことか家族による年金の不正受給まで起きているらしい。

本当にここは日本なのか?と背筋の寒くなる思いである。

ことほど左様に
異常を異常と感じなくなった現代社会。
一体感のないバラバラの、不安だらけの「個人」生活。
そんな中で、最後の拠り所たる家族関係すらこの有様とは。

今や血のつながる家族よりも
犬や猫というペットが家族だそうだ。
自分の気に入ったものだけあればOKという思い上がりで
人のつながりを軽視あるいは忌避した結果
却って人生を損なっていることに
どれほどの人が気づいているだろうか。

**
いわゆる「家族の崩壊」について考えるとき
私はいつも、現行の介護保険制度が頭に浮かぶ。
これは親を他人の手にゆだねることを制度化してしまったもので
いわば法による「親不幸ノススメ」、天下の悪法だと思っている。

制度導入時、会社員だった私はいいようのない嫌悪感を抱いたものだ。

親の介護は確かに労ではあろう。
しかし、老いた両親を子が看るのは当たり前のことで
人としてまっとうなあり方だと誰もが分かっているはずだ。

介護保険制度は、その自然な親子の情を安易に削ぐものだ。
目先の労苦を取り除くことだけを重視し、人の気持ちを捨象している。
すなわち老親の世話を「苦役」と見る非情さを不問に付している。

どんなに親切な介護ヘルパーも、しょせん他人であり
この世でかけがえのない家族に代わる存在ではない。

親の世話を他人様に頼む場合、相当な苦悩があってしかるべきで
それを制度にしてしまっては人の心は浅く薄くなるばかりである。
介護の手が足りないケースについて根本原因は何かを含めて
人の心に本当に必要なものは何なのかを
もう一度よく考えてみるべき時期ではないかと思う。
(この制度はもともと見直しを前提でスタートしたはずだ)
安易にヘルパーを増やせばいい問題ではないし
ましてや、外国人労働力に頼るなどもってのほかだ。

**
とにかくも
百歳まで生きることは間違いなく言祝ぐべきことであってほしい。
邪魔にされたり行方不明とはあまりに悲しい。
いずれは自分の行く道でもあるのに。

戦後あまりに個人の自由を優先したために
家族の意味も
先祖から子孫への繋がりの意味も
肌で感じられなくなった日本社会がある。

現在の自分のことしか考えられない国民の心の空しさを
私はこのうえなく重大な危機と感じている。

「幸せとは何か」とは答のない問いかもしれない。
だが人はみな老いるという現実に向かい合うとき
たとえ不便でも貧乏でも
心安らかに老いていけた昔日の社会秩序のありがたさを思う。

万古変わらぬ人の宿命に処する知恵を
先人の伝統精神から汲み取り示すことは
まぎれもなく
私たちの存亡にかかわる危急の課題であろう。

(写真:夏の十勝岳に咲いたエゾイソツツジ)

”夏の風物詩”にもの申す(NHKへの怒り)

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毎年よくもまあと思うほど、戦争関連の番組を並べる8月のNHK。
その内容はいつも決まって「旧日本軍の悪いイメージの刷り込み」だ。
ここまで一方的だと却って不自然ではないかとは、露ほども思わないらしい。

今夜は「ソ連によるシベリア抑留」を扱った特集番組だ。
少しは日本の立場に立った番組を作る気になったのかと期待して見てみた。

***
だがやはり期待した私が愚かだった。
「ソ連によるシベリア抑留で57万人の日本人が強制労働をさせられ、そのうち少なくとも5万5千人が亡くなった。」
これは事実である。

私は日本人として「よくもやったな、ソ連め・・・」と自然に思う。
あの頃を生き抜いた軍人の方々の苦労や苦悩を、ひとりの若輩としても
静かに想像してみるのである。「どんなにか帰りたかったろうな」と。

番組はソ連が抑留した日本軍人に対して行った洗脳(思想教育)の
巧妙かつ卑劣な手法を次から次へと悲惨さたっぷりに描き出す。
日本兵士たちの望郷の念を逆手にとって
「社会主義思想を身につけた者から帰国させる」と触れ込むソ連当局。

過酷な労働と、募る日本への思いから
抑留者の中にソ連に恭順する者が現れたのも無理はなかったろう。
当局はそうした者を優遇することで、さらなる裏切りや密告を奨励し
日本兵の連帯感を断ち切り、自ら共産主義に入信するよう誘導したのだ。

