撮影の日記」カテゴリーアーカイブ

夏の北海道〜温故知新の旅の総括

秋晴れの日だ。窓の外には富士の白い峰が見えている。
「はや霜月、11月か・・」コーヒーを啜りながらため息をつく。
季節のうつろいに、心の熟成がいつも追いつかず、時間ばかり過ぎてしまうが
今日こそは、7月の北海道の旅の思い出を記してみようと思う。
そう、あれはとても良い旅だったのだ。

🔹四年半ぶりの北海道は・・

もともと北海道行きは昨年の計画だったが、世間の「コロナ自粛」に遠慮して断念していた。
今年も「緊急事態宣言」で旅立ちが危ぶまれたが、6月末で解除となり実行にこぎつけた。

6月末に車で新潟からフェリーを利用して小樽に上陸。夜は札幌時代の友人と旧交を温めた。
緊急宣言解除で解禁されたビールと海鮮の美味かったこと!

美瑛・富良野へ。夏雲湧く青空と強い日差し。でも風は涼しい夏の北海道だ。
案外、懐かしさは感じない。かつて暮らしていた頃の日常感覚のままだった。
思い出に昇華するには、たった4年半では早過ぎるのかもしれない。
人のこころは、ゆっくりと熟していくものなのだ。

🔹道東地方:写真家 久保敬親先生の思い出

帯広から足寄、そして阿寒の森林地帯を抜けて、道東の広大な平野へ飛び出した。
久しぶりの摩周湖ブルーにも懐かしさはなく、いつもの撮影で来たような感じである。
20年暮した北海道の記憶は褪せることなく、私の魂に刻まれている。それが嬉しかった。

夏の摩周湖

この旅の重要な目的のひとつは、故・久保敬親先生の回顧展「野生の瞬きⅡ」だった。
ところが例の緊急事態宣言で回顧展は中止になったのだと、奥様の電話で知らされ驚く。
奥様のご厚意で中標津町のご自宅に伺い、亡き先生の思い出を語り合うことができた。

久保敬親先生との思い出は多くはないけれど、ひとつひとつが宝物だ。
理想の写真家としての目標であり、疑問や悩みの対象でもあり、まさに心の師であった。
先生や仲間たちと、知床で動物の撮影に励んだ日々や、ご自宅で二人で酒を酌み交わした宵が忘れられない。言葉にならない大切なことを教わった。

訃報に接して呆然としたあの日、心の中の久保先生の大きさに改めて気づいた。

「金を稼ぐからプロ、じゃない。こだわりを持つのがプロだ」
そんな久保先生の笑顔と言葉は、今も自分を支えてくれている。

🔹網走・北見:まだ見ぬ親戚に思いを馳せて

私も両親も静岡出身だが、父方の祖父は島根県の出で、明治期の屯田兵募集に応じて北海道に渡った。
今も北海道に親戚がいることは知っていたが、まだ会ったことがない。
近年その人々のことが気になり、思い切って手紙を書いたところ、先方から丁寧なお電話を頂いた。この夏に会えないかと尋ねたが、難しいですね・・とやんわり断られてしまった。

便りも途絶えて過ぎ去った数十年の、歳月の重さを感じざるを得なかった。
しかし同時に、消えることのない血縁の重みと大切さも改めて感じたのである。

今回の旅では、その親戚の住む網走市と北見市を通ったのだが、寄ることはできなかった。
だがいつか必ずお会いできる。そしてお互いの溝を埋めていくことができると信じている。

🔹礼文・利尻・サロベツの撮影

北海道の北端・稚内市、その沖に浮かぶ利尻島と礼文島は、若き日の自分の憧れだった。
初めて訪れた1997年以来、いつも徒歩で島に渡って 撮影していたが、今回初めて車を持ち込んだのである。おかげで機動力を活かして充実した撮影が出来たと喜んでいる。これも以前から丹念に自分の足で歩き、 島の地理をよく見ていたお蔭だ。何事も事前の積み重ねが大切だと改めて実感した。



10年ぶりにサロベツ湿原にも寄った。利尻・礼文でもそうだったが、全体的に花が少ないと感じた。お馴染みのエゾカンゾウや、エゾスカシユリが全然見えない。7月初旬といえば本来なら花は真っ盛りの時期なのだが・・・
わずかな時期の違いによるのか、それとも地球的な気候の変化によるのかもしれない。
だがそれは、決して人為的なCO2排出といった政治的なウソ話のことではない。
あくまでも過去に当たり前のようにあった大自然の摂理による気候変動のことである。

🔹秩父別町:屯田兵の曽祖父たちとの邂逅

先述の通り、曽祖父の代に屯田兵に応募した我が祖先たちは、雨竜郡秩父別町に入植した。今回の旅の最後に秩父別の郷土館を訪ねて、当時の屯田兵家族の生活を偲ぶことができた。



戸主配置図の上に曽祖父(の弟)の名前を見つけたとき、観念の中のボンヤリした存在だった曽祖父たちが初めて身近なものに感じられた。
それは本来自分の根幹にあるべきもので、長い間欠けていたそれを取り戻せたように思えて
何かとても幸せな気持ちになったのである。

🔹こころのふるさと・北海道

この夏の北海道訪問で、自分の中でひとつの区切りをつけられた気がしている。
それは「また札幌に戻って住む」ことへの、心の拘りが解消したことだ。
いつでも心の中にあり色褪せない、わが祖先と血縁者のいる北海道を確かめたから。

「ふるさとは遠くにありて思うもの・・」という室生犀星の詩「小景異情」を思い出した。
いま北海道は、わたしの本当の故郷になったのであろうか。

つゆしぐれ東北の旅

※ 8/21「昨今の状況について」に続いてUPしました!

