日本人のこころ」カテゴリーアーカイブ

敗れてなお正義はあった(八月十五日に寄せて)

_DSC0026

う〜 何見てるのさ

本日八月十五日。日本人だけではなく他国も意義を感じている。

この日、韓国大統領は日本に対する「謝罪要求」演説をするらしい。
先日は竹島にいきなり乗り込む暴挙を敢行、それを評して
「選挙を控えての国内向けのポーズだから放っておけばよい」
とわが国の防衛大臣は他人事のように捉えていたが、いわれなき侮辱に反駁せず黙殺するなら自らの尊厳が損なわれよう。

そもそも歴史問題といっても、我等の先人は隣の国に対して
今なお謝罪を要するような極悪事など決して働いていない。

1910年の韓国併合は双方にとって痛みの残る遺憾な政策だった。
だが安全保障上の理由があり、何より国際条約で合法的に行なわれた以上、後から文句をつけるのはおかしい。

さらに日韓基本条約(1965年)において賠償はすべて終わっている。
これら先人の正当な努力を無にするような要求は拒むのが当然だ。
日本人は優しいが、仏の顔も三度までだ。
ガツンと言ってやりたくなる。

「オイ、君らが南下するソ連から生き延びたのは日本統治下だったおかげなんだぞ」と。

続きを読む

サッカー勝利の余韻を醒ますオスプレイ報道

120714-C-03403

昨日、日本代表のU-23チームがスペインを破った試合を見た。
初戦、しかも世界No1の相手から奪った金星にビールも美味かった。

爽快な気分で何気なくテレビをそのままつけていたところ、
突然短いニュース番組が始まり、米軍基地に配備される「オスプレイ」が映ったのだ。

実はこの夜のサッカー中継番組は、視聴者からのツイッターのメッセージが寄せられて画面下の方にテロップで流れる仕組みになっていた。
勝利を喜ぶ人、プレーについて感想を述べる人、苦言を呈する人など多数続々。
みんなでお祭りを楽しんだ後の長閑さが微笑ましかった。

しかしニュースに突然オスプレイの映像が出て雰囲気は一気に変わる。
「オスプレイの事故率を発表」とアナウンサーが言い終わらないうちに、
早くも文字が流れ出した。

「やっぱり危険なものだったのか!オスプレイなんか要らねー!」
「現実の国民の安全に影響が出る危険なレベルだ!」

まあこんな調子の感情的で強硬な「配備反対の声」が続々と、さっきまでサッカーを見て楽しんでいたお茶の間に流されたのである。
単に勢い反射的な情動に駆られて、別に興味も深い考えもなく「オスプレイ騒動」に便乗して揶揄してみたのだろうか。
少しはそんなものも混じっていたかも知れぬ。

しかしこの測ったようなタイミングで次々に「反・オスプレイ」が我先に押し寄せてくるのはやはり不自然だ。
それに夜中のニュースに反応してわざわざツイッターでテレビ局に投じてくるなど普通の一般人の所業とも思えない。

これは普段から「反○○○」の市民運動ばかりやっている「プロ市民」の仕業に違いない。
ちなみに参考として、地元沖縄の有志の情報を一例ご紹介する。
ぜひリンクから新聞記事をご一読願いたい。

<「早期配備は必要」 有志ら関係機関に要請 オスプレイ>
(八重山日報 2012年7月25日 )
http://goo.gl/5esbM

閑話休題

ここで指摘したいのは、放送局の手法の巧妙かつ卑劣な点だ。
まずツイッターという流行の手段を使うことで
「ここに現れるのは一般人の常識的な意見ばかりなんだ」と思わせる。

ところが実際には、左翼市民活動家たちによる宣伝工作だけが乱舞する。
それを公共放送たるテレビの画面に、悪びれもせず組み込んでいる。
極めて悪質な印象操作が、ツイッターを使って行なわれているのだ。

さらに放送局側は楽に言い逃れができよう。
「ツイッターですから、国民の声をそのまま流しているだけなんですよ」と!

新聞やテレビ、ラジオなどの媒体が国民を「騙す機能」を本来持っているのは現実だ。
だが、何のために「騙す」かで影響と意義は大きく異なる。

昔、メディアは日本人のために(と思って)騙すことがあった。
大戦中の「大本営発表」のウソは国民を鼓舞し勇気づけ、戦意を発揚するためだっただろう。
戦わなければ国が滅びる状況がそこにリアルにあったからだ。

現在の日本のメディアは外国勢力に支配されて日本人を騙す。
日本人から金を搾取し(韓流、パチンコ)彼らの言いなりになる政府(民主党)を作り、歴史ねつ造による謝罪を引き出す宣伝工作に余念がない。

かように今も昔も、外国勢力はメディアを支配してその国を操作する。
例えば今の「反原発」ブームは中国と韓国が仕掛人だという。
ライバル日本の原発産業を封じ、世界に原発を売り出すつもりだ。
(中国産の原発?それこそ世界最大の脅威であろう)

また、ニュース解説者はわが国の首相や閣僚をつねに軽侮し、国会議員を安易に小物扱いして憚らない(素晴らしい議員もいるが全部一緒くただ)
その結果、国民は政治を侮り無関心となり、ろくな議員を選出しないから国家は機能不全に堕していく。
亡国メディアの罪は計り知れない。
わが国はこの売国メディアを何とかしなければならない。

せっかくのサッカー勝利の余韻も、オスプレイの洗脳ニュース工作でぶち壊しか。
こんなことで動じていては、私もまだまだ未熟!