昨日までともに戦い信じ合ってきた仲間を裏切らねばならない。
日本人が日本人を売る、友達を密告する。
そうすれば日本に帰れると・・・

こうした話が抑留体験者へのインタビューを中心に語られる。
私は涙が出そうになった。

**
だが番組中ただの一度もソ連に対して批判的と感じられる表現はなかった。

またこんな部分もあった。
ソ連は抑留者たちの軍隊階級に応じて労働の重さや食事に差をつけることで
かれらの間に不満と反感をあおった。極限状態にあった彼らは、果たして
将校の吊るし上げやマルクス主義の勉強会を開くなど、当局の狙い通りになっていく。

番組ではこれを日本軍の階級組織の厳しさが引き起こした悲惨な状況として語るだけで、ソ連の人体実験の非道さという側面を無視した。

このように、事実を述べながらもその解釈が不自然な点が異様だった。
相手の悪行に触れないように無理に逃げ回っているように感じる。

そこで思い出されるのは、広島の平和記念公園の碑文である。

「安らかに眠ってください もうあやまちは繰り返しませんから」

主語がないので有名な碑文だが、マスコミは暗黙了解的に
「日本人のあやまち」という文脈で報道する。
原爆を投下し民間人30万人を大虐殺したのはアメリカであり
「碑文」は彼らに言わせるべき台詞であることは言を俟たない。

「戦争が悪い」とか「向うがやらねばこちらがやっていた」などと
喧嘩両成敗のように原爆投下を正当化するような態度は
一見大人の議論のように見えるが、とんでもないことで、
相手の強弁に正当な議論もできずに従うだけの臆病者の言い訳である。
そして被爆者や懸命に戦った同胞たちへの最大の裏切りである。

日本人の自意識を欠き、事実を曲解した番組を並べて
「戦争を風化」させているのは他でもないNHK自身であるとはっきり言っておく。

**
今日の番組もしかり。
シベリア抑留者たちは同胞を裏切り思想を転換させられた。
帰国後は「アカ」のレッテルを張られ就職に困るなどの多くの辛酸を舐めた。
それを番組は「国家と戦争に翻弄された人生でした」と簡単に締めくくった。
こんな人を馬鹿にした言い方があるだろうか。
「国家と戦争に翻弄され」などと…低劣で浅い歴史認識を自ら露呈している。
また人格を玩弄する思想洗脳を施したソ連の悪行にはいっさい批判もなし。
同胞を57万人(!)拉致し、不法に11年も強制労働させ5万5千人を死なせた相手に対して一言もないとは。
あなたたちはいったいどこの国のテレビ局なのか。

日本人を愚弄するNHKの態度はさらに続く。
戦後、シベリアに囚われの身になった家族を返せと
ソ連大使館前にデモ行進する大勢の日本人の姿の映像が流れる。
NHKはすかさずコメントを忘れない。
「この背景には冷戦を有利に運ぶためのアメリカの意図がありました」
「対日理事会でアメリカは、抑留者を返さないソ連を激しく非難しました。
共産主義のソ連が国際社会から非難される効果を狙ったのです。」

「抑留者を返せ」のデモはアメリカの都合で行われたというのだ。
あきれて言葉もでない。大勢の日本人の思いはNHKに全く無視された。
北朝鮮に拉致された同胞家族にも同じように言えるのか。日本人の気持ちに立った歴史認識を持てと腹立たしく思った。

まさか日本人の気持ちや立場を無視することが
公平公正な番組作りであるとでも思っているのか。
このような歪曲番組を作り続けるならば
N・H・K(日本放送協会)などと名乗る資格はない。
私は本当に憤りを感じている。
日本の歴史的立場や気持ちを無視し続けるNHKは、占領軍放送局である。

(写真:東京上空から 「この繁栄は誰のおかげなのか」)

もう黙って見ていられません

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本当は自然の記事を書きたいのですが
とても座して見ていられない状況になっています。

相変わらずどこをみても
お金の話「消費税」だけをテーマにして
7月11日(参院選投票日)が迫ってきています。

しかし何度でも指摘しますが
民主党の本質は
「自民党を倒す」だけが目的で集まった信念も価値観もバラバラの集団。
財源なき「子供手当」「高速道路無償化」というバラマキショーは
彼らに国政を担う能力も責任感もないことの証です。

