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やっさん について

戦前の先達を尊敬して少しでも近づこうと頑張っています!色々な面で。

憲法記念日に思う(保守派への大疑問)

◆5月3日を祝日としていいのか?

5月3日はいわゆる「憲法」記念日。休みでもこの日だけは素直に喜べません。

なし崩し的に、とうとう71年目を迎えてしまったGHQ製の「日本国憲法」!
この占領基本法の施行日である1947年の5月3日を記念する日なのですから・・

正直言えば、私たちは「憲法」を守ってきたという自覚はなく、無視してきた、つまり無関心だったというのが実態ではないでしょうか。

しかし無関心でも法治国家体制である以上、すべての法律がこの「憲法」に土台をおいています。
我々が無視(放置)しても、我々自身の生活が根本から影響を受けてきたことも事実なのです。

つまり「無関心」ではいられるが、「無関係」ではいられないということです。

「日本国憲法」が「敵国が占領中に作ったもの」だということは、今や多くの知るところでありますが、その内容と目的が「日本人を愚民化して支配する」ことにあり、そのための条文が多く盛られていることを、どれだけの方がご存知でしょうか。

あの戦争のあと「連合国や占領軍は、悪い軍国日本を(民主主義の)よい国にしようとしたのだ」と誰かが言い出しました。
こんな一方的で独善的な宣伝を信じるものは、当時の日本人には誰もいませんでした。
しかし占領が続き、その後も平和が続くと、みんな日常に溶け込んで戦争のことを忘れて「これでいいのだ」となってしまったのです。
ついこの前の戦いに散った同胞の思いをあっけなく忘れて、敵の言い分を受け入れてしまったのです。
みんなで一斉に、無数の日本の祖先を裏切って、只今の権勢を誇る連合国に寝返ったのです。

◆ 「日本国憲法」の罪状

私は、戦前の日本はまともな国家だったと思います。国際政治面の未熟さは否めませんが、少なくとも国民の常識と倫理は極めて強く健全でした。

今の日本は頭のおかしい国家になったと思います。国際政治はますます盲になり、さらに私たち国民が公への責任感も見識も失い、ただひたすら、個人的なモノとカネに夢中という有様です。

この状態をいまだに「良い世の中だ」と擁護し続ける人々は、心と目の病気だと思います。
私たちの現実認識を歪め、日本を内外からボロボロにしてきた元凶が「日本国憲法」なのです。

では私なりに「日本国憲法」が日本人をダメにした点を思いつくままに列挙してみましょう。
少々表現が過激になる点は、危機意識と公憤の強さの表れと思し召して、ご容赦ください。

「平和を希求する国際社会」(前文)
非現実的な嘘八百。外国に対する正当な警戒心すら持てなくなって、わが国は外国勢力に蚕食され続けてきました。しかも現政権は外国人移民をどんどん入れようとしています。亡国の危機です!

「戦争放棄、戦力不保持」(9条)
言わずと知れた、日米安保条約とセットで「アメリカに日本国民の命を丸投げ」する条文です。
すべての日本人を無能力者扱いする、許し難く恥ずかしい条文です。無責任にもほどがあります!

「政教分離」(20条)
日本人の伝統に基づく公的な価値観(皇室信仰)を否定しました。共同体の心軸を失って人心は萎縮し倫理は乱れ、国民生活全体が漂流し衰弱しています。宗教否定は共産革命の常套手段です。

「婚姻は両性の同意のみに基づき成立する」(24条)
個人と家族共同体の関係性を無視して安易で無責任な結婚を奨励することになり、離婚も急増。
家庭崩壊、躾の消滅、子育ての無知と困難は少子化につながり、社会の基盤が揺らいでいます。

「最低限の生活を営む権利を有する」(25条)
個人の権利意識を鼓吹して自立精神を希薄にし、社会に甘える怠惰な風潮を増大させました。(現今の生活保護制度の悪用の実態を見よ!)これも国家を破壊する共産主義思想です。

「労働者の権利」を強調する条文
家族的な信頼関係に基づく日本の伝統的な会社組織に、本来なかった労使の対立を持ち込んだ。
ストライキや裁判沙汰が増大、働くことの意義が誤解されてきました。(労働は苦役・罰であるというユダヤ基督教的な労働観の影響)今、勤勉で真面目な日本人の美点が損なわれつつあります。