ツイッターの「つぶやき」は、基本的に私的な言葉だと思う。
だからその言葉遣いは総じて、公の場にふさわしくない。
らちもないおしゃべりや井戸端会議をそのまま垂れ流しているようだ。
せめて、このうるさいツイッターテロップ表示を消したいのだが、
哀しい哉リモコンのどのボタンを押しても、消えてくれない。
NHKは、井戸端会議を見たくない者への配慮なんか、ないのだろうか。

巨大メディアの影響力は国を活かしもし殺しもする。
彼らは日本復活の最大の力にも成り得る。
世の中から失われていく美しい伝統の言葉遣いを守ること。
個人の欲望の堕落を諌め、義勇公に奉じる高尚な価値を国民に慫慂すること。
これこそ健全なメディアの使命ではないのか。
(終わり)

尖閣問題、その意味するもの(後)

120702-D2-0021

わが国がなぜ世界に存在し得ているのか、それを真剣に考えたことがあるだろうか。

古代からわが国は一度も外国に侵略支配されたことがない希有な国だった。

13世紀の蒙古襲来は、まさに日本消滅の危機であったが乗り切った。
先の大戦でついに初の大敗北を喫し、国家消滅の危機を迎えたが、幸いにも国の形は守られた。

考えてみれば、67年前などついこの間のことである。
それまでの長い長い間、一度も負けたことがなかったことこそ奇跡的だ。

例えばイギリスなどは、60回以上戦争に負けている。
実に世界の国々は常に戦乱と興亡を繰り返してきた。
仲小路彰氏によれば、三千年の人類の歴史で、戦争がなかった時代はわずか30年に過ぎないらしい。

そして、国家は油断をすればあっけなく滅び得るものなのだ。
古代支那の王朝を見よ。マヤ・アステカ、大ローマを見よ。近くはソ連また然りである。

「神武このかた」二千年以上続いている日本、そんな国は世界中探しても他には見当たらない。


先に、尖閣諸島と沖縄を狙う中国の戦略について触れた。
そう易々とその手は食わない、と信じたいところだが、わが国の実態は甚だ不安である。
民主党政権がこの夏で丸三年を迎えるが、目下わが国は人体に例えれば脳死状態にある。
その血流たる経済は、長い不況に技術と人材が海外に流出し、製造業は上も下も衰弱の一途だ。
景気浮揚策を怠り、国民から更なる税金を絞りとって財政再建を繕おうとする財務官僚。
若者の心は将来への不安にさいなまれ、道徳の軽視と治安の悪化がジワジワと社会を侵蝕している。
少子高齢化が医療、社会保障その他あらゆる分野で不均衡を生起し世代間の不信も拡大している。

大言壮語と不勉強のお粗末な政権では、国家百年の計など到底夢物語である。
そればかりか、行き詰まった挙げ句にとんでもない暴挙に突っ走るかもしれない。


例えば、少子化問題を解決しようと大規模な移民政策を強行したとすればどうなるか。
さあ待ってましたとばかりに、中国人による人口侵略が始まるのは間違いない。
日本政府の甘い思惑を打ち砕き、想像を絶する数の支那人移民が殺到する。
温和な一般日本人の生活環境はなすすべもなく破壊されていく。

かつての満洲、今のチベットやウイグルを襲う悲劇が繰り返されかねない。
日本人は日本に住みながらも、少数民族に追いやられていく。
自然に混血が進み、親子で言葉の通じない家庭が急増する。
学校でも、社会でも圧倒的に多数派を占める中国語が公用語になる。
世代が移り社会で通用しなくなった日本語は、アイヌ語のように歴史の彼方に消えていく・・・

「かつて東洋に日本という国があったんだがね」と世界の人が口にする光景を想像して見よ。
冷膚に怫然たるものがあるではないか。


現在、中国政府は今わが国の水源山林や港湾など、利便な土地を買い漁っている。
また本国の指令ひとつで人民解放軍兵士に豹変しうる留学生を毎年送り込んでくる。
日本政府は留学生支援といって税金でこれを奨励する。能天気にも程がある。
以前長野の聖火リレーに集結した中国人留学生たちの暴虐は記憶に新しい。
中国の日本浸潤は、日本人の油断に乗じて計画通り確実に進んでいる。


