国史について」カテゴリーアーカイブ

年の瀬、感謝と安堵と少しだけ嘆息

090922-D-0258

【 安倍首相の本気に感謝 】
12月26日で政権発足一年を迎えた安倍晋三首相が、靖国神社に電撃的参拝をされたと知り、
私はまず「ありがとうございます」と心の中でつぶやいた。
そして新聞各社の記事を見て、予想通りの反応に苦笑しながら、この一年のわが国の歩みに思いを馳せた。

今年は伊勢の式年遷宮が行なわれ、わが国も全体として大きな節目を迎えた。
「長年の垢を落し清浄な正気を取り戻す」
遷宮にあやかるように地道な取り組みが積み重ねられてきた一年だった。 続きを読む

まず「戦後日本」を清算するべきだ

130507-080926-D-0152
私が政治について意識して勉強し始めたのは、30才に近くなってからで
人よりも幾分遅いのかもしれない。
そんな私が分を越えてこうした話題を書くのは、
子供の頃から抱くある強い思いに発している。
『頼むからまともな大人に戻ってくれ、戦後日本人よ』とでも言うべき叫びである。 続きを読む

主権回復記念日によせて~その意味を考える

130428-090804-D-121
占領が終わって日本が独立を回復した61年前の本日、4月28日。
現在のわが国を正しく認識し、今後の展開の方向を予見する人たちには、
静かに催された今日の式典の意義が分かっているだろう。

この安倍内閣が今までの政府(自民、民主問わず)と違う、かなりまともな政府だと
やや新鮮な驚きとともに、多くの人は好ましく感じていることと思うけれど、
今回の「主権回復」を記念するということに対する理解は、残念だが十分とは思われない。

あの7年弱の占領期間においてわが国がどのような状態にあったのか。
国家が主権を失う、或は回復するということの意味を考えたことがあるだろうか。
これほど重要な出来事に無関心なままで、その子孫は安寧に繁栄できるものだろうか? 続きを読む

「国史」なくして未来なし

130423-100114-D2-090

21日、春季例大祭を迎えた靖国の境内に、わが国の閣僚の参拝姿が見られた。
靖国神社のご祭神は、幕末明治以来、国のために戦い亡くなった方々である。
国のために殉じた方々に尊崇の念を示すのは、人として自然の感情だと思う。

靖国は軍国主義の象徴として忌避する声が一部にあるが
それは国史への誤解がもたらす、安易で浅はかな見方である。
たとえば「軍国主義」という言葉遣いひとつを見ても誤解されている。

軍国主義とは本来、軍の独裁的暴走や国民を犠牲にする狂気政治のことではなく、軍事力行使が重要な政策とされていた時代の政治体制の呼称に過ぎない。
戦前は、欧米列強はみんな軍国主義で、500年かけて世界を武力支配してきた。日本は自衛のために軍国体制を必要としたのであり、それ自体は当たり前のことだ。
オレは軍隊が嫌いだ、というセンチメンタルな個人感情とは区別されるべきことだが、戦後日本ではそれが深く混同されて、言葉がおかしくなっているのである。 続きを読む

日本再生元年としたい

130207-B1-002
皆様お久しぶりです。
年末以来、公私において多々動きがありましたが
やっと落ち着いてきたので、再開の一筆を申し上げます。

民主党政権による二年半の「どん底日本」は一応終焉しました。

義勇奉公、救国の一心で政党「たちあがれ日本」に飛び込んだ私は、
「かけはし塾」を皮切りに、年末選挙戦では事務局の一員となり微力を尽しました。
戦時の兵士の心境はかくやあらん、熱意のみで戦う民兵なり、というところでした。

私のいた「たちあがれ日本」は「太陽の党」を経て「日本維新の会」に解消しましたが、政界再編はまだ緒についたばかりで、これから何が起るか予断を許しません。
しかし愛国心ある安倍晋三首相の誕生で、徳俵から中央へ押し戻した形となりました。
反日メディアや自民党内の旧体制派との戦いは油断はできませんが、
中央政府が一応しっかりしたことで、正直気持ちが楽になりました。
まずは心の整理をして、私も銃後の民間人に戻ろうと思います。 続きを読む

71年目の記念日

100426-D-080
昭和16年12月8日、オアフ島真珠湾の戦闘で幕を開けた日米戦争は、
同胞300万の犠牲を礎にして、15世紀以来500年に及ぶ白人植民地支配を根底から覆した。

