野生の生き物たち」カテゴリーアーカイブ

畏れを忘れた人間の姿(怒りと哀しみ)

九月の声を聞き、暑さもそろそろ一段落する頃でしょうか。
連日30度を超える久しぶりの本州の夏にすっかり参って、仕事部屋にエアコンをつけました。
冬は暖房費がかからず喜んでいたものの、夏の電気代でしっかり帳尻が合いそうですが・・・
最近のエアコンは節電機能も優れているらしく、ありがたいことです。

🔷 気になるニュース

先日かわいそうな記事を見ました。長野県の信濃町で起きた出来事です。
山に仕掛けたイノシシ用の罠に子熊がかかって鳴いていた。それを見ていたら後ろから母グマが来てかまれた。道路に逃げて役場に連絡し猟友会が出動した・・・
以下、8月16日15時53分、朝日新聞デジタルの記事からの抜粋です。

信濃町産業観光課農林畜産係によると、猟友会や町職員が現場に駆けつけた時、子グマは助けを求めて鳴き声を上げ続け、親とみられるクマは、逃げ去らずに興奮状態にあった。猟友会が子グマを殺処分すると、親とみられるクマは姿を消したという。

同係は「クマを落ち着かせるため、子グマの鳴き声を止めなければならず、殺処分せざるを得ない状況だった。近くに人家もあり、子グマが成獣になった時、再びこの場所に現れ、人を襲うなどする危険性も高いと判断し、猟友会などと話し合って殺処分を決めた」と説明している。

皆様はどう思われるでしょうか。
私は正直に申しまして、何か大切なことが抜けていると感じます。いろいろな点で間違いを犯しているように思います。

熊は力が強いだけでなく、とても細やかな心をもつ賢い動物です。
とくに親子は強い愛情で結ばれ、子を守る母熊の勇気と力は昔からよく知られ、いくつもの物語や伝説になってきました。
この時も、罠に落ちたわが子のために「命がけで」人間に噛みついた母熊の行動には、率直に心をうたれるものがあります。
まして痛みと恐怖に鳴き叫ぶ子熊を前に、罠を外してやることのできない母熊の悲しい気持ちを思うだけで、目頭が熱くなるではありませんか。
それが人としての自然な感情でありましょう。だがこのとき、役場と猟友会の方の考えはどうであったのか。

「母熊を落ち着かせるために子熊を殺さねばならない」「子熊が育ったら人間に復讐するだろうから今殺しておこう」・・・

このweb記事には、たくさんの一般の方がコメントを寄せておられ、その多くがこの処置に疑問を呈するものでした。しかし中には猟友会の処置はやむなしとする声もあり、現場をしらない外野は黙っていろと叱るような意見もありました。

世の中はキレイゴトで済まないとはいえ、それでも方向性が間違っていると言わざるを得ません。徹頭徹尾「人間の都合」だけで行われた子熊の殺処分を、処置は正当だったと言うだけですませてよいものでしょうか。ここに看取されるのは「人間>動物」の思考が固定化した姿、傲慢でしかも判断力も感情も衰えた現代人の危うい姿に思えます。

イノシシの罠に熊がかかる可能性はその道の人なら予見すべきこと、また子熊の近くに母熊がいることは常識です。昔の猟師ならこんなミスはしないでしょう。

親子のヒグマ(知床)

子熊を殺さず、母熊を麻酔銃で眠らせる考えはなかったのかとも思います。
猟友会が麻酔銃を撃つ資格がないのならば、初めから有資格者と麻酔銃を手配すればよかった。すぐに準備できなくても、到着を一日くらい待っても問題はない。母熊は子熊のそばを離れはしないでしょう。

「子熊が育ったら人間に復讐する、いま殺そう」には呆れました。小説やドラマの見過ぎではないか。日頃から「人間の怖さを教える」と言って散弾銃をぶっぱなしている知床財団の方々はどう思うでしょうね。臆病なツキノワグマがわざわざ人間に「復讐」なんてありえません。その場所に近づこうともしないでしょう。

結局「いろいろ面倒だから殺した」ということではないのかと思われてなりません。目の前の熊に威圧されて銃に頼る気持ちが高まり「殺処分」に走ったのではないのか。これではニホンツキノワグマの絶滅は遠くない。人間の胆力の弱さが問題なんです。

ちなみにシー・シェパードなどを引き合いに出して動物愛護の感情を揶揄するコメントも見られましたが、御門違いも甚だしい。これは狂信ではない誰でもわかるはずの心の痛みです。現場を知らない云々は全然関係ありません。むしろ生命に対する真剣さをからかう捩れた姿勢、困ったら簡単に道具(銃)でケリをつけようとする安易な姿勢が問題なのではないでしょうか。