日本人が長いこと忘れている世界の常識がある。
それは「外国とは本質的に危険な存在である」ということだ。

我々はとりわけ「友好」という言葉に弱い。
また誠実を尽くせば相手も応えてくれるはずと考える。
だが現実的な国際社会では、そんな甘さは鴨がネギを背負って来るが如しだ。
情勢次第で昨日迄の友好が一変するのが国際関係の真実であり、
都合次第で条約も保古にされる。

まして国連などは大国が利害をぶつけ合う戦いの場でしかない。

その現実を鑑みて今ひとたび「日本国憲法」前文を見よう。

「平和を愛する諸国民の正義と公正を信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。

この憲法を奉じたその日から、日本人は世界に通用しなくなったのである。

「戦わないことが最も強いこと」などという倒錯した幻想に甘えてきたせいで日本人の常識は世界の常識とかけ離れてしまった。

この思い込みを捨て、すべてをもう一度根底から捉え直さねばならない。
己を持するために、戦うべきときは戦う。当たり前ではないか。

外国は彼らの論理で押してくる。吾等は日本の言い分をもって堂々と渡り合えばよい。
相手のご機嫌取りばかりする腑抜け外交とは訣別すべし。
その気概を取り戻すことこそ、この節目の時代を生きる吾等の務めであろう。

日本の国に生まれ、この国で暮らすはずの吾等の子孫の洋々たる未来のために。

(終わり)

(写真:橿原神宮 深田池にて)

尖閣問題、その意味するもの(前)

Yezo-Shika-002

ワシントンで石原都知事が「尖閣を買います」と表明したのが4月中旬。
爾来数ヶ月、国民の静かなる熱望が形となって溢れ出し、都への寄付金はすでに13億円を超えた。
大新聞や地上波は敢て報ぜずとも、ネット上では毎日のように関連情報が飛び交う。

中国政府の傲岸不遜な態度、それに憤懣やるかたなき者、臆する者、また冷笑する者・・
中には不穏で煽動的コメントも多数流され、外国による情報工作活動の盛んなるを見る。
ネット上はさながら足の踏み場なき雑踏、信頼すべき情報を選ぶに困る有様だ。

何ごとも判断に迷ったときには、常識に立ち返り根本から考えることが肝要。
あの小さな島々がなにゆえこんな大騒ぎの元になっているのかを、正しく知ることだ。
人や国がここまで実際に動いている、そこには必ず重大な意味がある。

尖閣諸島が海底資源の豊富な地域ということは既に知られている。
中国共産党政府は、1960年代から唐突に自分の領土だと言い出した。
最近では「核心的利益」と呼び、確保のためには戦争も辞さないと鼻息が荒い。

だが尖閣諸島のもつ意味はその程度のことではない。
資源のためだけでこれほど長期にわたる執拗な挑発をしてくるものではない。

この問題の本質は、中国の領土拡張主義とその未来戦略にある。
米国と互角に太平洋を支配せんとする、彼らの長期的な軍事戦略の一環なのだ。

試みに世界地図を逆さまにして見よう。上海辺りから太平洋をみる。
大陸から太平洋に出て行こうとすれば、大なる地理的障碍は日本列島と沖縄南西諸島である。

実は尖閣を狙い始めた当初から、中国は「琉球奪還」(沖縄を日本から独立させ中国のモノにする)を唱えてきた。
沖縄を独立共和国として、台湾共々奪い取り、太平洋に確固たる勢力を拡大する狙いだ。

そして現在、沖縄のマスコミは中国政府の手先と化した観がある。

「米軍基地反対!」「集団自決は日本軍による強制だ!」「琉球は日本ではない!」

歴史の偽造と感情論を巧妙に組み合わせた偏向報道が沖縄県民に反日意識を刷り込んでおり、思想工作は着々と進行中である。

ごく最近では、普天間基地へのオスプレイ配備に対する報道も顕著な例だ。
メディアは「地元の声」として配備への感情的な反対意見ばかりを報道する。
だが実情はそんなに単純ではなく、オスプレイの能力は防衛戦略上必要なものである。
沖縄の人々は米軍の存在と折り合いながら懸命に平穏に暮らす努力をしてきた。
テレビ映像で強硬に基地反対を叫ぶのは、実は本土から乗り込んだ左翼活動家ばかりだという。


私はこの5月に沖縄を訪問し、祖国復帰40周年記念大会にも参加させていただいた。
地元の方々は大戦中の日本軍を立派な方達だったと今でも尊敬し、異口同音に言う。

「私たちはどこを切っても日本人なんだ。中国人に侵略されたくない。」
「わが国が早く国防体制を確立して、米軍基地との軋轢を解消する日を願っている。」

これが、左翼マスコミが伝えない沖縄の人々の本当の声だ。
彼らは本土の私たち以上に真の日本人なのである。


ある日突然、中国軍が尖閣諸島に上陸したら、日本政府は果して何かできるだろうか。

今の憲法は外国に攻められたときのことを全く想定していない。
憲法9条は国際紛争解決のための武力行使を禁じている。
尖閣は小さな島であるが、れっきとしたわが国の領土だ。
それをもし外国に無抵抗に獲られたとしたら、その意味するところは重大である。