🔹日本の原風景

空気のこわばりに、負けてたまるものか!というわけではありませんが
梅雨のさなかの6月末から二週間ほど、東北地方を歴訪して参りました。

二月以来の東北行脚です。(五月も予定がありましたが、空気に鑑みて自粛しました)
私にとって東北地方の魅力は何気ない普段の風景にあるのです。

美しい里山と杉林、神秘的なブナの森、深く青い湖沼の数々
青空を映して広がる水田、畦道に咲くツメクサ、蛙の声。
峠の紅葉を照らす夕日、落葉が倒木に溜まった晩秋の川の静けさ。
野山が雪に埋まる冬、吐く息も凍る寒さ。雪に点々と動物たちの足跡
雪解け、朝露の輝く小さな花芽、やがて夢おぼろに咲き匂う 山桜たち

東北の四季の光と風には、なつかしい匂いがいっぱいです。
それは祖先から受け継いだ「本能的な喜び」を呼び覚ます気がするのです。

日本好きの外国人は、有名観光地よりも田舎のなにげない風景に魅力を感じるそうです。
彼らの感性が偶々日本人に近いというよりも、世界に稀な日本の風土の理想的な快適さに
一度でも日本を知れば、誰でも日本に住みたくなるのだと思います。

山間の田と桜(東由利)

奥入瀬渓流の秋(十和田)

内陸線列車(仙北)

🔹関東・東北が「日本の起源」

「私はとりわけ、縄文・弥生時代の日本列島の人口分布の推移に着目しました。
縄文時代を通じて、日本列島の人口は、その90%が関東・東北に集中していました。
日高見国は、まさにこの人々の国であり、古事記・日本書紀に描かれた神話は、まさにこの人々の歴史だと考えます。
日本の中心は日高見国として関東・東北にありました。高天原は関東にあり、アマテラスは関東を本拠とする太陽神であり、国譲りは関東勢力による統一事業であり、天孫降臨は関東から西国に向けて行われた遠征事業であり、神武天皇の東征は九州を起点とする戦略をとった関東勢力による再統一事業と思われます。
これらの論はすべて、この2〜30年に発見された、あるいは明らかにされた事実、事物を根拠としています。統一事業は、大陸の政治的情勢ともリンクしています。日本の神話には、実に歴史が描かれているのです。いままでの日本の歴史は、ここから大転換することになるでしょう。」
(田中英道 著『日本の起源は日高見国にあった』P19-20 序章より抜粋)

田中英道先生の著書から、少々長く引用させていただきました。東北は日本の原郷なのです。
学問的検証をしっかり経たこの田中説に私は強い感銘を受けました。
縄文日本は遅れた原始時代ではなく、世界の人が憧れてやってきた「太陽の昇る国」でした。
縄文土器が、環太平洋の島々や北米、南米、さらにアフリカで出土している事実を教科書に載せるべきだと思います。縄文の日本人は世界中とつながり往還していたのです。
祖先の姿を知ることは、自分の中に歴史的な時間軸とのつながりをもつことです。
それは心を安定させ、健全な心の成長に欠かせないものではないでしょうか。

然るに、戦後の自虐教育は日本人から歴史への誇りと感謝の気持ちを奪いました。
今や多くの日本人が「金に頼るしか生きる道はない」と思っているように感じます。
縄文弥生の日本人は世界に先駆けて高度な文化をもち、平和な祭祀国家を作っていたという事実は、私たちに自信と勇気を与え、祖先への素直な尊敬を思い出させてくれます。
それこそが私たちの心の復古再生であり、日本の将来を明るくする道だと信じているのです。

🔹今回の旅で生まれた作品

そんな東北地方への思いを胸に旅の中で出会った「日本」をご紹介します。

🔴 くろくまの滝(青森・白神山地)

高さ85m 青森県内で最大級の滝

観音菩薩の合掌姿として信仰されてきた

🔴 月山の夕暮れ (山形・鶴岡市)

月山八合目より日本海を望む

🔴 森吉山/花と子グマ (秋田・阿仁)

コイワカガミ(森吉山ヒバクラ道)

雨の夕方 子グマに出逢った

🔴 羽黒山/五重の塔(山形・鶴岡市)

雨の羽黒山にて/平将門の創建と伝わる五重塔

🔴 十三湊とさみなとの夕暮れ (青森・十三湖)

津軽十三湊の黄昏/鎌倉期、安東氏のもとで隆盛した北の港

過ぎにし春夏を思う

はや10月である。ようやく秋心地がついてきて、冷房も使わずに一昼夜を過ごせるようになった。
札幌に住んでいた頃は冷房などは不要であったが、今からは信じ難いことに思える。
5月以来更新をせずに過ごしてしまったが、またゆるやかに再開しようと思う。

🔷 東北の旅

北海道にいた頃、僕は東北地方の自然に憧れながら、いつも遠くに感じていた。
函館や知内の海岸に立てば、青森県の陸地は驚くほど近くに見えるのだが、やはり津軽海峡を隔てていることが心理的に厚い壁となり、何か遠い国のような距離を感じていたのである。

静岡に住んでから、500kmも離れている東北地方がかえって近く感じられるから不思議だ。
やはり陸続きであること自体が、気持ちにある種の一体感を与えるのだろうか。
今年、春と夏の2回、青森・秋田へ撮影の旅をした。

🔷 春の鳥海山麓(5月)

紅色に輝く残雪の鳥海山を見たくて、にかほ高原の溜池群をめぐった。
扇谷地池ではブユに悩まされつつ、雪をたっぷり詰めた山肌が落日に照り映える様を見つめた。
翌朝は大谷地池に三脚を立てた。よく晴れた朝だったが少しだけ水蒸気の濁りがあったのだろう、
最初の光芒が眠りから覚めた山の雪肌を照らしたとき、思ったより赤味が少ない感じがした。

朝露も乾かぬ間に、四角井戸池へ。満開の桜が枝を頭上にかざし、やや遠く見える鳥海山頂が手前の池の面に映り込む。桜と鳥海山のこの構図は思い描いていた一枚だった。

微風が湖面を常に揺らして、願ったような水鏡とはならなかった。また空気の濁りが 山や森の輪郭を春らしくぼかした。それは、それでいい。自然は 思う通りにならない。人の生も然り。

🔷 白神山地(7月)

ふた月が経った六月の末。梅雨の真っ最中であった。
新潟から一夜のフェリーの客となり、翌朝秋田港から北上して南津軽へ向かった。
深浦町で雨のために3日間の停滞のあと、ようやく十二湖を初めて訪れた。
整備された遊歩道のあちこちに「世界遺産」の文字が溢れ、外国の観光客の姿が目立った。
有名な青池のほとりでは、始終 甲高い声の外国語が飛び交い、耳を刺し続けた。

