中島社長

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強い衝撃を受けた。JR北海道社長・中島氏が書き置きを残して失踪というニュース。
8年前に私がJRを退職したとき氏は常務取締役で、笑顔の優しい温和な方だった。
直接の上司になったことはないが皆から慕われていた印象がある。
社長になられたのはごく自然なことだと思ったものだ。
それが今日の知らせに耳を疑った。


JR北海道が直面した今年の事故は確かに耳目を集めるものが多かった。
石勝線トンネル内の列車火災や信号機の故障、列車の部品脱落などで
監督省庁からの指導も多数に及んだと聞く。
新聞やメディアは例によって「過労による」「心労がたたって」という。
おそらくそれは正しいし、それ以外にはないだろう。
「温厚で責任感の強い人だったから」という。
それも間違いない。

だがこれらは無意味な説明である。問題の本質はほかにある。
私は今回の中島社長の行動を通じて企業経営者が置かれている立場の危うさ、重圧を改めて思わざるをえない。それは常に不特定多数の「敵対的な視線」に曝されている誰をも頼れない孤独と救いのない残酷な立場なのだと思う。

仕事だからという一言では済まされない常軌を逸した重圧を生む主因は
私はメディアによる一方的で執拗な企業叩きの報道姿勢にあると思う。
それが誠実な経営者ほど道義的に苦しむ状況を演出している気がしてならない。


先のJR西日本の運転士の居眠りによる脱線事故は悲惨な結果をもたらした。
事故で命を落とした人々の無念、関係者の胸の内は計り知れない。言葉も無い。
だがその思いを勝手に代弁するかのように正義面でJR西の経営陣をはげしく非難するテレビ出演者を見て、私は心の底から嫌悪を覚えた。
「あんたら、何様のつもりだ」と。
鬱憤ばらしさながらに、立場上反抗できない者をいじめて楽しむごとき報道姿勢、あくまで形式上の責任者を道義的に断罪する無軌道さは見るに耐えない醜悪さで知性の欠如そのものであった。


あえて言えば、事故はもう起こってしまったものだ。
100%防ぐことができたはずだとは誰もいえない。起きてしまった事実は返らない。
居眠りしたのは過酷な勤務のせいだというが他の運転士も同じ条件で働いている。
これこそが原因だ、などと言い切れるはずがなく、日常の何でもが事故の原因になりうる。
その意味で事故は運命という一面をもつ。人間の努力と注意の及ばない領域があるのだ。


JR西日本には社会的な重大責任がある。誠心誠意の補償と謝罪をするしかない。
だが誰もが同じように突然の事故で世を去る可能性はあって、この世に生きている限り我々はみな運命に対して同じところにいる。
JR経営陣は神ではない。事故に道義的責任を負うほどの全知全能の存在ではない。
それでも誰かを悪人に仕立て上げて、みんなで袋だたきにして正義面しようとする、ヒステリックで幼稚なその姿を見て哀しくなった人は実は多いのではないか。
マスコミの興味本位・面白主義は関係者のやり場のない悲しみと怒りを冒涜するものだ。
「どうしてそっとしておいてやらないのか。本当に悼む気持ちがあるなら」


JR北海道の中島社長が、どうか思い直されて皆の元へ帰ってこられることを心から願う。
かつて貴方を知りお世話になった一人として、どうか強い心で戻ってこられますようにと願う。

私には祈ることしかできない。

(photo: JR時代に車掌勤務中の小生)

沢登り

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この夏、私の「マイブーム」は沢登りである。
所属している山岳会の大先輩たちと一緒に、滝を登り岩をよじり、時には淵を泳いだり。
背丈を超える笹薮の中を煤だらけになって漕いで、山頂へ至る。

沢登りは登山道のない時代の原始的な山の世界を楽しむ、ある意味贅沢な趣味だ。
だがその自然度の高さゆえに甘えの許されない緊張と背中合わせである。
登山をする人は多いが、この魅力に目覚めるかどうかは、人それぞれであろう。