いわば日本という独立国は世界に存在しません、と自ら宣言することに他ならない。
ひとつの国家が独立を維持することがどれほど努力を要することであるか。
その重さを今多くの世人は認識せず、ただ我が身ひとつの処世の心配にとどまる。
それを「仕方ないじゃん」と一言に付す安易な風潮が長きにわたり続いてきた。

だがそんな卑小な考え方がいつまでも通用するはずもない。
我々はときおり時代の節目をほのかに感じとる。

公のことをきちんと考えたい、そのために正しい知識を得て判断したい。
マスコミの言いなりになってムードやブームでの投票なんかしたくない。
そんな雰囲気が最近少し感じられるのは、よい傾向である。


卑小な個人主義の自惚れを脱し、歴史の先人の努力と思いを素直に偲び同調することで、歪められた世界の姿をリアリティをもって大きく捉え直す時がきている。

尖閣諸島の問題は、私たちに国の大切さを素直に教えてくれている。
私たちはこれを予期せざる奇禍ではなく、むしろ来るべき転機たる奇貨として捉え、これからの日本の進むべき一つの指針をそこに見るべきであろう。

がれき受入拒否の札幌市長に疑義を呈す

090217-2-35

札幌市はがれきの受け入れ要請を拒否することになった。
落胆した私は上田市長の文章を読んでみた。その感想を率直に述べようと思う。
以下は札幌市HPに掲載された上田文雄市長の声明文である(抜粋)。

東日本大震災により発生したがれきの受入れについて

(3月11日にテレビを見た)多くの人々の心には、「何とか自分達の町でもこのがれき処理を引き受けて早期処理に協力できないか」という同胞としての優しい思いと共感が生まれたものと思います。(略)
私は、これまで、「放射性物質が付着しないがれきについては、当然のことながら受け入れに協力をする。
しかし、放射性物質で汚染され安全性を確認できないがれきについては、受入れはできない。」と、市長としての考えを述べさせていただきました。
『放射性廃棄物は、基本的には拡散させない』ことが原則というべきで、不幸にして汚染された場合には、なるべくその近くに抑え込み、国の責任において、市民の生活環境に放射性物質が漏れ出ないよう、集中的かつ長期間の管理を継続することが必要であると私は考えています。
非常時であっても、国民の健康と生活環境そして日本の未来を守り、国内外からの信頼を得るためには、その基本を守ることが重要だと思います。
「現地に仮設処理施設を設置し精力的に焼却処理することで、全量がれき処理が可能であり、また輸送コストもかからず、被災地における雇用確保のためにも良い」という意見も、被災県から述べられ始めています。
(現在の焼却後8,000ベクレル/kg以下であれば埋立て可の基準は)「果たして、安全性の確証が得られるのか」というのが、多くの市民が抱く素朴な疑問です。
全国、幾つかの自治体で、独自基準を設けて引き受ける事例が報道され始めていますが、その独自基準についても本当に安全なのか、科学的根拠を示すことはできてはいないようです。
(略)
私たちの住む北海道は日本有数の食糧庫であり、これから先も日本中に安全でおいしい食糧を供給し続けていかなくてはなりません。そしてそれが私たち道民にできる最大の貢献であり支援でもあると考えます。札幌市はこれまで、心やさしい市民の皆様方とともに、さまざまな支援を行ってまいりました。(1,400人を超える被災者の受け入れ、一定期間子どもたちを招いて放射線から守る活動、山元町への長期派遣をはじめとした、延べ1,077人に及ぶ被災地への職員派遣など)今までも、そしてこれからも、札幌にできる最大限の支援を継続していく決意に変わりはありません。
(略)
私は、「市長として判断する際に、最も大事にすべきこと、それは市民の健康と安全な生活の場を保全することだ」という、いわば「原点」にたどり着きました。私自身が不安を払拭できないでいるこの問題について、市民に受入れをお願いすることはできません。
市民にとって「絶対に安全」であることが担保されるまで、引き続き慎重に検討していきたいと思っています。
(2012年3月23日 札幌市長 上田文雄)

溜め息がひとつ出た。

長々と書かれた内容は、徹頭徹尾「放射線リスクはごめんだ」という逃げの正当化に終始し、その論も欺瞞的だと思った。

まず「絶対安全であることが担保されるまで」というのは詭弁だ。100%の安全などこの世に存在せず、担保の基準もない。
日本の食糧庫たる北海道ゆえに拒否する、など飛躍しすぎだ。
がれきの安全性は頭から信用しないが、食品への危険性は頭から信じるというのも不公平で面妖な話だ。