しかしそれはほんの表面に過ぎず
もっとも恐ろしいのは、彼らのもつ共産主義的な価値観にあります。
それは「日本という国のかたち」自体を忌み嫌う考え方です。

その最もあからさまなものが千葉景子法相の唱える「夫婦別姓法案」です。
これはつまり日本社会から「戸籍」をなくすということであります。

個人はばらばらになり、「誰それさんの家」という概念そのものがなくなる。
もちろん子供はお父さんとお母さんの姓が違うことになるし
結婚も意味をもたなくなります。

夫婦別姓とはそういうデタラメな社会を現出させるものですが
この法案を、なんと千葉大臣は秋の臨時国会か来年の通常国会で
成立させるつもりでいます。ろくに議論もせずに!
頭がおかしいと思いませんか。

みなさま、どうかお目通し願います。6月30日産経新聞からの抜粋です。

千葉景子法相は29日の記者会見で、
選択的夫婦別姓を可能にする民法改正案と
人権侵害救済機関設置法案(旧人権擁護法案)が
民主党の参院選マニフェスト(政権公約)に記載されていないことについて
「マニフェストに載っていない、あるいはテーマになっていないことが
特段問題になることはない」と述べ、
参院選後も引き続き法案成立を目指す考えを示した。
(中略)
民主党が単独過半数になれば3法案を阻む要素はほとんどない。

こんなことを許していいのでしょうか。
ご先祖から受け継いできた家族のあり方が
一部の過激な社会主義者によって破壊されようとしている。
それも国民に気づかれないように「こっそりと」です。
マニフェストに載せないとは卑怯じゃありませんか。

私はここで、とても基本的な、しかし大切な認識を
改めて提示したいと思います。
マスコミは決して言わないのでつい忘れがちな点です。
それは・・

日本がここまで駄目になったのは「自民党政権が悪い」だけではなく
日本人全体がだらしない腑抜けになったからだということです。

特にきれいごとや偽善に弱く、問題が起きると責任逃れに走る卑小さ。
日本人(とりわけ男性)から勇気と気概、本当の誇りが消えたと思います。
そして自民党はそんな日本人の忠実なる代表だったのではないか。

では民主党ならそんな日本を「元気に」できるのか?
もちろんできません。

彼らこそ戦後日本人の卑小さ(悔しい)の結実した姿だと思います。
たとえば菅直人首相の言葉遣いや態度は
統治者としての自覚や政策を訴える意欲すら感じさせません。
(国会での居眠りや党首討論回避など、言語同断)
彼は日の丸と君が代が大嫌いで、天皇陛下への敬意も表さない。

さらに彼は以前、北朝鮮拉致実行犯の釈放嘆願書に署名しました。
拉致被害者のご家族の心中は察するに余りあります。

日本の国をまかせてはいけない人だということは明らかですが
テレビは言いませんね。こういう事実を。

みなさまに僭越ながらお願い申しあげます。
「反自民」や「新しい政治を」などというイメージやスローガンに流されず
公平で慎重な投票をしてください。
確かに、自民党には長年のイヤーな垢が一杯あります。
でもそれは、そういう政治家を育ててしまった私たち国民の責任です。
その隙を狙っただけの民主党政権は、国を壊す以外のことは何もできません。
(普天間を弄んだ無神経さや、口蹄疫対応の不手際は記憶に新しいですね)
これは決して「不慣れ」なのではなく、そもそも「資質がない」のです。

実は民主党の政策集を作っているのは、旧社会党の事務員です。
国なんかいらない、という考えの人たちが与党の政策を作っている。
(鳩山前首相は「日本列島は日本人だけのものじゃない」といいました)
いい加減そのものではありませんか。

テレビはそうした面をなぜか報道しません。
さらには故意に論点を「消費税」にしぼって
本丸の「夫婦別姓法案」「外国人参政権」「人権救済法案」など
危険な法案を私たちの目から隠そうとしているように見えます。

みなさま
どうかご自身の目で、インターネットなどで確かめてください。
そして国全体のことをまじめに深く考えている政治家を選んで下さい。

人気取りの甘い嘘ではなく
まっとうな国家観と先人への敬意をもっている人たちを探すこと、
それこそが、私たち国民の本当の義務だと思いませんか。

あと一週間弱、祈るしかありません。
同胞が今度こそ投げやりでなく賢い選択をすることを信じます。
私たちは自分の国を、自分で守らなければいけないのです。

参院選公示~日本人としての思い

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心の底から、日本が心配だ。
今夜のサッカーの話ではない。
来月11日の参議院選挙のことである。