一昔前の登山ブーム時代には男女を問わず沢登りを楽しんでいたが
昨今の「山ガール」ブームが「沢ガール」へと移行するかどうかは微妙である。


先日、支笏湖にほど近い漁岳(いざりだけ)という山へ沢登りをしてきた。
この山には春の残雪期に一度スキーで登ったが、そのときに聞いた夏の沢登りの話が心に残り、今夏それが早くも実現したことをとても嬉しく思った。

技術的に難しい沢ではなく、しかも渓谷の様相が大変美しく、山頂の眺めもいい。
深い淵の緑色は溜め息がでるほどだった。


沢登りは魅力的だ。
誰もいない河原でのキャンプと焚き火。釣った魚で飲みながら語り合う夕べ。
ごつい岩をよじ登り、滝の飛沫に打たれ、函を泳いで川水で全身を濡らして
虫やクモの巣、濃い笹薮をかき分けて、ハイマツの松脂にまみれて目指す山の頂。
沢から山を登っていくときの感覚は、普段私たちが忘れている何かを確実に刺激する。


合理的思考と原始的直感が渾然一体となるそのとき、「至上の知」の形が現れる。
その体験は、私たちが生きていることの本質に深く関わっているように思う。

(photo: 漁川遡行中の美しい淵)

日本の自然を守るのは誰か

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夕張岳の沢(ペンケモユーパロ川)

先の小笠原諸島の世界自然遺産登録の報道は、近年の例に比して案外静かだった。

まず小笠原諸島はやはり遠い島であり一般の関心を惹きにくいことがあるだろう。
白神山地や屋久島、知床のようにブームになりそうもなく、震災後の世間の鎮静な雰囲気もある。あるいは「世界遺産」自体が早くも陳腐化してきたのかもしれない。

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メディアリテラシーと「内なる自然」

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6月2日、内閣不信任案は否決されましたが
菅内閣はようやく終焉へ大きく踏み出したと思います。

首相にとっては党内の造反を抑えた「勝利」でも
国民はその手法の卑劣さと醜さをしっかり見ていますから
そんな人間の末路は知れているものです。
8月退陣、今度こそ本人の意図とは違って現実になるでしょう。


さてここでは少し別の話をいたします。

今回多くのメディアが不信任案を「権力争いのゴタゴタ」と呼びました。
地方ラジオのDJまで「なぜ今、不信任案なんでしょうかね」と嫌悪を示し
視聴者のお便りも「被災者のことを考えて!」というものばかりが紹介されていたように感じました。

「被災者のことを真剣に思えばこそ一刻も早く首相交代が必要だ」という意見はなぜか急に影を潜めて、表立ってきませんでした。

この極端に偏った民主党擁護の報道姿勢は、09年の政権交代の時に
メディアの論調がみせた印象操作と同じ手法だと思います。
あのとき多くの国民が「自民は駄目」の執拗なイメージ刷り込みにやられて
熟慮もせず覚悟もないまま、新聞やテレビの論調に引きずられて投票した結果今の民主党政権が誕生してしまったのでした。

その後の民主党政権による日本の弱体化と劣化はご存知の通りの惨状で
残念ながらメディア工作に極端に弱い日本人の欠点が露呈した形です。


今の日本人のテレビや新聞への無警戒な依存ぶりは常軌を逸しています。
いわゆる世論はメディアが操作して作り出しているのが実態で
さらに外国がそれを利用して日本社会を操作している。由々しき状況です。

そういえば大学入試に朝日新聞の思想満載の『天声人語』が使われました。
朝日記者の思想を刷り込まれる子どもたちの将来が心配です。

それに新聞コラムなどは断片的文章のつぎはぎで、美文とはいえない。
あらゆる面で教育には不適当な代物といっていい。
日本人の新聞信仰はもはや病気の域にあると感じる事例です。