自然は誰の遺産でもない。世界自然遺産という言葉には 嘘と偽善のいかがわしさが満ちている。
北海道の知床で感じていたストレスを、ここでも否応なしに味わうことになろうとは。

十二湖を去り秋田側の藤里町でブナの森を見た。ここでは豊かな時間が静かに流れていた。
大げさな建物や看板など宣伝がほとんどなく、昔からの自然な姿がよく保たれているようだった。
この点も 知床のウトロと羅臼の関係を思い出させるものがある。

🔷阿仁・秋田駒ヶ岳

白神山地を離れて、能代から 阿仁、田沢湖へと内陸線に沿って南下した。
マタギで有名な阿仁地域の核をなすのが森吉山や太平湖の自然である。

森吉山から流れ落ちる「安の滝」はなにか不思議な生命力を感じる滝であった。
黒い岩壁が斜めに切れ込んで、落ちる水柱を美しく分けて滝の輪郭を特徴付けている。
安の滝伝説は 各地にあるような悲恋の話である。
日本人の優しく深いこころは、美しく優しく時に厳しい自然の姿と重なり合う。

森吉山は標高よりも、その生命を育む山麓の森の深さに惹きつけられる。
北海道でいえば、利尻や羊蹄ではなく、知床や大雪山のような・・・
何しろここは阿仁のマタギたちが猟の生活を営んできた恵みの山なのである。

秋田駒ケ岳に初めて登った。疲労で体調を崩した影響で撮影自体は不十分に終わった。
有名な花の山だが、時期が遅かったのかチングルマはすべて散り、黄色いミヤマダイコンソウばかりが目立った。赤いエゾツツジが見えたが夏の日差しにしおれて勢いは既になかった。

田沢湖の深い青色は変わらず美しい。その色はクニマスの泳いでいた昔と変わらないのだろう。
関係者の努力が実り、いつの日か野生のクニマスが田沢湖に戻ることを、私も願っている。

深いブナ原生林の風、野生動物の息づく気配、湖沼の静寂と波紋、山奥に轟く大滝…
すべてが生気に満ちて、太古のいぶきを宿した霊妙な世界だった。
東北地方の山や森や湖沼、農村の風景が心を惹きつけてやまないのはなぜだろう。
この世で知らない古い日本への憧れ。これは僕の前世の記憶なのだろうか?
それとも祖先から受け継ぐ遺伝子の記憶なのだろうか。

春は遅い桜を追いかけた。夏は梅雨のあと巨木と山の花を求めた。
もうすぐ、紅葉に彩られた季節がやってくる。その準備にいま追われている。
東北の自然を訪ねる旅は始まったばかりだ。それは古い日本の本質に出会う旅でもある。

15年ぶり涸沢カール訪問記(後編)

◆雑感その1 山の挨拶ルール

前穂高を望む(横尾)

橋を渡る登山者たちの声で目が覚めたら六時半だった。
今日は戻るだけなのでゆっくりでよいが、体はすぐに動いた。
少ない酒が変な夢を見せたのか、寝返りを打ち続けたせいで体の節々が痛い。
外を覗くと他のテントはほとんど撤収していた。
空は曇っていて暑くもない。歩きにはちょうどよいだろう。

荷造りをしてテントを撤収し、八時過ぎに横尾を出発した。
徳沢へ向かって歩く。前から来る人の群れ、群れ、また群れ・・・
「こんにちはー」「こんにちはー」と挨拶を交わす。

初めのうちはにこやかで丁寧な声が出る。ああ、みんな元気ですね、お気をつけてと思う。
だがそれがひっきりなしに続くうちにウンザリして、遂には下を向いて黙って過ぎる。
そのとき感じる軽い罪悪感が、鬱陶しい。
この挨拶のルール、誰が広めたのだろうかと恨めしく思ったりする。

◆雑感2 お手手つないで

横尾から徳沢へ向かう森の道

徳沢園でひとやすみ。お汁粉を作って飲む。これが元気が出る。
薄曇りで、風が気持ちよい。
出発する。明神まで1時間かからないだろう。
日の差し込む気持のよい林の中をどんどん歩く。前をゆくカップル登山者。
見るとしっかり手をつないでいる。
若い二人だな、微笑ましいではないか。



しばらく同じ歩調で、彼らの後ろを歩くことになった。見るとはなしに見る。
この二人、片時も手を離さない。ぴったり肩を寄せ合っている。・・・少し呆れてくる。
エイ顔を見てやれ、と追い越して振り返ると、歩きながら微笑み見つめ合い二人だけの世界。
毒気を抜かれ、お幸せにね・・と念じて、もう振り返らずに早足に遠ざかった。

昨今、山でお手手つないで歩く男女が多いが、いい歳して幼稚園児みたいで不自然である。

◆雑感3 山ガール

明神岳を望む(明神にて)

「すみませーん、お先に失礼します・・」
後ろから声をかけ、元気よくスタスタと追い越していった女性ハイカー。
小柄だが足が速い人だった。小気味好いリズムで遠ざかって行く。

明神に着いて休んでいると、さっきの彼女が近くのベンチに座っていた。
彼女はさっと飲み物をのみほし靴を履き直すと、凛々しく立ち上がりザックを背負った。
隣に座っている女性に軽く会釈をして、颯爽と上高地へ歩き出した。

一連の動作がじつに自然で、滑らかで優美で、僕はその人の去りゆく姿に見とれてしまった。
気持ちのよいものを見たと素直に思った。

ありがとう
山ガール

あんな人がいるのだから、山ガールも馬鹿にしたものじゃないな・・
僕は少しばかり頑迷だったと反省し考えを改めた。

◆雑感その4 上高地を去る / 沢渡(さわんど)温泉

人にとって芸術とは何かと考えさせられる

混み合う上高地ターミナルから、臨時増発のバスに乗りこんで沢渡の駐車場へ向かった。
「木漏れ日の湯」を楽しみにして、最寄りの駐車場に車をおいて来ていた。
上高地に通っていたころ、必ずここで汗を流し山行を締めくくったものである。

車に戻って温泉道具を持ち出すと、道路を渡ってログハウス風の建物に歩み寄る。
しかし入り口に鍵がかかっていた。
誰もいないし、どこからも入れない。今日は休みなんだろうか?