菅直人氏は鳩山氏の残した課題の始末も放って
支持率回復に乗じてさっさと国会審議を打ち切ってしまった。
おそらく日本中がサッカーに目を奪われている隙に
選挙を済ませてしまおうという腹か。
(W杯の決勝戦が7/11=投票日)

今日は参院選の公示日、夕方テレビを見ていると
NHKキャスターが自信たっぷりに言う。

「今度の選挙の争点は消費税をどうするか、に絞られてきています」

公約に出た10%の数字に反応したのだろうか。
だが常識的に考えると消費税は喫緊の問題ではない。

誰もが「景気回復後に議論するべき話」だと分かっている。
最大の争点になるとまでは言えないと思う。
普段から自分のお財布にしか関心がないのなら別だが。

党首インタビューもテレビの傲慢さを感じた。
質問は消費税と議席数、選挙後の連立にしか関心がなく
党首たちが本当に伝えたいことを言わせない。

特に新党の扱いがひどい。あまりに短い時間設定。
失礼で明らかな政党差別である。

「党利党略の選挙戦ゲーム」的な報道姿勢は問題だ。
日本の行く末が左右される国政選挙という緊張感が感じられない。

「ためしてガッテン」などのお気楽番組は安心して見られるが
真剣な国家意識の欠けた公共放送は看板を下ろすがよい。

ところで
「景気回復」は我々の喫緊の願いであることは間違いない。
その前に
私はまず日本人全体の自信が復活しなければ結局駄目だろうと思うのだ。

持続的で活発な経済活動と、雇用・需要の好循環が生まれる
その出発点は、やはり活発な人間精神に宿るからだ。

本来人間は自分が誰かの役に立っていると思うと
骨身を惜しまない。
そこに精神の喜びと満足があり
それが公の役に立つことは名誉でもある。

今の日本はどうか。
自分以外に尽くす精神の生きがいはあるか。

「日本人は働きすぎ」と一時期盛んに言われた。
労働を苦役と捉えて余暇と対立させる見方は
いかにもマルクス主義的な20世紀の遺物だが
それが日本の男性の立場を今も縛っている。

古今東西、男性は家の外でバリバリ働くもので
それは苦役どころか自然の本能だと私は思う。

「家庭と仕事の両立」を夫に迫る今の日本社会の風潮は
男から本能を奪い、精神を委縮させてきたと思う。

たとえば昨今ラジオやテレビドラマで出てくる父親像は
決まって「子どもと妻に遠慮するもの分かりのよい軟弱な夫」。
その現実版が覇気のない「草食系男子」ではないだろうか。

有効な少子化対策は、日本の男を働きバチに戻せ!なのである。

**
話を戻すが、今の日本の混迷は、皆が「自分のため」にしか
生きられないことに起因する精神性のものだと思う。
公的な使命感やお国のためにという気持ちが忘れられて
バラバラ勝手に生活している。

実際には日本という一つ屋根の下に暮らしながら
国をまじめに考えることがない、いびつな生き方。

国のためにという素朴な思いを無理に否定して
個人主義をことさら押し付けてきたことが
私たちの心を捻じ曲げてきたと思えてならない。

畢竟、景気の回復は健全な人心の回復なしにはありえない。
「国(公)のために頑張ることの意義」を
今再び多くの人が共有することが肝要で、その意識改革は政治にしか
期待できない大きな「一喝」である。
選挙ではその点に触れているかどうか、
とりわけ子供たちへの教育をどう語っているかが
争点となるべきではないのか。

私が見るかぎり、日本人の精神の問題を直視している政党はふたつ。
ひとつは平沼赳夫代表の「たちあがれ日本」であり
もうひとつは山田宏党首の「日本創新党」である。
戦後60年の無為無策のツケが招いた今の低迷を喝破しているのは
彼らだけだと見る。

日本を想う大先輩たちが「もう黙っていられない」と
立ち上がったことに感謝せずにはいられない。

マスコミは嘲笑し無視しても私たちは無視してはならない。
テレビには流れない彼らの言葉をぜひ確かめてほしいと思う。
民主党は自民党の最悪の亜種である。

民主党こそ自分たちの利益のためには言動不一致、
手のひらを返して立ち回り、口先で国会と国民を愚弄して恥じない
軽薄なる連中である。

自民党は「腐っても日本人」だった。
戦後の腐敗を私たちとともに味わってきたのだ。

だが民主党は、自民党を腐らせて崩壊させた勢力が
殻を食い破って表に出たものにすぎない。
それは外国勢力であり、また日本の伝統を憎む一部の過激思想派に
利用される人々である。
「外国人参政権法案」、「選択制夫婦別姓法案」を通そうとした
民主党の危険な本質を私たちは忘れてはならない。