「ジャップノ卑怯ナ奇襲攻撃ダ!」「ダマシ討チダ」「リメンバー、パールハーバー!」・・・
日本を憎み戦争に追い込んだ米国の立場は、これからも12月8日をこう言い伝えるはず。

そしてわが国の言論、マスコミや教育界も相変わらずである。
「なんと無謀な戦争をしたのか!」「愚かな!軍部の暴走!」「世界を知らなかった、井の中の蛙だった」・・・

祖先が命をかけて国を守ろうとした一大決断を「愚かな過ち」と貶めるだけで、
それ以外の評価は無視する。これは、自ら視野狭窄に閉じこもっているのである。
だから今の日本人は、むしろ戦前よりも世界を知らないのではないか。
自国に無知なまま海外で仕事をしても、真に世界を知ったことにはならない。
むしろ無闇に外国を崇めて日本を蔑む、自虐的な劣等意識に陥りがちではないか。 続きを読む

靖国神社を思う(八月十五日に寄せて2)

DSC01943

今年もまた九段坂上のお社に首相の姿はなかった。
メディア報道は比較的平静で、お決まりの外国の干渉も大したことはない。
だが野田首相は竹島に血走った目を剥く韓国のご機嫌をとりたかったのか、
それとも、ほかの数多の行事や会食のほうが重要だったのか。

やれA級戦犯がどうのアジアの感情がどうのと、参拝しない言い訳ばかりで
「なぜ参拝するべきか」はすっ飛ばされて論じられない。
当たり前だからか?(ならば当たり前に参拝すればよいのに)

一度きちんと説明して参拝されよ、日本国民を信じなされ。
くだらない踏み絵の儀式も廃れて、8月15日は静かな祈りの日になるはずだ。

だがそうさせたくない連中がいて、常識をわざと混乱させようと画策してきた。
日本を断罪して外国におもねり養ってもらっている迷惑な人たちだ。 続きを読む

敗れてなお正義はあった(八月十五日に寄せて)

_DSC0026

う〜 何見てるのさ

本日八月十五日。日本人だけではなく他国も意義を感じている。

この日、韓国大統領は日本に対する「謝罪要求」演説をするらしい。
先日は竹島にいきなり乗り込む暴挙を敢行、それを評して
「選挙を控えての国内向けのポーズだから放っておけばよい」
とわが国の防衛大臣は他人事のように捉えていたが、いわれなき侮辱に反駁せず黙殺するなら自らの尊厳が損なわれよう。

そもそも歴史問題といっても、我等の先人は隣の国に対して
今なお謝罪を要するような極悪事など決して働いていない。

1910年の韓国併合は双方にとって痛みの残る遺憾な政策だった。
だが安全保障上の理由があり、何より国際条約で合法的に行なわれた以上、後から文句をつけるのはおかしい。

さらに日韓基本条約(1965年)において賠償はすべて終わっている。
これら先人の正当な努力を無にするような要求は拒むのが当然だ。
日本人は優しいが、仏の顔も三度までだ。
ガツンと言ってやりたくなる。

「オイ、君らが南下するソ連から生き延びたのは日本統治下だったおかげなんだぞ」と。

続きを読む

尖閣問題、その意味するもの(後)

120702-D2-0021

わが国がなぜ世界に存在し得ているのか、それを真剣に考えたことがあるだろうか。

古代からわが国は一度も外国に侵略支配されたことがない希有な国だった。

13世紀の蒙古襲来は、まさに日本消滅の危機であったが乗り切った。
先の大戦でついに初の大敗北を喫し、国家消滅の危機を迎えたが、幸いにも国の形は守られた。

考えてみれば、67年前などついこの間のことである。
それまでの長い長い間、一度も負けたことがなかったことこそ奇跡的だ。

例えばイギリスなどは、60回以上戦争に負けている。
実に世界の国々は常に戦乱と興亡を繰り返してきた。
仲小路彰氏によれば、三千年の人類の歴史で、戦争がなかった時代はわずか30年に過ぎないらしい。