バス停の切符売り場のお姉さんに尋ねると、経営者の身内にご不幸があり営業していないとか。
そうか・・やっぱり十五年も経っていたんだよな。心に静かな冷たい風が吹き抜けた。
建物はそのまま残っている。その光景が余計に寂しかった。

少し下流の「梓湖の湯」で汗を流して、今回の山行の終了宣言とした。

15年ぶりの涸沢カール訪問記(前編)

15年前東京で、僕は毎週のように信州の山々に通った。
それまでの人生のすべてがここに集約しているかのように感じて
すっかり大自然の虜になってしまったのだった。

やがて北海道に戻り、自然写真家として再出発した僕は、人間と自然と
世界の真実を知ろうという志を立て、社会の片隅で孤独な努力を続けてきた。

故郷の静岡に戻って一年経ったこの秋、懐かしい北アルプスを訪ねた。

◆ 上高地の静かな変貌

秋の河童橋と奥穂高

かつて心を奪われた「涸沢カールの紅葉」を見たかった。弱っている心の力を蘇らせるために、原点に戻ろうと思ったのだ。

台風一過の初秋、僕は上高地の河童橋の上に立った。梓川の美しい流れと岳沢を抱いた奥穂高岳の勇姿は、あの頃と何も変わらない。
だが外国人が増えた。現地観光社の職員にも中国人スタッフがいて驚いた。

 

この中国人の増え方はどうだ。僕は総毛立つような不安を禁じ得ない。
差別はよくない、などというキレイゴトはもはや何の意味もない。
このまま外国人の増加を放置すれば、取り返しがつかないことになるだろう。

◆ 魂の禊(ミソギ)か 団塊世代の登山者たち

多くの人が楽しそうに話しながら、河童橋を渡って山へ向かっていく。
彼らは素敵な登山服に身を包み、きれいなザックを背負っている。
「私はもう百名山登ったよ、今は二百名山目指してるんだ」
「今日は穂高で、明日は立山へ行くのよ」

還暦を過ぎた人々が高価な登山グッズを身につけて、大挙して山へ入って行く。
いつの間にか見慣れた光景だが、このとき僕はあることに気がついた。
彼らは自分では意識せずに、山の神に魂を清めてもらおうとしているのかもしれないと。

「人生は楽しむためにある。公のことは他の誰かが考えればいい。
自分と周辺の人間が損をしないようにすればよいのだ。
そしてまず金だ!金さえあれば安心だ。金がない負け犬になったらお終いだ。
数字と科学的合理性、目に見えるものだけが信じられる。
目に見えぬものは全て幻で嘘だ。宗教は時代遅れの迷信、詐欺師の商売にすぎない」

団塊世代(私の父母世代)に共通してある価値観とは、概ねこういうものではないか。
金と物質を偏重し、精神をないがしろにする考え方が蔓延して、冷たく虚しく野暮な世になった。
人々の共通の価値が消え、孤独な「個人」を好き勝手に生きる子の世代は、精神的虚弱に病んでいる。
上高地に限らずあらゆる観光地が、物質主義で退廃した日本人の心のように見えて哀しい。

団塊世代は世塵に汚れた心の禊(みそぎ)を求めているように見える。
彼らの中には祖先から受け継いだ清らかな魂があり、それが山へと駆り立てる。
僕は、そうであってほしいと願っている。

◆ 初日、横尾のテント場まで


今日の予定は、梓川に沿って横尾まで、およそ12kmの歩きだ。
テント泊装備に加え撮影機材が重いので、膝を痛めないようテーピングする。
快調な歩きで、→明神→徳沢と順調に過ぎて、予定より早く横尾山荘に着いた。

紅葉の最盛期でもありテント場は混み合っていた。
僕は梓川に掛かる吊り橋の下に幕営した。他のテントからは離れて静かな場所だ。
ときおり橋を渡る人たちの話し声が気になるくらいだった。

横尾の夕景

単独のテント泊ではやることは単純だ。まず寝床を準備して荷物を整理する。
鍋に一合半の米を浸し、ベニヤ板の上でお湯を沸かしてテルモスに詰めた。

炊飯するうちにゆっくりと夕暮れが迫り、炊き上がる頃にはすっかり暗くなった。
横尾山荘の灯が赤々と夜の帳に浮かび、テントの中も冷気が満ちてくる。

幕営の様子

食事を片付けて寝袋に入ると、僕は今日のこと、そして明日のことを考えた。
案外よく歩けたな。重い荷物に肩が痛むが、朝には回復するだろうと思った。
四時の時点で天候判断だ。テントはここに張っておいて、涸沢まで往復しよう・・
梓川の瀬音が、耳に心地よかった。

◆二日目、十五年ぶり涸沢カールへ

長い夢をみた。高校時代の部活の友達や、片思いをした子が現れたりして。
山の空気はなぜ、心を昔に返すのだろう。

出発する登山者たちの声で起こされた。テントの入り口から首を出して見ると、
夜明けの霧の向こうに、朝日を浴びた前穂高の峰が青空に頭を突き出していた。
天候OK、よし行くぞ。

六時半に出発。やはり外国人が多い。それは紅葉シーズンだからなのか。
岩小屋の跡を過ぎて、左の沢向こうに朝日を浴びて巨大な屏風岩が輝いている。

本谷橋の手前で、北穂高が美しい場所に来た。ここで今回初めての撮影を行う。
Horseman985、叔父から譲られた中判カメラの歴史的逸品である。
何でも簡便・単純化するデジタル時代、この6×9判の持つ描写力とアオリ機能は貴重だ。

ある日のHorseman985(摩周湖にて)

狭く傾いた山道に三脚を構える。水平を出すのに苦労する。
15年前と変わらぬ北穂の姿に見惚れる。
後から途切れなく来る登山者に道を譲りつつ、数枚撮り終えるのに15分かかった。
本谷橋を通過して本格的な登りが始まる。15年前の記憶が蘇る。こんなだったかな、ああそうだ、こうだったなと独りごちつつ進んで行く。