やはり日本人には古来の自然信仰が必要だと思うのです。誰も見ていなくても神様に誓って自然の掟を守る、不注意の事故は自分の責任である。その心をもう一度鍛えるしかないのでは。

昨今流行りの「自然保護」や「自然との共生」なんてのは全くダメです。口だけのゴマカシで、その時の世の都合でどうにでも変わり、CO2問題のようにすぐ利権化する。

人間が自然に対して抱く感情は、そもそも保護とか管理などという技術的な次元のものでは到底ありません。己の存在そのものと向き合うことであり、それはもう哲学、信仰という言葉でしか表せません。そういう真剣な内観と自制が今の日本人には欠けていることが見えた、悲しい出来事でした。

子熊を目の前で殺されて、とぼとぼと森に帰って行った母熊の心を思うと胸が締め付けられます。あのやり方は絶対に間違っていると思います。
現場を知らないくせに黙っていろと言う人たちは、本音はどうなんでしょうね。聞いてみたいし、聞くのが怖い気もします。
(了)

春の風景/渡る雁に寄せて

ここ北海道でも、ようやく鳥たちの夏冬交替の季節となりました。
冬の海のカモメたち、湖のオオハクチョウ、小さなツグミやベニヒワたちは繁殖のために北へ旅立ちました。
入れ替わりに南からは ノゴマ、アオジ、ノビタキなどが賑やかなさえずりと共にやってきました。
年中変わらずにいるカラスやトビ、シジュウカラやヒヨドリたちも元気に飛び回っています。

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流氷を求めて(羅臼〜網走)

【道東への長旅】

二月末から三月初めにかけて、道東の撮影に出ておりました。阿寒湖、摩周湖、鶴居村、知床羅臼、尾岱沼、根室、網走、斜里と巡り、走行距離じつに1,900kmに及んだ長旅でした。
今回は、そのうち流氷に関わる部分について簡単に記そうと思います。

【嵐に見舞われて停滞(羅臼)】

知床半島の北側に位置する斜里やウトロの港は、冬の北西風に吹き寄せられる流氷に海が閉ざされます。
しかし南側の羅臼町では岬を回り込んできた流氷は港を埋めることもなく、漁船に乗って沖合の流氷原を観察できます。氷の上に憩うアザラシやオオワシオジロワシなどを間近で見ることもできるわけです。
10年ぶりにこの船に乗ろうと羅臼にやってきた私ですが、初日からものすごい吹雪に見舞われました。本州では春一番と報道された低気圧です。暴風の中を何とか羅臼に着いたものの、道の駅Pで停滞。

丸二日も続いた嵐が去ると、陽光の降り注ぐ根室海峡は青々としてさざ波がたち、流氷は水平線のどこにも見えません。穏やかな凪の向こうに国後島がぼうっと浮んでおります。流氷がないので船はあきらめ、港を飛ぶワシを撮影して羅臼を辞しました。流氷は年によって状況も様々ですが、羅臼は南側のために更に少なかったのでしょう。

【羅臼港で会った英国の長身のカメラマンの話】

「英国にはオジロワシはいないんだ。いやスコットランドにはいるが、ほんの少しだけだ」
「昨日の吹雪の中のドライブは実に…その、デンジャラスだったよ、なにしろ雪道を走るのも初めてだったしね」
「羅臼には初めて来たが、誰も英語を話さないので難渋した。なにしろ僕も日本語を全然話せないからね」

彼は英国の南西部、Dorset州に住んでいるとのこと。海の近くで暖かく、雪は全然降らないそうです。
「ここにはなんと鷲が沢山いるんだ、実にファンタスティックだよ」

話をしながら、そのタフさと無謀さ?に驚かされ、またひどく感心させられました。
(これがかつて七つの海を制覇した英国人の冒険心というものかな)
同時に(それにしても少しは日本語を勉強してくればいいのに)…だがそれも如何にも英国人らしいなあと苦笑。

【網走で流氷を見る】

羅臼を辞して一旦根室、釧路へ南下し、再び北上してオホーツクの網走市へ。あの嵐のおかげでしょうか、沖合4kmに立派な流氷原が広がっています。天気もよいので名物の砕氷船オーロラ号に乗ってきました。大きな船で氷を割りながら進むので、近くにアザラシやワシがいても逃げてしまい見えませんが、遠くの氷の上に休む猛禽の姿を認めることができました。
流氷についての科学的な解説はよく聞きます。シベリアのアムール川の河口で生まれた氷塊が成長しながら南下して、真冬の北海道に到達する。氷から溶け出す栄養分をプランクトンが食べ、それを小魚が食べ、それを鳥やアザラシが食べていく食物連鎖の図です。いわゆる「流氷の育む豊かな生命の輪」というものです。