これも余談ですが
今回の不信任案否決の裏に外国の介入はなかったのでしょうか。
菅直人氏のこれまでの巧みな保身術は
ひょっとすると外国のspyによる入れ知恵なのではないか。
なぜかというと彼のやり方は日本人の常識では理解できないものが多い。
嘘をつくことが平気な神経、仰々しく空虚なパフォーマンス。
なんとなく2008年五輪の開会式と似たメンタリティが連想されます。
彼は外国人から多額の献金もこっそり受けていましたし
N.Koreaの拉致犯人釈放懇願書にも署名していたことを思えば
あながち的外れではないかもしれません。


さて話を戻すと
テレビや新聞の言説を自分の感覚よりも優先することは
言い換えれば現実よりもメディアの作る幻想を信じることであります。
そんな人が今の日本にはかなりいるのではないでしょうか。

架空の世界に心を遊ばせたまま、現実の世の中に興味を持てない人が。
いわゆる「ネットおたく」だけの話ではありません。
テレビを中心とした非現実的な世界も本質的に同じでしょう。

こんな精神のホルマリン漬け状態にならないためには
生々しい現実を自分の言葉で解釈しようとする態度が不可欠です。
テレビや新聞の報道記事は「誰かにすでに意味付けされたもの」であり
必ずもう一度自分の頭で考えて、意味をつけることが必要なのです。


戦時中の大本営発表は「国民を騙した」と悪し様に言われますが
それは今のマスコミも同じでしょう。
(いや、今のマスコミは米国や中国・朝鮮の意思に操られています。
誤謬とはいえ日本勝利を願っていた大本営発表よりもずっと悪質でしょう)

ともかく
メディアからはなるべく距離を取り、常に疑いましょう。
特にテレビの洗脳効果のすさまじさは心しておきたいものです。
テレビ漬けの幼児の脳の発達が阻害される事例は、大人でも無視できません。

というわけで私は必要最小限、なるべくテレビを見ないようにしております。
現実感覚を研ぎすまして、心を眠らせずに物事をしっかり見ること。
それは誰もが本来もっている力「内なる自然」の回復でもあります。
メディア惚けからの脱出は日本人に活力を取り戻すと私は信じています。
人生は自分の言葉で語ろう!をキーワードに頑張りましょう。

(終わり)

「内なる自然」への思い

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ブログは頻繁に更新するものだと
やる前には当たり前のように思っていたのですが
実はたいそう難しいことだなあと
やってみて気づいたのであります。

少しでもきちんとした文章を書こうとすると
論旨がなかなかまとまらず、思いが先走りがちで
何度も何度も校正、書き直しを繰り返して
そのうちに忙しさにかまけて放ってしまい・・

こんなことではいけない、と気持ちを変えまして
随分久しぶりの書き込みです。


先月HPのギャラリーを更新しました。
主題は『逍遥 ~内なる自然への旅』です。
年に一度の更新(決めたわけではありませんが)なので
いろいろ考えて構成しております。

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被災者の方々への哀悼と

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その時、私は北海道東部、早春の雪が美しく輝く知床の森の中にいた。

静寂の中に風の音と海鳴りだけがかすかに耳に響く穏やかなこの午後に
東北地方を中心に関東・中部を襲った大きな揺れを感じることはできなかった。
撮影中は情報隔離状態の私が今回の事態を把握したのは、翌朝になってからだった。


本州の家族親族の無事が分かって安堵したものの、被害の実態が判明するにつれて暗澹たる気持ちになる。

同情ではない。突然に非日常に投げこまれ、問答無用の現実に命を曝されている被災者の心境をいくらリアルに想像しようとしても出来はしない。
もし私に被災体験があったとしても「今このとき」の彼らの必死の思いを共にできるはずもない。