 

支流の涸沢へ回り込むと谷には陽光が溢れていた。
山肌を埋めつくした錦秋模様が鮮やかに輝いている。

テントを置いてきて正解だ。ザックは軽く、肩の痛みは少ない。快適な登りである。
おかげで意外なほど早く、懐かしい涸沢小屋に到着できた。
テラスで憩う人々。雄大なカール、そのV字谷の正面に浮かぶ常念岳の秀麗な姿。
スリムな新しい登山服姿の若者や、昔ながらのニッカ姿のベテランもいる。
僕は15年前に池袋の店で買った山シャツと、札幌の釣具屋で買ったズボン。昔からオシャレ登山とは縁がない。

涸沢ラーメン(¥1,000)を頼み、持参の弁当箱を開く。ふりかけご飯だ。
これから撮影だからビールは飲まない。白湯が美味しかった。

涸沢ラーメン

「去年だったかな、テレビで言ってたよ、テント1,000張だってさ」
大岩の上で撮影しているときに声をかけてきた、初老の登山者が言った。
昔はグループでテントひとつで済んだが、今は単独行や少人数が増えた。
テントもその分増えたんだという。団体行動を嫌い、気の合う仲間だけで山に来る人が多い。
1,000張か・・それにしてもすごい数だ。

 

カール下部より北穂高を望む

涸沢カールの紅葉は色づきは今ひとつだったが、ここまで来られたことに僕は満足だった。
6×9で2ロール撮り、日が傾き始めた15時に横尾へ下山を開始した。
真っ暗になる前に降りたい。ヘッドランプ下山は好きではなかった。





完全に暗くなる前の17時過ぎに横尾に戻った。
テントに荷を解き、炊飯の準備にかかる。
重く濡れたシャツを枝に張ったロープに干すが、まず乾かないだろうな。

横尾山荘でチューハイを買った。今夜はロースハムとチーズで乾杯!
しかし残念、チーズは車に忘れてきたようだ。ピーナッツで我慢する。
今夜はご飯がずいぶん美味しく炊けた。
小魚のふりかけと、生卵に醤油を溶いてご飯にかける。おかずはハムのみだが満腹となった。

◆ 歳月が変えた視点

15年ぶりの涸沢カール訪問は、思いの外淡々と行われた。
経験を積んだことで、いつしか初心の感動を忘れてしまったのかもしれない。
「百名山」登山者たちの会話や外国人の多さに、やや白けていたのもある。
ただ自分の体力的な自信にはなったので、それでよしとしたい。

明日は上高地まで12kmの歩きが残っている。まずは体を休めよう。

(了)

 

 

畏れを忘れた人間の姿(怒りと哀しみ)

九月の声を聞き、暑さもそろそろ一段落する頃でしょうか。
連日30度を超える久しぶりの本州の夏にすっかり参って、仕事部屋にエアコンをつけました。
冬は暖房費がかからず喜んでいたものの、夏の電気代でしっかり帳尻が合いそうですが・・・
最近のエアコンは節電機能も優れているらしく、ありがたいことです。

🔷 気になるニュース

先日かわいそうな記事を見ました。長野県の信濃町で起きた出来事です。
山に仕掛けたイノシシ用の罠に子熊がかかって鳴いていた。それを見ていたら後ろから母グマが来てかまれた。道路に逃げて役場に連絡し猟友会が出動した・・・
以下、8月16日15時53分、朝日新聞デジタルの記事からの抜粋です。

信濃町産業観光課農林畜産係によると、猟友会や町職員が現場に駆けつけた時、子グマは助けを求めて鳴き声を上げ続け、親とみられるクマは、逃げ去らずに興奮状態にあった。猟友会が子グマを殺処分すると、親とみられるクマは姿を消したという。

同係は「クマを落ち着かせるため、子グマの鳴き声を止めなければならず、殺処分せざるを得ない状況だった。近くに人家もあり、子グマが成獣になった時、再びこの場所に現れ、人を襲うなどする危険性も高いと判断し、猟友会などと話し合って殺処分を決めた」と説明している。

皆様はどう思われるでしょうか。
私は正直に申しまして、何か大切なことが抜けていると感じます。いろいろな点で間違いを犯しているように思います。

熊は力が強いだけでなく、とても細やかな心をもつ賢い動物です。
とくに親子は強い愛情で結ばれ、子を守る母熊の勇気と力は昔からよく知られ、いくつもの物語や伝説になってきました。
この時も、罠に落ちたわが子のために「命がけで」人間に噛みついた母熊の行動には、率直に心をうたれるものがあります。
まして痛みと恐怖に鳴き叫ぶ子熊を前に、罠を外してやることのできない母熊の悲しい気持ちを思うだけで、目頭が熱くなるではありませんか。
それが人としての自然な感情でありましょう。だがこのとき、役場と猟友会の方の考えはどうであったのか。

「母熊を落ち着かせるために子熊を殺さねばならない」「子熊が育ったら人間に復讐するだろうから今殺しておこう」・・・

このweb記事には、たくさんの一般の方がコメントを寄せておられ、その多くがこの処置に疑問を呈するものでした。しかし中には猟友会の処置はやむなしとする声もあり、現場をしらない外野は黙っていろと叱るような意見もありました。

世の中はキレイゴトで済まないとはいえ、それでも方向性が間違っていると言わざるを得ません。徹頭徹尾「人間の都合」だけで行われた子熊の殺処分を、処置は正当だったと言うだけですませてよいものでしょうか。ここに看取されるのは「人間>動物」の思考が固定化した姿、傲慢でしかも判断力も感情も衰えた現代人の危うい姿に思えます。

イノシシの罠に熊がかかる可能性はその道の人なら予見すべきこと、また子熊の近くに母熊がいることは常識です。昔の猟師ならこんなミスはしないでしょう。

親子のヒグマ(知床)

子熊を殺さず、母熊を麻酔銃で眠らせる考えはなかったのかとも思います。
猟友会が麻酔銃を撃つ資格がないのならば、初めから有資格者と麻酔銃を手配すればよかった。すぐに準備できなくても、到着を一日くらい待っても問題はない。母熊は子熊のそばを離れはしないでしょう。