食品への風評被害は、そういう行政の逃げ腰による消費者心理が大きい。
それを一般市民と同レベルの不安に囚われ、それを臆面もなく吐露するような者はリーダーとは呼ばない(非常時には市民に扮装して逃走するかも)。

また「現地の処理施設なら低コストで全量処理が可能だ」とか「雇用確保に資する」という話を持ち出すのも筋違いも甚だしい。

今の無能な政府の下で、がれき撤去が遅々として進まぬ中、状況に追いつめられた被災者たちが編み出した苦肉の策を、これ幸いとばかり受入拒否の理由に拝借するなど、人間の信義に反する。

この声明は危機に対する上田市政の虚飾と惰弱を公に露呈していると思う。
市民の安全という美辞を隠れ蓑にして問題を遠ざけ、東北の同胞の現実の苦難を無視、傍観を決め込むつもりだろう。卑小なり。

被災者の受け入れや子どもを預かることは立派だが所詮は安全な後方支援に過ぎない。今、試されているのは全く次元の違う問題である。
その意味で今回のがれき受入拒否は、多くの札幌人の義心と意気地をないがしろにするものだ。
このような一部の薄情人の論理で「180万都市札幌」を代表されては困る。

また「非常時でも基本原則を守るべきだ」にはまったく呆れた。
非常時には平時と異なる判断が必要なのは政治の基本中の基本であり、幼児でも判ることだ。これではもし札幌が被災したらどうするのか心もとない。
為政者たる資質そのものが疑われる聞き捨てならない認識だ。

東北被災地を思う国民の義心を突っぱねて守る「市民の安全」とは何なのか。主客転倒。冒頭の「同胞としての優しい思いと共感」が空虚に響く。

上田市長の思考に決定的に欠け落ちているもの。
それは「札幌市民であるまえに、日本国民であることの自覚」である。

(終)

「がれき受け入れ拒否」が示すものは

101020-D1-107
東日本大震災から1年を迎えようとしているが
被災地の復興は相変わらず進まず、未だにその計画すら不透明である。
こんなだらしのない國が、世界のどこにあるだろうかと溜め息が出る。
日本は国家として麻痺している。

人によって違った考えがあるのは当たり前だが、それでは話が進まない。
「私が責任を取る。これで行くぞ、いいな」
そういうリーダーが日本政府のトップにいないのである。

(なぜか正論は民意になりにくい)

札幌のあるラジオ番組でこういう場面があったそうだ。
被災地のがれき受け入れを巡って、リスナーからのお便りで
「日本人同士助け合わなくちゃ。がれきもこの際分担して受け入れましょうよ」と。

これに対して、ラジオのパーソナリティはこう言った。
「人それぞれいろんな意見がありますからね。
個人的には放射能の将来的な影響が不透明な以上、日本中にがれきの放射能汚染をばらまくのはよくないと思います。」

この二つの意見は、今の日本の大概の意見を代表しているのかも知れない。
私にはラジオパーソナリティの意見は、本気かどうか疑わざるを得ないほど利己的で気持ちが悪い。

だが一方で、もし仮に国民全員に匿名で調査をすれば「受け入れ賛成」が大多数になるのでは?とも感じられるフシもあるのだ。

すると素直な個々の真情が「民意」として現れるのを阻んでいるのは何だろうか。

(戦後日本の軽薄のトラウマ)

がれきを受け入れようという意見は公の義心に発した「正論」だ。
一方「未確定な将来の影響」を唱えて私的な恐怖心を前面に出して拒否する態度は臆病と利己的な卑小さを感じさせる。

この臆病な意見の方がいつも幅を利かせて、行政がいちいち滞っている。
何を慮って、高潔なる正論が公の場面で発揮されないのだろうか。
この傾向は、正論を張ることが面映いからというような可愛い問題ではない。

私はこれを戦後日本人の心理に潜むトラウマとして捉えている。
「国家の危機」に対して義勇公に奉ずるという価値が軽んじられてきた戦後日本。
放埒軽薄な「個人主義」の中で育った戦後世代の心には、堕落への負い目があるため道理に叶った正論をむしろ敬遠し、肩身の狭さを回避しようとする。
そのとき「赤信号もみんなで渡れば」式に嘘の「民意」が演出される。
つまり、国民としての「躾(しつけ)」がなっていない恥ずかしさと後ろめたさで、お天道様の下に堂々と胸を張れない・・・そんな心理がないだろうか。

(「日本国憲法」の猛毒)

我々が(哀しむべき)幼児のような民に成り下がったのはなぜか。
それは実に70年前の敗戦に遡る大きな深いテーマである。
大本は「国のために」総力を尽くして戦って、挙げ句に手ひどく負けてしまったこと。