そして、国家は油断をすればあっけなく滅び得るものなのだ。
古代支那の王朝を見よ。マヤ・アステカ、大ローマを見よ。近くはソ連また然りである。

「神武このかた」二千年以上続いている日本、そんな国は世界中探しても他には見当たらない。


先に、尖閣諸島と沖縄を狙う中国の戦略について触れた。
そう易々とその手は食わない、と信じたいところだが、わが国の実態は甚だ不安である。
民主党政権がこの夏で丸三年を迎えるが、目下わが国は人体に例えれば脳死状態にある。
その血流たる経済は、長い不況に技術と人材が海外に流出し、製造業は上も下も衰弱の一途だ。
景気浮揚策を怠り、国民から更なる税金を絞りとって財政再建を繕おうとする財務官僚。
若者の心は将来への不安にさいなまれ、道徳の軽視と治安の悪化がジワジワと社会を侵蝕している。
少子高齢化が医療、社会保障その他あらゆる分野で不均衡を生起し世代間の不信も拡大している。

大言壮語と不勉強のお粗末な政権では、国家百年の計など到底夢物語である。
そればかりか、行き詰まった挙げ句にとんでもない暴挙に突っ走るかもしれない。


例えば、少子化問題を解決しようと大規模な移民政策を強行したとすればどうなるか。
さあ待ってましたとばかりに、中国人による人口侵略が始まるのは間違いない。
日本政府の甘い思惑を打ち砕き、想像を絶する数の支那人移民が殺到する。
温和な一般日本人の生活環境はなすすべもなく破壊されていく。

かつての満洲、今のチベットやウイグルを襲う悲劇が繰り返されかねない。
日本人は日本に住みながらも、少数民族に追いやられていく。
自然に混血が進み、親子で言葉の通じない家庭が急増する。
学校でも、社会でも圧倒的に多数派を占める中国語が公用語になる。
世代が移り社会で通用しなくなった日本語は、アイヌ語のように歴史の彼方に消えていく・・・

「かつて東洋に日本という国があったんだがね」と世界の人が口にする光景を想像して見よ。
冷膚に怫然たるものがあるではないか。


現在、中国政府は今わが国の水源山林や港湾など、利便な土地を買い漁っている。
また本国の指令ひとつで人民解放軍兵士に豹変しうる留学生を毎年送り込んでくる。
日本政府は留学生支援といって税金でこれを奨励する。能天気にも程がある。
以前長野の聖火リレーに集結した中国人留学生たちの暴虐は記憶に新しい。
中国の日本浸潤は、日本人の油断に乗じて計画通り確実に進んでいる。


日本人が長いこと忘れている世界の常識がある。
それは「外国とは本質的に危険な存在である」ということだ。

我々はとりわけ「友好」という言葉に弱い。
また誠実を尽くせば相手も応えてくれるはずと考える。
だが現実的な国際社会では、そんな甘さは鴨がネギを背負って来るが如しだ。
情勢次第で昨日迄の友好が一変するのが国際関係の真実であり、
都合次第で条約も保古にされる。

まして国連などは大国が利害をぶつけ合う戦いの場でしかない。

その現実を鑑みて今ひとたび「日本国憲法」前文を見よう。

「平和を愛する諸国民の正義と公正を信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。

この憲法を奉じたその日から、日本人は世界に通用しなくなったのである。

「戦わないことが最も強いこと」などという倒錯した幻想に甘えてきたせいで日本人の常識は世界の常識とかけ離れてしまった。

この思い込みを捨て、すべてをもう一度根底から捉え直さねばならない。
己を持するために、戦うべきときは戦う。当たり前ではないか。

外国は彼らの論理で押してくる。吾等は日本の言い分をもって堂々と渡り合えばよい。
相手のご機嫌取りばかりする腑抜け外交とは訣別すべし。
その気概を取り戻すことこそ、この節目の時代を生きる吾等の務めであろう。

日本の国に生まれ、この国で暮らすはずの吾等の子孫の洋々たる未来のために。

(終わり)

(写真:橿原神宮 深田池にて)

尖閣問題、その意味するもの(前)

Yezo-Shika-002

ワシントンで石原都知事が「尖閣を買います」と表明したのが4月中旬。
爾来数ヶ月、国民の静かなる熱望が形となって溢れ出し、都への寄付金はすでに13億円を超えた。
大新聞や地上波は敢て報ぜずとも、ネット上では毎日のように関連情報が飛び交う。

中国政府の傲岸不遜な態度、それに憤懣やるかたなき者、臆する者、また冷笑する者・・
中には不穏で煽動的コメントも多数流され、外国による情報工作活動の盛んなるを見る。
ネット上はさながら足の踏み場なき雑踏、信頼すべき情報を選ぶに困る有様だ。