「子熊が育ったら人間に復讐する、いま殺そう」には呆れました。小説やドラマの見過ぎではないか。日頃から「人間の怖さを教える」と言って散弾銃をぶっぱなしている知床財団の方々はどう思うでしょうね。臆病なツキノワグマがわざわざ人間に「復讐」なんてありえません。その場所に近づこうともしないでしょう。

結局「いろいろ面倒だから殺した」ということではないのかと思われてなりません。目の前の熊に威圧されて銃に頼る気持ちが高まり「殺処分」に走ったのではないのか。これではニホンツキノワグマの絶滅は遠くない。人間の胆力の弱さが問題なんです。

ちなみにシー・シェパードなどを引き合いに出して動物愛護の感情を揶揄するコメントも見られましたが、御門違いも甚だしい。これは狂信ではない誰でもわかるはずの心の痛みです。現場を知らない云々は全然関係ありません。むしろ生命に対する真剣さをからかう捩れた姿勢、困ったら簡単に道具(銃)でケリをつけようとする安易な姿勢が問題なのではないでしょうか。

やはり日本人には古来の自然信仰が必要だと思うのです。誰も見ていなくても神様に誓って自然の掟を守る、不注意の事故は自分の責任である。その心をもう一度鍛えるしかないのでは。

昨今流行りの「自然保護」や「自然との共生」なんてのは全くダメです。口だけのゴマカシで、その時の世の都合でどうにでも変わり、CO2問題のようにすぐ利権化する。

人間が自然に対して抱く感情は、そもそも保護とか管理などという技術的な次元のものでは到底ありません。己の存在そのものと向き合うことであり、それはもう哲学、信仰という言葉でしか表せません。そういう真剣な内観と自制が今の日本人には欠けていることが見えた、悲しい出来事でした。

子熊を目の前で殺されて、とぼとぼと森に帰って行った母熊の心を思うと胸が締め付けられます。あのやり方は絶対に間違っていると思います。
現場を知らないくせに黙っていろと言う人たちは、本音はどうなんでしょうね。聞いてみたいし、聞くのが怖い気もします。
(了)

久々に更新です

思うところがあり暫く別の作業に没頭して、本来の撮影活動が停滞しておりましたが、
春も過ぎて夏に向かうこの時期、富士山麓で活動を始めました。
手探りで続けるうちにいろいろ見えてくると思います。

🔹富士山麓

昨日行ったのは富士山スカイラインの「西臼塚」の森。
時間が遅かったためか人影もなく、夕方の光に輝く木々の若葉がゆるやかな風に揺れていました。
降るような小鳥たちのさえずりです。森は生命に満ち溢れています。
小道をゆくと、注連縄に囲まれたご神木のミズナラが静かに鎮座していました。
我々の信仰心の原点、豊かな自然に育まれた日本人の素朴な感謝が、そこに黙然と在りました。

北海道の森は森閑たる神秘的な雰囲気で、その原始性を私は愛してやみません。
それに比べて、富士山麓の森には人の匂いを感じます。
それは親しい身近な存在としての森を感じさせ、北の森とはまた違う新しい感覚がありました。
山川草木にカミを感じ、その宿る神霊を信じて大切に守ってきたわが祖先たちを思います。
森は樹木の群れであるけれど、その存在の由来を静かに辿れば、宇宙を一貫する大きな生命に行き着く。
我ら人の営みもまた、その大生命の局所的な現れに過ぎない、そんな大きな思いに至るのです。

🔹祖先から受け継ぐ日本の信仰心

私は日本の信仰たる神道のこころ、古事記の世界にとても惹かれます。
何といいましょうか・・・
日々見聞きする言説、次々現れる新技術や商品の話題、国際金融とグローバル化。
みんな金銭がらみの、人間ご都合主義の作り物、胡散臭くて嫌気がさします。
そんな臭いものに囲まれて息詰まるなか、遠い昔の日本神話や神道の考え方は実に開放的で魅力的です。

天照大神あまてらすおおみかみを始め、八百万やおよろずのカミ様たちは私たちと同じく悩みもし、時に過ちも犯すご存在です。
それもそのはず、私たちはみな「天の益人あめのますひと」といってカミの子孫で、八百万の神様は私たちのご先祖なのです。
だから私たちの心は本来神性をもち素直で清らかに出来ています。それが現世的欲望に引張られて離れる異心ことごころが出る。その異心を祓い清め、本来の「清く明けき心」に還る、それが祓いなのです。

本居宣長は『古事記伝』第三巻で次のように日本の古代の「カミ」を解釈しています。

すべ迦微カミとは古御典等いにしえのみふみどもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に御霊みたまをも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣とりけもの木草のたぐひ、海山など、其余何そのほかなににまれ、尋常よのつねならずすぐれたることのありて、可畏かしこき物を迦微カミとは云ふなり」

つまり人はもちろんのこと、自然界の鳥や獣、木や草、海や山など、善悪に関係なく、尋常ならざる力を持っているものは、みんな畏れ多きカミとして敬ったのです。

日本の「カミ」観は実におおらかで、自然界に生きる人間の真理を語っていると感じます。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の絶対的一神教と根本的に違い、そこに人為的な約束事は一切ありません。
日本人の信仰は祖先崇敬の素朴な心で、信仰の根源に最も近いのではないかと思えるのです。
だから「これこそホンモノだ」と、心の奥の奥、いわば魂の次元でしっくり噛み合う感触があるのです。

私自身、幼い頃から古いものに憧れたり、現代的な科学合理主義に強い違和感を持ってきました。
それは日本人のDNA、いにしえをカミと敬う大きな宇宙観に発しているのだと思います。

🔹取り戻そう、日本の素直な清い心を

明治以前の日本は、安定し充実した日本の伝統に抱かれて、本当に自然な形で発展してきたと思います。
しかし西洋一神教文明との接触以来、その自然さは混乱し中断され、素直な心が霞の向う側に隠れてしまった。