「自民にお灸をすえる民主党投票」はもう繰り返してはならない。
それは私たち自身をさらなる苦境に追い詰めるだけである。
だが自民党もまた膿を自力で排出しなければ存在意義はなくなる。
「たちあがれ日本」「日本創新党」と協力して、日本を本当の
意味で再生する底力を出してほしいと願うのみである。

古い機材を使うこだわり

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「デジタルにあらずんばカメラにあらず」・・・
当世の写真事情はデジタル一色に染まっている。

でも僕は昔ながらのフィルムカメラが好きだ。

特にポジフィルムを光に透かした時の美しさ!
電気的なモニター映像と本質的に異なり
どこか生き物のような温かみが感じられる。

コストのかかる現像所の縮小移転、閉鎖。
フィルムの販売終了、カメラの製造終了・・・
厳しい状況だが経済活動の視点からは見えない価値が
フィルムカメラにはあると思う。
何とか滅ぼさないで欲しいと願うのみだ。

**
ところで僕は結構古い機材を使っている。
35mmはニコンのフィルム最終モデルF6だが
中判は叔父から譲り受けた40年モノのホースマン985。
めっきり見なくなった6x9サイズである。
(デジタルは3世代くらい前のD200で、
こちらは最新のD700を指を咥えて見ているのが本音)

中古で買ったマニュアルの600mmレンズ
その表面の細かい傷を見ながら
いつも思うことがある。

「(これを使っていた)先輩たちに負けたくない」

便利な機能などなくても素晴らしい写真を撮った、
昔の写真家の先輩たちがいる。
オートフォーカス、手ぶれ防止、進化した測光精度・・
そうした科学の便利さに頼って
いつのまにか人間自身の能力は退化していく。
現代の甘やかされた僕たちはもはや
昔の人のレベルに達することはできないのだろう。
それでも「便利な世の中だからこれでいいのだ」と
腕を磨くことを怠る自分の言い訳はしたくない。

「科学なんかのせいで堕落してたまるか」

「昔の人に最初っから負けるなんて許せない」

馬鹿みたいに意地を張って
先人の使った古い機材を使う。

未熟な腕で、失敗の多い非効率的な撮影を
あえて続ける。

そこに前向きな意味を求めるとすれば
時代を超えて変わらぬ人生の価値について
自分に問いかける緊張感を与え続けること、だろうか。

つくづく不器用である。

(写真:韮崎の桜 /Horseman985 90mm/Fuji Realla ISO100)

桜に見ているもの

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4月ももうすぐ終わる。
北の大地にも遅い春の気配が漂う。
桜の季節がもうすぐやってくる・・・

折からの天候不順で例年より開花の遅れが見込まれている。
大型連休中のお花見にはどうやら間に合わないらしく
たくさんの人が落胆しているのだろうと思う。

自然とはそういうものであると、分かってはいるのだが・・・

**
それにしても
桜の花の美しさとは、いったい何だろう。
皆がこれほど熱中し心ときめかせて待つ、あの花に
私たちは本当は何を見ているのだろう。

欧米人も満開の桜を見て美しいと感じるけれども
その花びらが散りゆく姿に美を感じることはないという。

だが私たち日本人は春風に舞う花吹雪にため息をもらし
池の面に浮かぶ一片の薄紅色にもしみじみと感じ入る。

これこそはDNAのなせる業にちがいない。
私たちの民族が長い歴史を通じて培ってきた共通の記憶
それは私たちを遠い古代のご先祖様と結びつける。
そして「自分のルーツ」をはっきりと確信する拠り所を与える。
私たち日本人は幸せな民族だと、つくづく思うのだ。

私たちが桜の花を見ているとき
きっと魂は古(いにしえ)の先祖(みおや)と語り合っているのだ。
目に見えない精神のつながりをそこに感じているのだと思う。

久方の 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
(紀友則/古今和歌集)

平安の昔の歌人が詠んだ歌を、1,000年後の私たちが
何の違和感もなく暗唱し、その心を感じ取ることができるとは
考えてみれば驚くべきことである。

この連続性、この確固たる精神のつながり!
何と素晴らしいことだろうか。
この日本という国が育んできた深い精神性の象徴
それが桜の花であると思えてならない。

(写真:桜とヒヨドリ/東京・九段)