その反動で「「国のために」は間違っており、個人こそが大事だ」という意識にむやみに囚われたことにある。

そしてそのトラウマを永続させようと、占領軍が巧妙に仕組んだものがある。
その最大のものが他ならぬ「日本国憲法」である。

私が「日本国憲法」を「 」に入れるにはもちろん訳がある。
「日本国憲法」は国民主権や基本的人権その他、空想的な権利条項で埋め尽くされているが、国民としての義務は教育と納税と労働のたった3つしかない。
独立国家として最も肝腎な自主防衛力の行使すら、平和憲法の名の下に禁止している。
世界の国々はみな優しく正しいのだから、信頼せよと・・・
こんなことで実際の国家は運営できるはずがない。

そう、「日本国憲法」は最初から日本人を半人前以下、いや幼児扱いしているのである。

7日間で作られたこの「占領軍の作文」は、狙い通り日本人を堕落させる役を十分に果してきた。
そして今もなお、子ども達はこれを「素晴らしい平和憲法」と授業で教わっている。
その成果は、虚妄の「村山談話」を信奉して真実の「靖国」を忌避する倒錯した選挙屋さんたちを見れば明白であろう。
日本は自ら意識混濁で滅びるまで、この占領作文を後生大事に崇め続けるのか。
だとすれば我々にとりこれ以上の悪夢はない。

(日本の独立記念日?)

わが国がサンフランシスコ講和条約によって独立を回復したのは1952年4月28日。今年の4月で、ついに60周年を迎えるわけだ。
だがそれを祝おうという声が、日本政府にまったくないのは一体なぜなのか。
私たち国民が、占領から解放された記念日を知らないのは、なぜなのか。
いやそれ以前に、占領の屈辱的な意味すら分からなくなった不感症は、一体なぜなのか。

この一件こそ、われわれ日本人が「自分の国」を正しく捉えていない何よりの証である。
ぜひ、みなさんも私と一緒に、自らの胸に手を当てて、沈思黙考して頂きたくお願いしたい。

この日が学校で教えられるようになるまでは、わが国は真の独立国ではないと思う。
そして「自主憲法制定」がなされる日までは、わが国は未だ終戦を迎えてはいないといえる。
その意味も、みなさまにはきっとお分かり頂けると存じ上げる。

(終わり)

保守すべきものとは(建国記念日に寄せて)

120211-DSC02476

11日は小雪まじりの中、建国記念奉祝式典へ参加してきた。
会場はロイトン札幌の三階ホール。福井ばやし保存会の演奏に続き、国歌斉唱で厳かに開式した。
昨年の市長選で善戦した本間奈々氏の司会のもと、町村信孝衆院議員、自衛隊OB、市議会議員の方々が祝辞を述べられた。
運営の日本会議の若い会員たちは快活颯爽、キビキビとして好ましい。やはり日本人はこうあってほしいものだ。

記念講演は、産經新聞社の政治部記者、阿比留瑠比(あびる るい)氏が登壇された。

阿比留氏は09年の政権交代ブームの中、一貫して民主党の危険な本質を国民に訴えてきた方であり、その舌鋒鋭い政権批判は多くの保守層の喝采を浴びること多きゆえに、今回の運びとなったのであろう。

「天災を人災に変えた男・菅直人」について、氏が官邸担当記者として知り得た数々の逸話に、菅氏がわが国の首相だったことは悪夢以外の何物でもないと改めて思った。人間として許せぬ冷酷さと卑劣さ、無責任さに今更ながら哀しい笑いを禁じ得なかった。奉祝式典の場ではあったが日本を憂う誰もが思いを同じくしたはずである。


講演の最後に阿比留氏が次のように語った。
「日本人は保守が2割、左派が2割、残りの6割は雰囲気や流行で動くノンポリ層。保守層だけでは数が足りず日本は動きません。
大阪の橋下氏があんなに人気があるのは、彼はイデオロイギー色を表に出さないのでノンポリに受け入れられているのでしょう」

おおよそ同感だが、イデオロギー色を出す、出さないというのは何のことだろう。
「大阪都」「教育条例」「維新の会」と政策を打ち出しても、バックボーンの思想は隠し通せるものだろうか?
そもそも「保守」や「左派」とは何かを今一度確認する必要を感じた。
深い議論には立ち入らずに、ごく一般的な感覚による私見を述べてみる。


「保守」はいったい何を守るのか。広くて捉えにくいが「長い歴史の中に蓄積されてきた生活の智慧とその価値の体系」だろう。
冠婚葬祭から人間関係の礼節その他の慣習など社会固有の文化を、次世代に伝えていくことを重んじるのが「保守思想」だ。
ごく自然な人情に基づいた道理と言えよう。

一方、左派つまり革新派の本家マルクス主義は、極めて単純で唯物的な科学理論だった。
「善=労働者、悪=資本家。伝統は階級差別を生む悪。革命で新しい平等の世界を創造する」として世界のインテリを魅了した。
20世紀末の崩壊後は、その亜流のリベラル思想が形を変えてはびこっている。
「個人の自由。国境なき地球市民社会。家族解体、女は家庭を出て働け。夫婦別姓と同性婚を認めよ」など。