ただ、大切なものの一切を失ってしまった彼らを待っている堪え難い空虚と絶望を想うとき、この世に生きていく誰もが逃れようのないある種の悲哀が強く胸を締めつける。


日常は突然前触れもなく非日常に変貌した。その過酷な現実に思いを馳せるとき今自分がここにあたかも部外者として存在していることの意味を考えざるをえない。

自分が当事者でないことには何の必然性も合理的理由もないからだ。

人間社会とは何と危うい微妙なバランスの上にある存在なのだろうか。


札幌に戻ってきたのが13日、こちらは幸い何事もなかったかのように動いている。

歴史上希有なこの自然災害で心ならず鬼籍に入られた方々のご冥福を心からお祈りする。

そして困難な復興に立ち上がるすべての同胞とその心を合わせ支えんことを願う。

充実した紀元節の一日

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今日は日本の建国記念日、大変めでたい日である。
昔は紀元節と呼ばれており、それこそ国中挙げてお祝いしたという。

だが今はどうだ。三連休となれば「何をして遊ぶか」ばかりだ。
祝日だというのに、祝いの雰囲気は皆無。
街を歩いても国旗を掲揚する光景にまったく出会わない。
おかしな国だ。心の軸が何重にもねじれているようだ。

**
大通は7日から開催中の雪祭りの見物客でごったがえしている。
前日の雪の予報をものともせず青空に恵まれ、大層な人出だった。
昼頃、私はロイトン札幌ホテルに足を踏み入れた。

日本再生を目指す国民運動のひとつ「日本会議」主催の式典
「建国記念の日 奉祝道民の集い」に出るためである。

《式典》

壇上正面に大きな日章旗が掲げられていた。
閑散とした会場が次第に来賓で埋められていく。
60歳以上の年配の方が殆どと見受けたが、中には若人もいた。
仲間同士で誘いあってきた者、独り静かにきた者。
この厳粛な会場に自ら足を運んだ人々に明朗誠実な強さを感じた。

自然な愛国心に触れるのはよいものだ、とても清々しい気持ちになる。

オープニングセレモニーには、伝統舞楽の福井ばやしが披露された。
350年前、今の福井県にあったお宮が発祥の地という。
開拓移民とともに札幌に渡り、保存会が守ってきた。
笛と鉦の奏でる神事空間の中に、大小6つの太鼓の響きが空気を震わせる。
高天原へ通じる扉を開くかの如くに、太古の血を沸立たせるリズムと力感。
15分ほど休まずの演奏に、こちらも体温が確かに上がった。

皇居・橿原神宮遥拝、国歌斉唱と続き、日本会議北海道本部理事長による式辞。
また明治天皇御製を歌い上げた祝吟は素晴らしかった。

《明星大学教授・高橋史朗先生による講演》

「『教育の危機を救う』伝統的子育て」と題した興味深い講演だった。
現在の日本の教育と子供たちの置かれている惨状に対する深い憂慮と考察、
特に学級崩壊や非行、不登校などの問題が子供の幼児期の育て方による発達障害と密接に関わっていることなどを脳科学の研究をひいて明快に説いて下さった。

日本人の「恥の文化」を身につけることが出来るのは2歳から3歳まで、
そこを疎かにすると他者との共感性を欠いた非常識な人間に育つとのこと。
ゆえに学校で道徳教育を導入してももう遅い、親が変わらなければだめなんだと。

至極もっともである。子育ての仕方を知らない世代が親になって、日本の子供は一気に発達障害が増えたのだ。

《愛されない不幸な子供たちの国・日本》

高橋先生の話の中に信じられない本当の話があった。
子供の名前に親が願いを込めるのは、もう「昔の話」らしい。
とんでもない名前、先生が読めない名前の子が入学してくるという。

「光宙」と書いて「ぴかちゅう」という名の男の子
「愛猫」と書いて「きてぃ」という名の女の子
「強運」と書いて「らっきー」という名の子
「一二三」と書いて「ワルツ」という名の子・・・

冗談ではない本当の話だとのこと。背筋が寒くなる思いがした。
常識もルールも何もない。あまりにひどすぎる。
こんな学校の先生は気が狂ってしまうのではないかと心配する。
ある子供の作文でこんなのがあったらしい。
「大きくなったら法律家になりたい。親のつけた名前を、子供は自由に変えてよいという法律をつくりたい。そして変な名前をつけた親を有罪にして罰金をうんと取る法律を!」

