国民精神はどこにある

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「人ごとではない」
「最後はみんな独りなんだ」
100歳を超えるお年寄りの所在不明が続発している。
生死すらわからない、連絡がとれないという。
あろうことか家族による年金の不正受給まで起きているらしい。

本当にここは日本なのか?と背筋の寒くなる思いである。

ことほど左様に
異常を異常と感じなくなった現代社会。
一体感のないバラバラの、不安だらけの「個人」生活。
そんな中で、最後の拠り所たる家族関係すらこの有様とは。

今や血のつながる家族よりも
犬や猫というペットが家族だそうだ。
自分の気に入ったものだけあればOKという思い上がりで
人のつながりを軽視あるいは忌避した結果
却って人生を損なっていることに
どれほどの人が気づいているだろうか。

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いわゆる「家族の崩壊」について考えるとき
私はいつも、現行の介護保険制度が頭に浮かぶ。
これは親を他人の手にゆだねることを制度化してしまったもので
いわば法による「親不幸ノススメ」、天下の悪法だと思っている。

制度導入時、会社員だった私はいいようのない嫌悪感を抱いたものだ。

親の介護は確かに労ではあろう。
しかし、老いた両親を子が看るのは当たり前のことで
人としてまっとうなあり方だと誰もが分かっているはずだ。

介護保険制度は、その自然な親子の情を安易に削ぐものだ。
目先の労苦を取り除くことだけを重視し、人の気持ちを捨象している。
すなわち老親の世話を「苦役」と見る非情さを不問に付している。

どんなに親切な介護ヘルパーも、しょせん他人であり
この世でかけがえのない家族に代わる存在ではない。

親の世話を他人様に頼む場合、相当な苦悩があってしかるべきで
それを制度にしてしまっては人の心は浅く薄くなるばかりである。
介護の手が足りないケースについて根本原因は何かを含めて
人の心に本当に必要なものは何なのかを
もう一度よく考えてみるべき時期ではないかと思う。
(この制度はもともと見直しを前提でスタートしたはずだ)
安易にヘルパーを増やせばいい問題ではないし
ましてや、外国人労働力に頼るなどもってのほかだ。

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とにかくも
百歳まで生きることは間違いなく言祝ぐべきことであってほしい。
邪魔にされたり行方不明とはあまりに悲しい。
いずれは自分の行く道でもあるのに。

戦後あまりに個人の自由を優先したために
家族の意味も
先祖から子孫への繋がりの意味も
肌で感じられなくなった日本社会がある。

現在の自分のことしか考えられない国民の心の空しさを
私はこのうえなく重大な危機と感じている。

「幸せとは何か」とは答のない問いかもしれない。
だが人はみな老いるという現実に向かい合うとき
たとえ不便でも貧乏でも
心安らかに老いていけた昔日の社会秩序のありがたさを思う。

万古変わらぬ人の宿命に処する知恵を
先人の伝統精神から汲み取り示すことは
まぎれもなく
私たちの存亡にかかわる危急の課題であろう。

(写真:夏の十勝岳に咲いたエゾイソツツジ)

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