明治以来、文明開化だ、進歩主義だと突き進んできたこの150年の間、己を見失った不自然が積み重ねられた末に、肥大化した我欲に囚われて、利便性の追求という単純な物質偏重に落ち込んでしまったように思えてなりません。

明治は西洋文明との衝突から始まりました。その不可抗力性と不運を理解した上で敢えて言いますが、この150年の経験は日本民族にとって大きな災厄であり試練でした。西欧との出会いは私たちの精神を混乱させ、欺き、絶望させ、遂には叩きのめしました。
明治史を彩る大日本帝国の華やかさと雄々しい活躍ぶりの中に、どこか哀しい調べがあるのは、裏を返せば、西欧による侵略攻勢の大なるに脅かされた、我らの先輩たちの命をかけた必死の戦いの絵巻だったからだと思います。
世界が拡大してゆく中で、ある意味必然的な流れがあったとはいえ、あまりに悲劇的な運命でした。
大東亜戦争は、日本を計画的に破滅させようと追い詰める悪意ある欧米列強に対し、我が国民が見せた全力の反撃でした。

敗戦後の日本は欧米金融勢力に屈服し、自らを小さく見せることでお叱りを受けないようにする臆病な子供のように哀れです。

そうした悲劇の歴史事実を率直にみつめ、正しい自己認識のもとに日本は出直すべき時だと、私は強く思うのです。
古い殻は、いつかは脱ぎ去らねばなりません。
それは決して「戦前に還れ」などという視野の狭い話ではありません。
私は「明治以前に還れ」といいたい。それくらいの精神的な大転換がいま求められていると思います。
米国、欧州を始め世界的に戦後秩序の再編が始まっている今こそ、日本も覚醒して再出発しなければならないのです。
そのことは、また稿を改めて論じたいと思います。

🔹この春の桜の回想

毎年見ていたのは、北海道神宮の境内や、函館五稜郭公園の桜たち。
静岡に移った今年はどこがいいだろう?なんだか気が乗らないままグズグズしていると
今年は開花が遅いと油断しているうち、あっという間に咲いて、雨ですぐ散ってしまいました。

諦めたあとで偶然出会う「残り桜」はひとしお嬉しいものです。
四月末に二度目の伊勢参宮を果し、立ち寄った三重県の美杉村で「三多気の桜」に出会いました。


またあちこちの見聞を記したいと思います。
今回はここまで。ありがとうございました。

何かほっとする風景 〜 安倍峠

静岡に帰ってきてひと月が経ち、日常生活にも慣れてきました。

そろそろ山の空気を吸いたくなり、山梨県との境の「安倍峠」に登ってきました。
祖母が俵沢という安倍川沿いの集落出身で、安倍奥と呼ばれる山域に私は強い思い入れを感じています。
だから静岡の山登りはぜひ安倍奥から始めようと決めていました。

▪️安倍奥・梅ヶ島温泉へ

新東名を降りて、安倍川沿いに上流へ40分走ると、秘湯「梅ヶ島温泉」に到着です。
鄙びた宿の軒先で、明るい日差しに紛れてふと頬に吹く山風の冷たさはやはり冬です。
空気の乾燥具合が、湿った日本海側の冬と全く違う気がします。

ひなびた温泉街

▪️安倍峠へ

登山口からの400m急登は、引越し以来まともに運動していなかった体にはきつい洗礼でした。
大汗をかいて1時間で上の林道に合流し、少し行ったところから沢沿いの山道へ下ります。
足首の上まで積もった雪の上に、週末の登山者と野生動物の足跡が交錯しています。
確認できたのはシカとキツネ、ウサギ。それとリスかな?というのが少し。
歩いていると斜面の樹々の間から「フィーッ」とシカの警戒する声が何度か響きました。

この日は出発が遅れたため13時の入山となり、あまり時間に余裕のない山行でした。
何とか15時に安倍峠に到着。展望を求めて南側のコブに登り返します。
雲を被った富士山が見えたときは何かほっとする気持ちでいっぱいになりました。

富士山に帽子が

穏やかな雪の森の雰囲気は、北海道でいえば春、4月頃の印象です。
北と南ではこんなにも季節感が違うことに改めて驚きました。

まずは冬の間に体力作りを兼ねた偵察山行を重ねながらこの地の風物や道に馴染みたいです。
そして五月頃からは南アルプスを訪問してみようと楽しみにしています。

(終)

 

わが歩みを刻んだ北海道と祖国への思い

いつしか二十年の歳月が流れていた。
不惑の歳を大きく超えたが精神の躍動は失わずにいたいものだ。
北国では初雪の知らせを聞く季節。私の人生もまた岐路を迎えている。

私はこの冬、故あって長年住んだ北海道を離れることにした。

秋色・十勝岳

秋色・十勝岳

***

思い出とは白い霧の向こう側にある断片的な光景のことか。
歳月を経たことは寂しさでもあるが、同時に安らぎでもある。
喜怒哀楽、かつて心を燃やしたすべてが、今は優しい淡さに包まれて見える。

今度は故郷にほど近い、わが国随一の霊山の麓にある古い町へ移り住む。
そこで魂を磨き、これまでの積み重ねを統合して新しい挑戦をしたい。
人生はダイナミズムだ。機を逃さずに一気に跳ぶそのときが来た。

***

私は北海道の広大な自然に、本当に大切なことを教わった。

野生動物との日常的な遭遇は、いつしか人の心に謙虚な信仰の心を育む。
私は自然科学の本質的な矛盾と、人間の尺度で叫ぶ自然保護の虚しさを痛感した。

山で過ごした野生的な夜は、いつも私を小賢しい人間から一個の素朴な生き物に還した。
鋭敏になった心で、人の感覚や理屈を超えた世界の実在を直感するのだった。

日本文明の古代的自然信仰が、実は最も現代的かつ高次元の思想であることに気づき、
体と心で掴み取ったこの感覚が、古い神道に通じていることを、大きな感動とともに悟った。

大切なことはすべて昔にあったのだ。私たちは昔を忘れてはならない。

夜明けの知床峠

夜明けの知床峠

***

欧州と日本という対照的な少年時代の生活環境が、私に自然な祖国愛を芽生えさせたが
そのことで私は公の重要な問題に関し、つねに少数派として孤立する宿命を背負った。
戦後の巨大な偽りの構造に安住する人々を寂しく眺めるしかできない無力な己を思う。