なんてひどい国になってしまったのだろう、わが日本は。
親に愛されず、おもちゃにされるだけの子供たちが急増している。

かつて世界一幸せな子供たちと言われた江戸期の日本の子供たちは
150年たって、今や世界一不幸な子供たちと言われている現実。
あまりに不憫であまりに残酷な話だ。

非常識で幼稚な親たちを「大人」に仕立て直すしかないのだ。
日本が立ち直るか滅ぶのか。われわれは崖っ縁に立たされている。

《パレードで解散》

講演が終わり、紀元節奉祝歌を斉唱して式典が終わった。
その後は有志参加の奉祝パレードに、日の丸の小旗を持って加わった。

大きな雪像が並ぶ大通公園の脇を、「おめでとうございまーす」の声を挙げて道行く人々にも「今日は日本の国が生まれた日なんですよ、みんなでお祝いしましょう」というメッセージを伝えながら歩いたのである。

少々気恥ずかしいが、自分が日本人であることを改めて感じ嬉しくなる。
なかなかよいものだ。

みなさんも、よかったら日本会議に入会しませんか?勧誘ではありませんけど。

「北方領土の日」に寄せて

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2月7日は「北方領土の日」ということで、10年以上も前にNHKで放送された
「北方四島の自然」という番組のビデオを引っ張りだして見た。


四島の中でも、国後島の爺々岳山麓、原始の森の美しさが素晴らしい。
80%を針葉樹が占める針広混交林に、北海道では絶滅あるいは稀少に
なってしまった動物や植物が豊富に生息している。

特にシマフクロウ、ヒグマ、クマゲラなどの多さには驚かされる。
道内ではもう見られないグイマツもある。

ロシアのサハリンテレビの撮影で作られた、当時の貴重な映像を眺めながら
今もこの豊かな自然が変わらずに残されていることを願わずにはいられない。

**
北方四島には江戸時代以前からの日本人の生活史があることを思うと
改めて「何としても取り戻さなければ」との思いが込み上げてくる。
敗戦時のどさくさに不法占拠されたまま、何もできないとは情けない。

なぜ2月7日が「北方領土の日」に制定されたかというと、
幕末の1855年(ペリー来航の2年後)のこの日(旧暦12月21日)
日魯通好条約が結ばれて、北方四島が日本領として確定されたことによる。

これ以後、両国の国境は何度も変わったけれども、四島は一貫して日本領土
だった。

**
ロシアは今、国内状況はボロボロらしい。貧富の差は限界に達し人心は荒廃、産業も財政も軍事も破綻寸前の危機的状態だという。
これまでも日本の経済援助、資源開発援助を求める手段として領土返還をエサにちらつかせてきたが、今後はますます顕著になるだろうという。

まったく残念だが外交センスも国益意識もない今の政権ではそんな死に体のロシアにすら利用されるだけだろう。
だがいずれまともな日本政府ができた暁には、冷静な戦略をもって平和的な形で領土を取り戻す交渉ができると思う。

傲慢なロシアに臆せず、友好の嘘でごまかしたり裏取引で妥協したりせず
きっちりと獲るべき実を獲る、強い交渉が。
そんな日がくることを信じている。

それまで元島民の方がひとりでも多く長生きして下さることを切に願う。

(写真:国後島の夜明け)

タダほど怖いものはなし(慨嘆)

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小生の住む札幌市では今年から「子宮頸がん予防ワクチン」の接種が無料化された。
これまでは自費負担で5万円かかる高価なもので、ありがたいと喜んでいる親御さんも多いかもしれない。

だが、しばしお耳をお貸しいただきたい。
このワクチンに関する情報は、かなり偏っていることにお気づきだろうか。
本来肝心の「安全面」に関しての説明がほとんど報道されておらず、
「無料」ということだけが強調されているように思われないか。