科学的な説明はさておき、流氷が夕陽に照らされ桃色に輝く様や、西の空に日が沈んでいく刻々と移り変わる色合いの妙は、実に人の心をうつものがあります。
「古代人はこの不思議な氷をどんな思いで見ていたのだろう?」
毎年冬になると遥か彼方からやってきて海を覆い尽くし、春とともに遠く去ってゆく不思議な氷達を —
どこからかやって来て、海獣の獲物の恵みを与えて、またいずこかへ去ってゆく無数の巨大な氷。
そうした素朴な自然への畏敬心に私は惹かれてなりません。
科学や数字の話ではなく、人の生きた目と心がつかみ取る本物の自然観のようなもの。
そうした見方と感覚を、流氷という現象が私にそっと教えてくれている気がするのです。

雪のない2月 (新川河口)

札幌の北、石狩湾に注ぐ新川の河口付近に鳥たちの撮影に訪れました。
とても雪が少なく、2月とは思えない光景に改めて驚かされました。
「これではまるで春だな…」
川面にはホシハジロの家族やカンムリカイツブリがのんびり浮び、草っ原にはきつねが歩いていました。

カンムリカイツブリ

のんびりゆらゆら浮ぶ カンムリカイツブリ

案外平気なキタキツネ

案外平気で近づいてきた キタキツネ

これからまだ雪は来るでしょうが、どっさり降ってびしっと冷えていつもの冬に戻るとは到底思えません。温かいのはよいのですが、何だか調子が狂いますね。

この週末から道東へ出掛けます。知床にも足を向けますが、やはり心配になります。
羅臼の流氷はかなり遅くなっているそうですし、果して十分に見られるかどうか?

春の海岸慕情(小樽市張碓)

気分転換に海が見たくなった僕は、双眼鏡とカメラと望遠レンズを持って車を飛ばした。
国道5号線を小樽方面に向かう。銭函を過ぎて峠の上り坂にかかると海が右側に広がる。
風の強い日だった。海は大きくうねり真白な波頭の砕ける様子が遠くから見下ろせた。

***
目指す張碓(はりうす)はささやかな集落だ。
国道から細路へ入る。海に向かって突き当たりまで行くと小さな駐車場がある。
傍に建つ石碑には、小樽市の鳥「アオバト」の詩と説明が刻まれている。

アオバトは緑と黄色のとても美しい鳩。オー、アオーと啼くのでアオバトなのだ。
彼らは森に住み、海水のミネラルを求めて岩礁へ群来することで知られている。
だがこの海岸でアオバトの姿を見るにはまだ時期が早い。7月以降だろう。
北国の青空と夏雲の季節はまだまだ先である。

***

海岸の主役・カモメは種類が多い。殆どは冬にシベリアやアラスカから渡ってくる。
わが国で通年見られるのはオオセグロカモメ、あるいはウミネコだ。
張碓(はりうす)海岸の弁天島という岩礁では、彼らが毎年コロニーを作り子育てをする。

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桜咲く神宮で

思いもかけぬ暖かさは、今年の桜前線を駆け足にさせた。
先週の函館・松前に続き、札幌も27日に円山公園の桜の満開を聞いた。
あるいはGW中に道東や道北でも咲いてしまいそうな勢いである。
白樺の若葉が萌えてきた野山の雪の減り具合を見ても、今年の春の早さを感じる。

北海道神宮は札幌市の円山山麓に鎮座する。我が家からもほど近いので、
境内の桜を愛でながら小さな動物や野鳥たちを撮影するのが私の恒例である。

参道の桜

参道の桜

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朝一番の清浄な境内の空気を吸って参拝を済ませる。8時前はまだ人も少ない。
参道の桜の樹々は、薄紅色の雲を重ねたような枝を優美に差し掛けている。
通勤前に参拝するスーツ姿の若者や、敬虔な面持ちでゆっくり歩を運ぶ初老の男性、犬を散歩させる女性たちがちらほらと行き過ぎる。
不安げな曇り空がいつしか晴れて、春の光が柔らかく神域の杜を包みはじめた。

エゾリスが走り回る。秋に埋めておいたクルミを忙しく掘り出している。
そんなに大きなのをくわえて、あごが外れないのかと心配になるほどだ。
ちりちりと軽やかなさえずりが聞こえてきた。
シジュウカラやハシブトカラが、桜や梅の花の間を飛び回っている。
美しいヒノキやスギの林の中では、枝のカラスがのんびり啼いている。
人界の雑事を忘れる至福のひとときである。

木鼠の耳ふさの毛の揺れるごと  やはらかな風吹くここちして

あった、あった

あった、あった ♩〜

 

