ブログは頻繁に更新するものだと
やる前には当たり前のように思っていたのですが
実はたいそう難しいことだなあと
やってみて気づいたのであります。
少しでもきちんとした文章を書こうとすると
論旨がなかなかまとまらず、思いが先走りがちで
何度も何度も校正、書き直しを繰り返して
そのうちに忙しさにかまけて放ってしまい・・
こんなことではいけない、と気持ちを変えまして
随分久しぶりの書き込みです。
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先月HPのギャラリーを更新しました。
主題は『逍遥 ~内なる自然への旅』です。
年に一度の更新(決めたわけではありませんが)なので
いろいろ考えて構成しております。
「内なる自然」とは如何なるものでしょうか。
この言葉を初めて使ったとされるのは
生態学・人類学者で京都大学名誉教授の河合雅雄氏だと伺っております。
河合氏の『子どもと自然』という名著の最初に出てくるのが
この「内なる自然」という概念です。
氏は、人が森や木々の緑の中で安心感を得る性質を
「樹上生活に適応した霊長類における系統発生的な性質」と捉えて
それを一例としたうえで、こう定義づけられました。
「・・それは人類がサルから進化してきたという事実に基づいた、
存在の根源にあるものなのだ。(中略)進化史を通じて
人類の存在の根本を形成している諸性質を、”内なる自然”と
名づけよう。」(『子どもと自然』岩波新書)
なるほど、私たちが無意識の部分で持っている性質は
サル時代から受け継いできたもので、それを「内なる自然」
と呼ぼうというわけです。面白いですね。
本著はサルの実験を通じて人間を分析する手法によって明らかにされた
数々の興味深い話に溢れており、とても面白く読めました。
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ところで河合氏のこの著書を知る以前から
私も「内なる自然」という言葉を心に抱いておりました。
ただ私の場合はサル時代との関係ではなく、
人間が人間としての自意識をもつようになってからの話です。
私の考える「内なる自然」とは民族の記憶が育んだ「自然感覚」です。
それは合理的な思考を超えた神秘への、憧れと畏れの感覚であります。
また己の分限を知ったヒトが抱く謙虚で素朴な生き物としての感覚であります。
宗教的な感覚といってもよい。
その意味で、わが国には日本列島の自然条件に根ざした独自の自然観があり
ヨーロッパにはヨーロッパの風土に根ざしたNatureの感覚がある。
アラブの砂漠の遊牧民やシナ大陸の遊牧民もそれぞれの感覚を持っています。
それらは母なる自然の中で培われる民族の性格そのものでありましょう。
現代の機械化された日常生活では忘却されていますが
精神が重大な危機に陥ったときには休眠種子さながらに噴出してくる根源的なものです。
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私たち日本人は今、自分たちの立ち位置を見失っている。
まさに精神の重大危機に直面していると私は思っています。
子どもをどう育てたら良いのか、どう老いていけばよいのか、
どんな生き方が尊いのか、幸せとは何のことなのか、
そもそも日本の国とは何なのか、日本人であるとはどういうことなのか・・
そんな根源的なことが不明確で曖昧で、信じられない。
真面目に生きたいが、真面目とは実際どういうことなのかが分からない。
正しい生き方をしたいが、何が正しいのかが分からない。
善なるものを探そうと躍起になり、かえって大偽善に捕われてしまう。
テレビも政治も教育も、子どもっぽくふざけたり誤摩化してばかりいる。
しっかりした立派な大人の姿はどこかに消えてしまいました。
一時期「みんな違って、みんな良い」というスローガンがありましたね。
あれは裏を返せば、何が正しいのか誰も分からない混乱状況のことであります。
真面目に生きたい人ほど苦しむ、現代日本は重い重い病の床にあります。
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私は社会にはある共通のしっかりした価値観が絶対に必要だと思うのです。
それは誰かが人為的にこしらえたイデオロギーではだめなのです。
祖先から続く長いタテの時間軸の中で、自然淘汰的に残り伝えられてきた
生活習慣・儀式や真善美の価値観だけが、その歴史性ゆえに正統性を認められて人々に安心感を与えるものなのだと思います。
それこそ私の考える、歴史を負った人間の「内なる自然」です。
それは私たちの進むべき道を常にそっと照らしてくれている光であり
民族共通の羅針盤のようなものでしょう。
今こそ、祖先への信頼を取り戻す時です。
私たちの「内なる自然」を基準に、ものごとの価値を判断するのです。
「あれもこれも正しい」ではなく「歴史的に見てこれが正しい」と言うべきなのです。
ほんの60年前の、お祖父さんお祖母さんの姿に思いを馳せましょう。
苦しい時代を生きた立派な日本人の姿を今こそお手本にしましょう。
みんなが古臭いと毛嫌いしてきたものが、実は唯一の本物だったということにそろそろみんな、気づいているはずです。
(終)
そうですね。テレビ番組は刹那的な好奇心を満たすだけで、心のありかたに結びつくものが非常に少ない。
以前放送局は一定の割合で「教養番組」を設定することが義務づけられていると聞いたことがありますが、
おそらく雑学クイズ番組が「教養番組」と位置づけられているのでしょう。
知識とはそれが過去の歴史で実際に現れたり使われた状況を知らなければ人々の生きる指針になりえない。
ただの「へえー」に過ぎませんね。
(11/6/16 22:35)
昨今のクイズ番組では以前に比べて学問的な色彩が濃くなっているようですが、それでもまだ、教養と雑学の区別がつかないようです。
日本人としての教養をいうのであれば、やはり、建国の精神、歴史、信仰といった心のありかたに結びつくものが含まれていないと片手落ちですね。輿論と世論の区別を無くす等の日本語改悪の影響でしょうか・・・。
生き方の指針にもならない単なる知識の蓄積が、自身の「内なる自然」を覆い隠してしまうように思います。
(11/6/15 11:58)