(ウチには女の子はいないけれど)気になったのでちょっと調べてみた。
するとやはりこのワクチンはかなり問題のある代物であることがわかった。
心ある人たちが今懸命にこの危険性を声を上げて訴えている実態に出会ったのである。

**
専門的な詳細は別途ご覧頂くとして、心配な点をかいつまんで説明しよう。
まず大きな問題は、ワクチンに含まれるアジュバンドという成分だ。
これは実はペット(犬や猫など)の去勢・避妊薬としても使われており、
専門家はこのワクチン接種によって女性が妊娠能力を失う危険性すら指摘している。

またこのワクチンはカナダでは既に使用禁止になっているという。
副作用による死亡例もあるらしい。

普通に考えて、これだけでも接種を控えるべき理由としては十分であり、
なぜ札幌市や厚生労働省は安全性の議論を敢て無視して接種を奨励するのか不可解だ。
国民の健康や安全を軽視する無責任な態度だと言わざるをえない。


先日、札幌の保健所の方がラジオの番組で言っていた。
HPVはそもそも女性のほとんどにいて、90%は自然に消滅していく。
残り10%の人のうち運悪く子宮頸がんが発現するのは1割ほどに留まるらしい。

その後研究が進み、現在ではHPVウイルスは子宮頸がんの主な原因とは
いえなくなっているとのことだ。ワクチンもHPVに対し6割程度の効果しか
期待できないという。

さらに、HPV(ヒトパピローマウイルス)には種類がたくさんあって、
この輸入ワクチンが効果を上げるとされるウィルスの型は欧米人には多いが日本人には少ないタイプだという。

つまり大和撫子には役に立たない薬を、税金を使って大量に輸入している・・・
喜ぶのは薬を売る外国製薬会社のみだ。

**
わが国では子宮頸がんにより年間3000人以上が死亡している。
この数字は痛ましいし、何とかしなくてはいけない。
だがこのワクチンをあたかも救世主として仰ぐほど無意味なことはあるまい。

以上述べたように危険が多いだけで効果はほとんどない代物なのだから。

子宮頸がん自体は、検診で早期発見をすれば治療できるものだという。
ワクチンは副作用のあるもので、ゆえに「劇薬」に分類指定されている。
安全性を考えて、むしろ定期検診を周知し充実させる方策を考えるべきであろう。

手軽な劇薬をみんなで接種する方向を奨励するのは、やはりおかしい。

げに恐ろしきは無知なる善意
宝珠の無垢な乙女らを危きにさらして
「われ善を為せり」と悦に入るこそ浅はかなれ
市政の軽薄、偽善の姿ここに見たり

このワクチンを全国で無料にするべく運動している人たちがいる。
単なる無知によるものなのか、それとも恐るべき悪意があるのか・・・

いずれにしても賢明なる我々国民はこのワクチン接種は避けるべきであろう。
まさに「タダほど怖いものはない」のである。

(写真:芦別岳と空知川冬景色)

※上で紹介した詳細は以下で見られます、ぜひご覧いただき共に考えて下されば幸いです。
(URL全体を指定して右クリックからブラウザを開いてください)

○ ワクチンによる危険について知らせる動画とブログ↓
チャンネル桜「(薬害の恐れ)子宮頸癌予防ワクチンの危険性」H22/7/29

「サーバリクス子宮頸がんワクチンによる民族浄化」弁護士 南田喜久治氏

ブログ THINKER 「子宮頸がんワクチンの危険性」
http://www.thinker-japan.com/hpv_vaccine.html

ブログ「老婦人の日記」(子宮頸がんワクチンを打つのは待って下さい!)
http://blogs.yahoo.co.jp/sannsyou91/25334920.html

○こちらはワクチン接種を奨励する記事↓
徳島県医師会
http://www.topcs.or.jp/special/122545452297/2010/05/2010_127336861757.html

リポンムーブメント(女子大生によるワクチン接種奨励運動)
http://ribbon-m.com/

○ 参考
新型インフルエンザに関する記事
「待って!そのワクチン本当に安全なの?』

外国の製薬会社と利権絡みで、またぞろ汚い世界が動いているようです。
日本人は危機感が薄いので世界中からカモにされているのでしょう。
薬害エイズの教訓です。厚生労働省もあてにはならない。自分の体を守るのは自分。

目覚めよ日本男児!