左派の思考は、歴史に価値も意味も認めず革命で社会を変えようとする。
保守の考え方は、歴史そのものに価値があるとして、自然の流れに逆らわない社会変化を是とする。

このどちらの考え方が良識の検証に耐え得る道かは、おのずから明らかであろう。

17世紀イギリスの保守思想家エドマンド・バークが、フランス革命を批判してこう言っている。

「あなた方(革命派)は偏見と戦っているのだと考えるけれども、しかしあなた方は自然と戦っているのである。」

左派の考え方は、自然のあり方を無視した机上の空論である。
そして恐るべきことに、現在の日本の政治はほぼ左派に握られてしまっている。
革命ごっこの幻想を引きずる民主党は、歴史や経緯を無視した政策を次々にぶち挙げる。

普天間基地移設の白紙撤回、八場ダム建設中止、子ども手当強行、外国人参政権付与や夫婦別姓への執着。
尖閣漁船衝突事件での稚拙な対応、軽々しい「脱原発」宣言。枚挙に暇なしだ。

また橋下氏の改革には伝統も慣習も無視する「壊し屋」の匂いがする。
勢いと発信力はあるが改革内容は冷徹でテクニカル。わが国の歴史に対する愛情が感じられないのが気にかかる。


ともあれ世界に冠たる恥辱の政府に、国民はもう我慢の限界である。私たちは「日本国民としての自覚」を強めて眼力を養わねばならない。
革命ごっこも壊し屋も不要。今は心から祖国を愛する人たちによる常識的な大人の政権が必要なのだ。

せめて建国記念日ぐらいは国全体でお祝いするくらいの、まともな日本を取り戻さなくてはご先祖にも子どもや孫にも顔が立つまい。

新年のご挨拶と抱負

120106-D-0093

遅くなりましたが、新年のご挨拶を申し上げます。

昨年は日本全体がいろいろな意味で大きく揺らいだ年でありました。
東日本大震災による被害が最たるものですが、それに付随する形で今の日本の抱えている根深い病が一気に顕在化したように思います。
特に政府閣僚がこぞって当事者意識と大局観を欠き数々の失態が演じられました。

首相の無見識が復興着手を妨げ、脱原発の不毛な闘争が煽られている間、わが国が被った無駄な消耗は計り知れません。
未曾有の危機に対応できず幼稚さを露呈した政治に多くの人が危機感を抱きました。

政治の低劣さは、あくまでも彼らを国政に送り込んだ国民全体の責任です。
ひとりでも多くの国民が現実に目覚め、諸問題に対して私心を排し力強く見識を発揮して行動する平成二十四年になりますようにと、
天照大御神を始め八百万の神、そして国難に殉じた英霊を思い、静かに誓いを立てる次第です。

続きを読む

NHKの子育て思想の不気味さ(後)

Yezo-Shika-03

(『クローズアップ現代』2011年11月21日)
政府の「少子化社会対策会議」の作業グループ座長でもある大日向教授の言葉は戦慄すべきものだった。

「今のままでは八方ふさがりなのです。そこで政府が今やろうとしているのは、幼稚園と保育所を一体化した「こども園」の創設です。」

「これは従来の子育ての考え方をまったく変えるコペルニクス的転換です。子どもを親が育てるのではなく、社会全体で子どもを育てるようにしようというのです。」

これには誰しも「ちょっと待て、おい」となるだろう。
番組の前半の自治体の苦労や民間企業参入の試みはどこへやら、
話の筋を無視して「コペルニクス的転換」を突然持ち出す不自然さのみならず人間の最も自然な行為「親が子を育てる」ことまでやめようというのだ。

「なんだ、ただの気○いじゃないか」(by わたくし)

後で確認したらこの人はただの気○いではなかった。
マルクス・エンゲルス両氏の影響を受けた「筋金入り」だった。
「育児の社会化」というこの発想は、夫婦を階級対立の場と捉えることに始まる。
妻が夫の支配を脱し平等になるために、家庭の外に出て個人として働くべきでありその際に置き去られる子どもたちの世話は社会がする、という考え方である。

夫婦が階級対立?そんな気持ち悪い夫婦が現実にあってたまるかいな。
この問題については高崎経済大教授の八木秀次氏の論文に詳しい。
(『「こども園」は羊の皮をかぶった共産主義政策だ』(雑誌『正論』2011年2月号))
その他「幼稚園情報センター」webサイトにも詳説がある
http://www.yochien-joho.com/headline/?date=20110214