この一枚に込める思いとは

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原野のただ中に車を乗り入れる。
車内からじっと何時間も、鳥が現れるのを待っているうち
ふと何か不思議な気持ちになってくる。
「どうして自分はこんなところに一人でいるのだろう?」

もちろん写真を撮るためだが、
その目的について考え込んでしまうのだ。
「写真を撮って、何になるのだろう」と。

いったい幾万回
この素朴な疑問を自問し続けてきたことだろうか。

貴重な人生の時間を費やし
数多くのものを引き換えにして

得られるかどうかすら不確かな
作品という曖昧なるものを求めていくことに
耐えがたい不安に襲われる
そんな自分の弱さを痛烈に自覚して
独り悶絶する。

**
写真家とは、その存在意義はなんだろう?
自分は猟師ではないから
餌をまいたり仕掛けを作って
動物や鳥を呼び寄せることはしない。

シャッターチャンスは大宇宙の運行にまかせている
僕の撮影は効率悪いことこの上ない。

しかし、効率を求めて不自然な行為に走ったら
自然写真家を名乗る資格はないという思いがある。

なぜなら、自然とはそもそも非効率、非合理なものだから。
人間社会の都合でそれを捻じ曲げて撮った写真は
たとえ見るものがそれと気付かなくても
撮った本人は知っている。
それが精妙に作られたまがい物だということを。

僕はそんな色に染まることを断じて自分に許さない。

いかに効率よく決められた絵をカメラに収めるかという
「撮り屋」さんになってはならないと戒める。

**
「この一枚に込める思い」がその作品の価値だと思う。
その一枚の撮影に至るまでの、心の営みの重さが。
肉体的努力が報われない日々への絶望や
たった一度の人生の時間を費やしていく不安
その中でたったひとつだけ
続けていくこと、信じていくことの尊さを
ひたすらに 孤独のうちに噛みしめていく

そこに人格の成長があり
その結晶としての
味のある作品というものが生まれる。
僕はそう信じている。

現代的効率主義とは真反対にあるのが写真家。

みずから非効率・非合理な人間として不器用に生きぬいて
人間の宿命を見極めんとする存在として世にあるべきだ。

写真家よ
生涯 哲学者たれ!
思想家たれ!
それが汝の存在意義なり、と

(写真:根室 春国岱夕景)

厳冬の原野にて(2)

100129-D-164

先月から数えてもう7回目の撮影になる。
僕の狙いは冬の猛禽「ハイイロチュウヒ」だ。
数が少ないことや、警戒心が強いことなどから
日本で見られる野鳥の中でも撮影が難しい部類に入るだろう。
そして技術的な面からも、多くの野鳥カメラマン泣かせの鳥である。

その名の通りグレイの背中と頭が特徴的で、対照的に白い腹部と先端が黒い羽。
一度見ると忘れられない美しい姿であるが、
この鳥を撮影するのが難しい理由は、まさにこの羽毛の色にある。

一面灰色(グレイ)という配色は、実にピントが合わせにくいのである。
かといってコントラストのある羽の先端(白に黒)に合わせると、肝心の顔がぼけてしまう。

チュウヒ類は軽い体で舞うように低空を飛び、葦(ヨシ)原の中でネズミを捕る。
動きが速いうえ、この葦が画面の邪魔をすることも、この鳥の撮影難度が高い理由だ。
ピントに関してはAF(オートフォーカス)レンズを使っている人にはお手上げだろう。
(僕は古いマニュアルレンズを使っているので、この点では有利かも知れない)

自分の目と指先でしっかりと動きについていかねばならないが、何とかしてみせる。

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そんなわけで、ハイイロチュウヒ(略してハイチュウ)という猛禽は、まさに挑戦しがいのある相手だ。
数が少ないと書いた通り、今年のこの地方にはわずか2羽しか確認されていない。
南北12キロに及ぶ海岸線の原野のどこにいつ現れるかもわからない。撮影は第一に運が必要だ。
神様との根比べ・・そんな言葉がぴったりくる。

この鳥に魅せられて、先月はほとんどこの原野での撮影となってしまったが、
冬の猛禽が見られる季節はそんなに長くはない。なんとか胸のすくような一枚をモノにしたいと思う。

(写真:ハイイロチュウヒ雄)