稜線から下りてくる秋(2)〜 10月の山々

11月も早くも中旬。札幌ではこの冬はじめて本格的な雪が降った。
窓の外は銀世界になったが、ついこの間の明るい秋の日を思い出しながら
10月の紅葉の旅を簡単にまとめてみようと思う。

***    ***

■「トナシベツ渓谷」の紅葉と渓流のアメマス

10月初めに夕張岳の東麓のトナシベツ渓谷を訪ねた。
高山植物で名高い夕張岳は、西側の大夕張コースが登山者に人気がある。
だが私はまだ登ったことのない東側の静かな金山コースに惹かれている。
今回はその登山口の偵察も兼ねて車を林道の奥へ走らせた。

静かな山の秋だ。沢がさらさら流れ、ひと風ごとに枯れ葉がゆらりと舞い落ちる。
登山口の駐車場には私しかいない。きらめく川辺にもみじの赤が燃えている。
三脚を立て、構図をとり露出を決め、あれこれつぶやきながら盛りの秋色を堪能した。

一時間ほどで車にもどり釣り竿を出す。胴長を履いて素人漁師に変身だ。
胸を躍らせて、本流に支流が合して泡立つ深い渕を狙って竿を振り込む。
小さい重りをつけたエサが、ポイントの深みにすっと沈むや、ぴゅっと引き込まれた。
コンマ何秒かの呼吸で手元を合わせる。ぐんと手応えが返る。「ニジマスかな?」
いや深みにグイグイ引き込むこの動きはアメマスのようだ、それも結構な大きさだぞ。
竿を立てて向こうが疲れるのを待ち、ゆっくり岸辺に寄せる。ウム、アメマス君だ。
30cm弱というところか、いい型だ。

この二年ほどで私もだいぶ釣りの基本を覚えて、坊主で帰ることはなくなった。
だが逃げようともがく魚を見て可哀想に思い、そこで止めてしまうこともある。
そんな奴でも、渓流釣り自体はとても気持ちよくて楽しいのでどうにもならない。
仲間には笑われそうだが、私は生まれつき甘ちゃん性質なのだろう。
この日もアメマスを三尾だけ釣って大事に持ち帰って美味しく頂いた。
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稜線から下りてくる秋(1)〜9月の山々

この秋の紅葉の美しさは格別で、私は頻繁に山に入り、心を染めるような秋景色を撮ることができた。
先般の大雪山(黒岳から旭岳)に続き、東大雪(糠平、然別湖、音更山)を始め、遠くは知床・羅臼岳、また大雪の愛山渓〜沼ノ平、夕張岳東麓のトナシベツ渓谷、日高山麓のパンケヌーシ川、秋田県の鳥海山と充実した撮影行。記録整理の暇もないひと月を過ごした。どの撮影行もそれぞれ印象深い。

■東大雪/音更山は撤退、然別湖のナキウサギに会いにいく

私は東大雪の静かな山域が好きだ。訪れる人が少ないことは深刻な問題でもあるが、やはり静かな山はいいものだ。そこには何か別の時間が流れているような大きな感覚が残されている。

東大雪の森で

東大雪の森で

9月半ばのある日、十勝三股の十石峠から音更山(おとふけやま)を目指した。石狩岳に隣する音更山はコースが長いこともあり未だに登頂していない。この日も朝から雲が出て登るにつれて空が暗くなってきた。ついに稜線が白いガスに包まれたので、もはや写真にならないと思い峠で引き返し下山した。またしても音更山は遠い山となった。

撮影にならないため登頂せずというケースは多い。自分自身も登頂そのものにこだわらない。山と写真を一組に考えるうちに、いつの間にか自然にそうなってきたようである。
この日は音更山を諦め、翌日は然別湖方面に転進してナキウサギの撮影に没頭した。

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日本の自然を守るのは誰か

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夕張岳の沢(ペンケモユーパロ川)

先の小笠原諸島の世界自然遺産登録の報道は、近年の例に比して案外静かだった。

まず小笠原諸島はやはり遠い島であり一般の関心を惹きにくいことがあるだろう。
白神山地や屋久島、知床のようにブームになりそうもなく、震災後の世間の鎮静な雰囲気もある。あるいは「世界遺産」自体が早くも陳腐化してきたのかもしれない。

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クマを探した夏

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今年はあの尾根から探してみよう、あの沢に張ってみようなどと思いを巡らした夏の大雪山。
豈図らんや、誰もが驚くとんでもない集中豪雨に見舞われて、道内各地で道路の崩壊や洪水だらけ。
入山にも危険が生じ、考えていた撮影計画はほとんど白紙に戻さざるを得なくなった。

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