これらを読めば今の政権の狂気の性質が誰にでも分かる(と思う)。

閑話休題

待機児童の問題がいつのまにか「こども園」という共産主義イデオロギーの妄想の産物に強引にすり替えられようとしており、しかも政府・民主党がそれを推進している。

希代の狂気・マルクス主義に冒され現実離れしたままの連中が、わが国の政権を握っているのだ。

しかし・・・腹立たしいのは、こんなお方を19時半というゴールデンタイムにおいて「天下の公共電波」でお喋りさせるNHKの非常識である。

思えば平成初期からNHK番組の軽佻浮薄ぶりが目立ってきた。

若者に媚びた低質な紅白歌合戦、押し付けがましい戦争平和番組。
ヒロイン頼みの安っぽいドラマ。ウソの国史を刷り込む教養番組。
韓国ドラマへの異常な肩入れ、中国共産党に媚びて実態を報道しない体質・・

私の好きだった自然番組、良質な大人の番組は次々に消えてしまって
今は子どもっぽい演出と高性能カメラの鼻持ちならぬ自慢ばかり。
世界観が貧困だから映像の刺激力に頼るしかないのだろうか。

正直今のNHKに受信料を払うのは大人として耐え難い。
大半の職員は普通人なのだろうが、番組制作者がおかしくなっている。
そのことにNHK自身が目をつぶり、従来の惰性と権力で押し通すならば
その国民への愚弄はもはや許しがたいものだと思う。

(終わり)

NHKの子育て思想の不気味さ(前)

Yezo-Shika-01

今日は11月21日、札幌は雪である。
7時のニュースのあと『クローズアップ現代』を見た。
NHKの誇るこの時事問題解説番組への純粋な好奇心だ。
テーマは「保育所不足と待機児童の問題」

保育所不足に悩むある自治体では幼稚園に受け入れを打診するが
教育機関であり保育所とは役割が異なる幼稚園では
0~3歳の子への対応は無理。
だが保育所新設には三千万円、財政難の自治体ではこれも無理。
遂に(禁じ手の)民間企業の参入を促すことにした。

参入企業&デベロッパーと呼ばれる事業者&地元の地主さん。
この三者が保育所営業によって利益を得るビジネスモデルは期待できそうに見えた。
だが利用する母親たちの意見は不安を訴える声が続々。
「利益追求でサービスの質が落ちるのではないか」
「もし倒産したら?ポンと放り出されるのが怖い。一日も会社を休めないのに」
「保育所での離乳食が口の中に残っていて窒息の危険があった。任せるのは不安」


ここまで見て私は違和感を覚えざるをえなかった。
離乳食が必要なほど幼い子を他人に預けて働く母。
それが困窮によるのなら母が子どもと一緒にいられるような生活支援が本筋だ。
父の稼ぎが足りないなら景気回復と経済成長が本筋だろう。
何故「母が外で」働くことばかり考えるのか。

これはおかしい。そもそもの前提が間違っている。
冒頭で国谷裕子キャスターがこう決めつけたことは意味深長だ。
「今は女性が外で働くことは当たり前になっています。」
この認識は果して本当だろうか。

以前22年6月1日の産経新聞に興味深い記事が載っていた。少し長いが引用する。

『「夫は外で働き、妻は主婦業に専念」という考えに賛成する既婚女性が増加していることが
31日、国立社会保障・人口問題研究所が行った第4回全国家庭動向調査で分かった。
(中略)前回調査(15年)よりも3.9ポイント増え、45%が賛成と回答した。
(中略)同研究所は「伝統的価値観を否定する回答が増えていたこれまでの傾向に
変化の兆しが見える」と話している。』
また実態調査では
『67.6%の女性が8割以上の家事を負担。
負担割合が40~59%とバランス良く分担している家庭は10.6%にとどまり、
共働き世帯でも、家事の負担は依然として女性に偏っていた。
育児ではその傾向がさらに顕著で、8割以上を行っている女性は83.1%に上った。』


このデータからみて専業主婦の価値はまだまだ根強い。
「専業主婦は戦後一時期に見られた病気」(民主党・仙谷由人氏)と叫んでも国民の常識は健在なのだ。
NHK、国谷氏の言葉はその現実を知らないか意図的に無視している。
そしてゲストの恵泉女学園大学の大日向雅美教授の発言には仰天させられた。

大日向教授
「日本にはまだ働きたくても働けない主婦が100万人いて、この人たちがみんな働けば日本のGDPが1.5倍(そう聞こえた)になります。日本経済の成長のためになるのです」

国谷氏
「1.5%伸びるんですね」
何のフォローにもなっていない。どちらも全く根拠不明な数値でいい加減だ。
要するにこの教授は主婦を働かせたいだけなのだ。
GDPうんぬんなどとってつけたようなことを言って馬脚を現したに過ぎない。
悪いがGDPはそんなことでは伸びはしない。
既存の国内産業をしっかり立て直す政策をきちんとやるしかないのだ。

そして番組は収拾のつかないまま、とんでもない結末へ。

(後半につづく)