「思ふこと 言はでぞ ただに止みぬべき われと同じき人しあらねば」(在原業平朝臣)

何も言うまい、自分と同じ人などいないのだから、と唇を噛み世情を静観する毎日。
それでも思いを上手に伝える力が欲しいと願い続ける。

ひとり早い秋

ひとり早い秋

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トリプル台風

■ 8月の猛女たち

8月の北海道に3つの台風が上陸するのは未曾有のことらしい。

  • 17日→ 台風7号 CHANTHU(チャンスー)
  • 21日→ 台風11号 KOMPASU (コンパス)
  • 23日→ 台風9号 MINDULLE (ミンドゥル)

昔、台風には女性の名がつけられると聞いたことがある。
チャンスーさん、ミンドゥルさんなら東亜の女性の香りがする。
ではコンパスさんは何だろう、欧州系だろうか?そもそも女性の名前なのだろうか?
(「女性差別だ!」と命名ルールを変えるような無粋は・・あり得べきことだ)
3猛女らは北海道を堪能し、爪痕を残してオホーツク海へ去って行った。

■ 嗚呼 あの山も、この川も…

既に7月末の記録的大雨により「層雲峡本流林道」が決壊し「沼ノ原への登山口方面は通行不能」とのお触れが出ていた。大雪山の奥座敷「沼の原〜トムラウシ山」での撮影計画は落胆のうちに雲散霧消した。
しかしその時はまだ、さらなる悲惨な事態を予想だにしていなかったのである。

8月初旬の二週間は何事もなく、ただいつもより暑い日がだらだらと続くばかり。
暑さで登山の意欲が弱り、折から盛り上がるリオ五輪に席をゆずって寝不足の日々が続く。
五輪と高校野球が終わり、さあ山へ入るぞ!と思ったら、トリプル台風に見舞われたのだ。

夏山シーズンにこれだけ台風にやられた記憶はなく、大雪山の林道状況を確認したところ…
軒並み「路面洗掘」「土砂崩壊」「路面決壊」の文字のオンパレード。当然通行止めだ。
これまでの経験から考えて復旧は当分の間見込めない。私の計画は白紙に戻ってしまった。

【今回、東大雪方面で登山口まで入ることができなくなった主な山】

  • ニペソツ山(16の沢林道)
  • 石狩岳、音更山、ユニ石狩岳(音更川本流林道)
  • ウペペサンケ山(糠平川林道)
  • 十勝岳 新得コース(シイトカチ林道、レイサクベツ林道)
  • トムラウシ山(ユウトムラウシ林道)

このほか、夕張岳の金山コース、日高の幌尻岳へのチロロ林道、パンケヌーシ林道も不通。
川に沿った林道はみな、路盤が洗われて土砂が流出してしまっているのだろう。
今年の秋の撮影計画もかなり変更、というよりも諦めを余儀なくされることとなりそうだ。

こうした林道は一度崩壊すると復旧まで相当期間がかかる。
特に使用頻度、重要度が低い場合は、復旧予算の優先順位も低いだろうと想像される。

■ 自然に逆らわず 己を変える

当然だが自然の撮影とはこういうものなのである。諦めと切り替えが肝心なのである。
お金で思い通りになるものではなく(そもそもお金もないが)ありのままに受け入れるしかない。
わが国は自然災害王国で、こうした事態への対処法は物心両面において世界一の伝統をもつ。
今回の台風で亡くなられた方もいる中で、元気に無事で活動できるだけでもありがたいことだ。

また稿を改めて書こうと思うが、私は北海道の生活を切り上げて内地の故郷に戻るつもりである。
またいつか北海道に戻って来たい気持ちはあるが、その実現は今のところ未定である。
だからこれが北海道生活における最後の夏〜秋の撮影チャンスなのである。
それだけに、この夏の台風被害は痛いものがある。

しかし考え方を変えてみよう。
最後だと思うと、心残りのないようにと考えるあまり、欲張って無理な計画を立てがちである。
その結果身も心も疲れて、結局ろくな撮影ができずに終わるという苦い結果になりかねない。

それならば「よし、今回被害のなかったコースからの大雪山撮影に集中しよう」と迷いが消えて、却って充実した撮影ができる条件になったのだと考えたい。

■ 原点は「高原温泉から登る緑岳」だった

私の北海道における登山撮影は、大雪山に始まり大雪山に終わる。
その中でも特別思い出が深いのは、大雪高原温泉から登る「緑岳〜白雲岳」と「高根が原」周辺だ。

今回の台風で、その高原温泉へ向かう林道でも崩落はあったようだが、早めの復旧が見込まれる。
なぜなら林道の終点には日本有数の秘湯「大雪高原温泉」の宿が営業しているということがある。
そして9月下旬、色鮮やかな錦秋が燃える頃、高原沼めぐりには毎年多くの人々が訪れるから、地元としては何としても林道の早期復旧を図りたいところであろう。

さて、この高原温泉エリアは大雪山の中でも熊が多く住んでいることで知られている。
思えば、私が野生動物の写真を撮るようになったきっかけは、知床で出会ったヒグマであった。
世界遺産になって俗化する一方の知床に落胆し、人の手が入らない本当の雄大な自然に溶け込んだ熊の姿が見たい。
その思いは、ごく自然に私をこの大雪の最奥域へと導いてきた。
そして初めて2,000mの稜線に遊ぶ熊を見たのが、この高原温泉から登った緑岳からであった。
今年の熊探しはぜひともこの秋、この緑岳で!と思っている。自分のけじめとして。

■ 4つ目の台風接近中・・・

だが8月の台風はまだ終わっていない。
台風10号 (ライオンロック)全然女性の名前と違うが…やはり命名ルールは変わったのだろうか?
ただ今関東沖を通過中、明日30日には東北へ上陸する見込みらしい。北海道も暴風圏に入るようだ。

太平洋の海水温度は依然高く、気象庁はこれからも台風が発生してやってくることを予言している。
くわばら、くわばらである。神様どうか私を大雪山にやってくだされ・・・と祈るばかりである。