「憲法改正への理不尽に高いハードル」(96条)
事実上、改憲を不可能にする内容です。未来永劫、日本人を自立させないための束縛条項です。

この他にもたくさん、日本人を日本人でないものに作り変えるための数々の工作が盛り込まれています。
読めばわかります。「日本国憲法」は「日本ハ外国ノ植民地デス」という宣言文書なのだということが。
「憲法を変えると戦争になる」と叫ぶ人たちの短絡的な無思考ぶりは理解に苦しみますが、彼らは要するに戦後の占領体制下に順応して甘い汁を吸ってきた連中と、そのシンパということでしょう。自己保身のために、真実を捨て去り、考えることをやめた人たちなのです。

私は、良識ある日本人ならば「5月3日」に国旗を掲揚してはならないと強く思います。

◆本日の見聞録:「日本会議」が陥った倒錯

今日は日本会議富士支部主催の「憲法講演会」に参加してきました。来場者は300人くらいかなと思います。

有名なジャーナリストの櫻井よしこ氏や、安倍晋三総理のビデオメッセージが流されたあとで、
メインの講師には衆議院議員の杉田水脈さんが登壇、憲法改正を中心に女性の目線での講演をされました。
関係者の方々のお骨折りには頭の下がる想いです。

私は10年来の日本会議の会員です。壊れていく日本を少しでも立て直したいという思いを抱いて、
志を共にする仲間を求めて、この組織に入会しています。しかし・・

私は、日本会議は昨年の春頃から何だかおかしくなったと感じているのです。
それは彼らが支持する「憲法改正」について、その内容の激しい変化ぶりに現れています。

最初は自主憲法制定が目標だったのに、やがて「憲法96条(改正要件)の改正」、そして「9条に絞った改憲」そして「9条に3項を加える改憲」という形で、どんどん後退していき、
ついには自衛隊を現状のまま憲法に書き込め!、という内容に変わってしまったのです。

ちなみにこの「3項加憲論」は安倍内閣の主張であり(現在3項ではなく2項ノ2と言っているようですが)、日本会議はこれを全面的に支持している様です。

◆「憲法9条1、2項を残したまま第3項を加える」?

第9条の第2項は「(略)陸海空の戦力はこれを保持しない、国の交戦権はこれを認めない」ですが、自民党案ではこの条項をそのまま残すのだそうです。

そのうえで第3項に自衛隊を明記するというのですが、どうですか?こんな欺瞞がありますか?
誰がみても、2項の戦力不保持と3項は完全に矛盾しますね。自衛隊は戦力ではないとでもいうのでしょうか?また余計な紛糾が起きることは火を見るより明らかです。

私のみならず、相当多くの方がこの案に強い違和感を覚えると思います。
また同時に、この案を強引に推し進める自民党、そして支持する日本会議の姿勢にも「疑義」を抱くようになるのではないか。

一番おかしい点は、自衛隊をそのまま憲法に書き込んでも、何ら現状の問題解決にはならないことを完全に無視していることです。
今の自衛隊は、警察権しか持たないので、危険に際しても自分から武力攻撃はできないのです。
実際ソマリアやイラクでは「憲法」の制約で武器が使用できず、自衛官は命の危険にさらされていたのです。
国際法で認められた軍隊であれば、そんな問題は皆無なのですが、日本だけが世界の常識に外れています。

国軍ではなく「自衛隊」を3項に書き込もうとする真意は何なのでしょうか。実に奇怪です。
2項を削ることに公明党が反対するからだとも聞きましたが、この大事をそんなことで決めてよいのでしょうか。

◆戦わずして後退を続けて、結局はアリバイ作りに終わるのか

ヴィデオの中で櫻井よしこ氏は優しく、噛んで含めるように視聴者に訴えます。

「今は戦後初めての改憲のチャンスなんです。国際社会は大きく変化しています。もう時間がありません。」
「改憲しないことで喜ぶのは中国やロシアです。この際、2項は残しても仕方ない。今は1ミリでも2ミリでも、とにかく動かすことが大事なんです」
「あとは、次世代、そのまた次世代に頑張って働いてもらいましょう」

私はこれを聞いて「何という不見識、なんという無責任!」と呟きました。

櫻井よしこ氏は、尚も優しく、噛んで含めるように語りかけます。
「1ミリでも改憲することで、『憲法は変えていいんだ』ということを国民に知らせることが大事なんです」と。(櫻井さん、国民は幼稚園児ですか?)

