「がれき受け入れ拒否」が示すものは

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東日本大震災から1年を迎えようとしているが
被災地の復興は相変わらず進まず、未だにその計画すら不透明である。
こんなだらしのない國が、世界のどこにあるだろうかと溜め息が出る。
日本は国家として麻痺している。

人によって違った考えがあるのは当たり前だが、それでは話が進まない。
「私が責任を取る。これで行くぞ、いいな」
そういうリーダーが日本政府のトップにいないのである。

(なぜか正論は民意になりにくい)

札幌のあるラジオ番組でこういう場面があったそうだ。
被災地のがれき受け入れを巡って、リスナーからのお便りで
「日本人同士助け合わなくちゃ。がれきもこの際分担して受け入れましょうよ」と。

これに対して、ラジオのパーソナリティはこう言った。
「人それぞれいろんな意見がありますからね。
個人的には放射能の将来的な影響が不透明な以上、日本中にがれきの放射能汚染をばらまくのはよくないと思います。」

この二つの意見は、今の日本の大概の意見を代表しているのかも知れない。
私にはラジオパーソナリティの意見は、本気かどうか疑わざるを得ないほど利己的で気持ちが悪い。

だが一方で、もし仮に国民全員に匿名で調査をすれば「受け入れ賛成」が大多数になるのでは?とも感じられるフシもあるのだ。

すると素直な個々の真情が「民意」として現れるのを阻んでいるのは何だろうか。

(戦後日本の軽薄のトラウマ)

がれきを受け入れようという意見は公の義心に発した「正論」だ。
一方「未確定な将来の影響」を唱えて私的な恐怖心を前面に出して拒否する態度は臆病と利己的な卑小さを感じさせる。

この臆病な意見の方がいつも幅を利かせて、行政がいちいち滞っている。
何を慮って、高潔なる正論が公の場面で発揮されないのだろうか。
この傾向は、正論を張ることが面映いからというような可愛い問題ではない。

私はこれを戦後日本人の心理に潜むトラウマとして捉えている。
「国家の危機」に対して義勇公に奉ずるという価値が軽んじられてきた戦後日本。
放埒軽薄な「個人主義」の中で育った戦後世代の心には、堕落への負い目があるため道理に叶った正論をむしろ敬遠し、肩身の狭さを回避しようとする。
そのとき「赤信号もみんなで渡れば」式に嘘の「民意」が演出される。
つまり、国民としての「躾(しつけ)」がなっていない恥ずかしさと後ろめたさで、お天道様の下に堂々と胸を張れない・・・そんな心理がないだろうか。

(「日本国憲法」の猛毒)

我々が(哀しむべき)幼児のような民に成り下がったのはなぜか。
それは実に70年前の敗戦に遡る大きな深いテーマである。
大本は「国のために」総力を尽くして戦って、挙げ句に手ひどく負けてしまったこと。

その反動で「「国のために」は間違っており、個人こそが大事だ」という意識にむやみに囚われたことにある。

そしてそのトラウマを永続させようと、占領軍が巧妙に仕組んだものがある。
その最大のものが他ならぬ「日本国憲法」である。

私が「日本国憲法」を「 」に入れるにはもちろん訳がある。
「日本国憲法」は国民主権や基本的人権その他、空想的な権利条項で埋め尽くされているが、国民としての義務は教育と納税と労働のたった3つしかない。
独立国家として最も肝腎な自主防衛力の行使すら、平和憲法の名の下に禁止している。
世界の国々はみな優しく正しいのだから、信頼せよと・・・
こんなことで実際の国家は運営できるはずがない。

そう、「日本国憲法」は最初から日本人を半人前以下、いや幼児扱いしているのである。

7日間で作られたこの「占領軍の作文」は、狙い通り日本人を堕落させる役を十分に果してきた。
そして今もなお、子ども達はこれを「素晴らしい平和憲法」と授業で教わっている。
その成果は、虚妄の「村山談話」を信奉して真実の「靖国」を忌避する倒錯した選挙屋さんたちを見れば明白であろう。
日本は自ら意識混濁で滅びるまで、この占領作文を後生大事に崇め続けるのか。
だとすれば我々にとりこれ以上の悪夢はない。

(日本の独立記念日?)

わが国がサンフランシスコ講和条約によって独立を回復したのは1952年4月28日。今年の4月で、ついに60周年を迎えるわけだ。
だがそれを祝おうという声が、日本政府にまったくないのは一体なぜなのか。
私たち国民が、占領から解放された記念日を知らないのは、なぜなのか。
いやそれ以前に、占領の屈辱的な意味すら分からなくなった不感症は、一体なぜなのか。

この一件こそ、われわれ日本人が「自分の国」を正しく捉えていない何よりの証である。
ぜひ、みなさんも私と一緒に、自らの胸に手を当てて、沈思黙考して頂きたくお願いしたい。

この日が学校で教えられるようになるまでは、わが国は真の独立国ではないと思う。
そして「自主憲法制定」がなされる日までは、わが国は未だ終戦を迎えてはいないといえる。
その意味も、みなさまにはきっとお分かり頂けると存じ上げる。

(終わり)

「がれき受け入れ拒否」が示すものは」への4件のフィードバック

  1. やっさん 投稿作成者

    渡部さん、ありがとうございます。コメントはお初ですね、これからもよろしくお願いします。
    (12/3/31  13:29)

    返信
  2. 渡部

    うん、うん。その通り。同意しきりです。
    いつも楽しみにしております。
    (只今、ワインで酔っ払っている渡部より)
    (12/3/24  20:04)

    返信
  3. やっさん 投稿作成者

    そうですね、心ない親の姿を見て子どもが受ける心の傷、誠に重大な影響を与えると思います。
    少なくとも子どもはそんな親を尊敬できないし、人を思いやる価値観が失われれば、他を信じることもなく孤独な世界に生きるしかなくなるでしょう。
    最後に日本の独立の話をやや強引に容れましたが
    「形式ではなく精神の独立がまだ果たされていない。空虚な個人主義に逃げ、公への無関心や奉仕忌避の習慣を捨てられなければ、いかに経済発展しても中身なき危うい骸でしかない」という思いからでした。
    やや文脈的にはつらいものがありましたが。
    (2012.3.18  03:32)

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  4. 清水の山内

    先日、がれき受け入れを決めた議会の傍聴席から、ヒステリックに反対を叫んでいる人の映像を見ました。「がれき」は外国にあるのではなく、この日本国内にあるものです。そして、被災地の人々が、自分達の住む町にこれを抱えています。「がれき」を受け入れないということは、被災者を見殺しにするということです。現状を考えれば皆で負担を分かち合うべきと思いますが、あの人達にはそういう思い遣りの心は無いのですね。そんな親の姿を見た子供の心には、微量放射線よりも遥かに大きな傷を与えることになるのではないでしょうか。
     受験中「憲法」を学んだ時に、個人主義は利己主義とは違うと説明がありましたが、それは詭弁にすぎ無いことを改めて感じました。日本の国柄を弁えず、公の意識、奉仕の精神を欠いた教育は、結局のところ≪自分さえよければいい≫という人間を生み出すに過ぎないものと思います。真実が見えず、空想の世界に囚われた人を。
    (2012.3.15  14:52)

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