Moon-rose-Karikachi

早いもので師走である。
平成22年はみなさんにとってどんな年だったろうか。
私にとって、今年ほど心穏やかならざる年も珍しかった。

寝惚けた民主党政府が改めて教えてくれたことがある。
私たちの国は戦後ずっと世界のシビアな現実から目を背けてきたということだ。

1945年の敗戦後、日本人は一体となり焼け跡から驚異的な復興を遂げた。
70年代にはGDPで世界第二位の経済大国、裕福な国となった。
だが米ソ冷戦の最中にあって日本の高度成長が可能だったのは
国防をアメリカに依存して軍事費を経済復興に回せたことが大きかった。

そして今はどうか。日本は自力では国防もままならない非力な半独立国家のままだ。
頼みの綱だった経済力もその地位を失いつつある。
平和とは国際的バランス上に成り立つ微妙なもので、今後も続くとは限らないのだが、私たちはこの異常な状況に慣れきって国防についての思考回路を失っている。

そんな戦後日本人の平和惚けの象徴が「日本国憲法」前文だろう。
そこにはこう書かれている。

「日本国民は・・(中略)・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

日本人は自分たちの安全と生存を外国に委ねると明記しているのだ。
そして、平和を維持しようと努めているのは国際社会だという。
なんと現実離れした甘い認識だろうか。

今も昔も国際社会はシビアな弱肉強食の世界であり、自立の気概なき国の存続は危うい。
諸国民は決して公正ではないし、まして弱小国の面倒など見てはくれぬ。
日本が65年間平和でいられたのも、その経済力を利用するアメリカの都合によるものだ。


今、中国は核ミサイルを数百発持ち日本の主要都市に照準を合わせている。
尖閣の漁船衝突事件は小手調べで、来年の夏には本格上陸が計画されているらしい。
中国共産党の本当の狙いは沖縄である。領土を奪われる危機に日本人は鈍感すぎる。


そして何よりも北朝鮮にいる拉致被害者をいまだに取り返せずにいる。
政治とは国家の領土領海を守り、国民の生命と財産、安全を守るものである。
その意味で日本には65年間「政治といえるものはなかった」といってもよい。

戦後日本の繁栄は、シビアな国際社会を経済力で乗り切ろうとしたものだった。
だが、金で国は守れないことは歴史が証明している。
現にチベット、ウイグルは中国の軍事侵略を受けて悲惨な目にあっている。
同様に軍事力で来られたら、日本は戦えるのか。
国を守る意識の薄い今の日本は、あらゆる場面で外国人の干渉に対し無防備である。

何より大事なはずの国籍が軽んぜられ、簡単に取得できるようになった。
さらには、国を乗っ取られる危険がある外国人参政権までホイホイ与えようとする。
そして今はテレビマスコミがパチンコなどの外国勢力に握られ、彼らに都合の良い番組が作られる。
事態は本当に深刻なのだ。国民の生存本能が鈍っているのである。


街で見かける看板には「生活第一」「いのち大切に」「クリーンな政治」・・・
いつまでも、こんな空虚な言葉で騙されて思考をストップさせていてはいけない。
一般国民が性根を据えて「日本人による日本人のための社会」を本気で考えるときがきている。
日本男児よ、覚醒せよ。
「草食系」とか「癒し」などと甘ったるい日常に遊んでいる場合ではない。
今、危機意識を多くの人が共有していかなければ日本は沈没する。明るい未来はないのだ。

(写真:十勝平野に月昇る)