何ごとも判断に迷ったときには、常識に立ち返り根本から考えることが肝要。
あの小さな島々がなにゆえこんな大騒ぎの元になっているのかを、正しく知ることだ。
人や国がここまで実際に動いている、そこには必ず重大な意味がある。

尖閣諸島が海底資源の豊富な地域ということは既に知られている。
中国共産党政府は、1960年代から唐突に自分の領土だと言い出した。
最近では「核心的利益」と呼び、確保のためには戦争も辞さないと鼻息が荒い。

だが尖閣諸島のもつ意味はその程度のことではない。
資源のためだけでこれほど長期にわたる執拗な挑発をしてくるものではない。

この問題の本質は、中国の領土拡張主義とその未来戦略にある。
米国と互角に太平洋を支配せんとする、彼らの長期的な軍事戦略の一環なのだ。

試みに世界地図を逆さまにして見よう。上海辺りから太平洋をみる。
大陸から太平洋に出て行こうとすれば、大なる地理的障碍は日本列島と沖縄南西諸島である。

実は尖閣を狙い始めた当初から、中国は「琉球奪還」(沖縄を日本から独立させ中国のモノにする)を唱えてきた。
沖縄を独立共和国として、台湾共々奪い取り、太平洋に確固たる勢力を拡大する狙いだ。

そして現在、沖縄のマスコミは中国政府の手先と化した観がある。

「米軍基地反対!」「集団自決は日本軍による強制だ!」「琉球は日本ではない!」

歴史の偽造と感情論を巧妙に組み合わせた偏向報道が沖縄県民に反日意識を刷り込んでおり、思想工作は着々と進行中である。

ごく最近では、普天間基地へのオスプレイ配備に対する報道も顕著な例だ。
メディアは「地元の声」として配備への感情的な反対意見ばかりを報道する。
だが実情はそんなに単純ではなく、オスプレイの能力は防衛戦略上必要なものである。
沖縄の人々は米軍の存在と折り合いながら懸命に平穏に暮らす努力をしてきた。
テレビ映像で強硬に基地反対を叫ぶのは、実は本土から乗り込んだ左翼活動家ばかりだという。


私はこの5月に沖縄を訪問し、祖国復帰40周年記念大会にも参加させていただいた。
地元の方々は大戦中の日本軍を立派な方達だったと今でも尊敬し、異口同音に言う。

「私たちはどこを切っても日本人なんだ。中国人に侵略されたくない。」
「わが国が早く国防体制を確立して、米軍基地との軋轢を解消する日を願っている。」

これが、左翼マスコミが伝えない沖縄の人々の本当の声だ。
彼らは本土の私たち以上に真の日本人なのである。


ある日突然、中国軍が尖閣諸島に上陸したら、日本政府は果して何かできるだろうか。

今の憲法は外国に攻められたときのことを全く想定していない。
憲法9条は国際紛争解決のための武力行使を禁じている。
尖閣は小さな島であるが、れっきとしたわが国の領土だ。
それをもし外国に無抵抗に獲られたとしたら、その意味するところは重大である。

いわば日本という独立国は世界に存在しません、と自ら宣言することに他ならない。
ひとつの国家が独立を維持することがどれほど努力を要することであるか。
その重さを今多くの世人は認識せず、ただ我が身ひとつの処世の心配にとどまる。
それを「仕方ないじゃん」と一言に付す安易な風潮が長きにわたり続いてきた。

だがそんな卑小な考え方がいつまでも通用するはずもない。
我々はときおり時代の節目をほのかに感じとる。

公のことをきちんと考えたい、そのために正しい知識を得て判断したい。
マスコミの言いなりになってムードやブームでの投票なんかしたくない。
そんな雰囲気が最近少し感じられるのは、よい傾向である。


卑小な個人主義の自惚れを脱し、歴史の先人の努力と思いを素直に偲び同調することで、歪められた世界の姿をリアリティをもって大きく捉え直す時がきている。

尖閣諸島の問題は、私たちに国の大切さを素直に教えてくれている。
私たちはこれを予期せざる奇禍ではなく、むしろ来るべき転機たる奇貨として捉え、これからの日本の進むべき一つの指針をそこに見るべきであろう。