つまり「内容は不問だ、何よりも「変えた」という実績が大事だ」というわけですから、語るに落ちたという感じすらしました。
そんないい加減な改憲はするべきではない。国民を舐めているのだろうかと。

この案では自衛隊は半永久的に「戦えない戦力」として正式に憲法に刻まれてしまいます。しかも今度はわれわれ日本人自身の手で!
そんな取り返しのつかないことをして、あとは次世代に働いてもらいましょうだなんて、よく言えるなあと心底呆れました。
ところで、こんな無意味な改憲をして喜ぶのは誰でしょう?もちろん中国ですね!

◆「自称保守」たちの国民不信が暴走を始めている?

衆議院議員の杉田水脈さんまで壇上で叫びました。
「今が最後のチャンスなんです、これを逃したら今後また70年間、改憲はできません!」
だから9条2項がそのままでも仕方ない、悔しいけど仕方ない、3項に自衛隊を書きましょう!というのです。

本当に悔しいなら、議員辞職をかけて訴えるべき大問題だと思いますが・・
それに「今できなければ今後70年ダメ」という根拠は何なのでしょうか?

「決めるのは私たち国民です、みんな賢くなりましょう!」(櫻井よしこ氏)
ああ、賢い国民なら、この「加憲」論こそダメだ!と考えるだろうと思いました。

私の直感はこう叫んでいます。
「本筋を大幅に捻じ曲げて、国民を騙すようなことをして、なぜそこまで改憲の「実績」が欲しいのか?・・誰かに命令されているのか?(またウォール街の銀行家たちか?)目を覚ませ、国民に率直に言うべきときだ、安倍首相と同志の方々よ」と。

明らかに日本会議の面々や自民党議員たちは、国民を信用していないのだなと感じました。
というのも、杉田水脈さんがはっきりとこう仰ったからです。

2項を残す理由は、国民投票で否決されるのが目に見えているからです

つまり今の国民はみんな左翼メディアに洗脳されているから、憲法を改正すると戦争になって子供達が死ぬと思っている。だから国民投票で絶対に負けるだろう、というのですね。
でもこれは「国民の意識を変える」という意思を初めから欠き、現状に完全屈服した劣位戦思考そのものでしょう。
(ちなみに「改憲=戦争」という短絡思考ならば、2項を残そうが削ろうが同じではないか?)

◆焦って崖下に落ちるなかれ、今は状況を見定めよ

櫻井さんの仰る通り、国際情勢は大きく変わってきています。
しかしそれは、彼女の言うような危機ではなく、むしろ日本にとって好条件になってきているのです。
元ウクライナ兼モルドバ大使の馬渕睦夫氏の見方が、私には腑に落ちます。

「グローバリズム推進の既存勢力は退潮しつつあり、今後は国家中心のナショナリズム時代がくる。今はその過渡期である。
米国のトランプ大統領の登場はその象徴だ。彼は日本は日本ファーストでやれと言っている。
これまで日本を抑圧してきた「戦後体制派」は退潮していき、今後は各国が自立する時代がくる」

つまり今後は今までとまったく違う世界になっていく、という馬渕先生の見方に私は強く同感します。
トランプ登場がなぜ世界を激震させたのか、それを考えることで、いま世界が大きな転換点にあることがわかるはずです。
英国はやがてEUを離脱します。ドイツもフランスも、イタリアもオーストリアも愛国的な政党が躍進しつつあります。
軍産複合体の「打ち出の小槌」だった南北朝鮮の対立構造も終わりです。世界をテロ戦争の恐怖で縛ってきたグローバリズム(金融資本支配)は、ついに終わるのです。
そして日本人は今度こそ、堂々と日本のために考え、ものを言えるようになります。
自らを卑下し、縛りつけてきた腐った敗戦国根性とは永遠にサヨナラです。

この視点は、従来流布されてきた世界観を見直し、ユダヤ人と国際金融資本に関わる歴史の実像を学びなおすことで得られます。
私にそれを教えてくれたのが、先述の馬渕睦夫元外交官の高いご見識との出会いでした。

残念ですが保守派国会議員の先生方はトランプ以前の世界の枠組みに囚われており、
世界で今まさに起きている大変動の本質を見ていない(見えない)のだと思われます。
従来の視点論点を一歩も出ずに、国民が世代交代に伴って覚醒に向かっている現実にも気付かず、
ただ「今しかない、時間がない」と今までの調子で焦っている。
自分たちが憲法を変える、そのことが第一目的になってしまったように見受けられるのです。

世界は大きく変わります。それは国際金融資本の支配力がトランプによって縮小したからです。
その結果、中共も北朝鮮も後ろ盾の力を失い、日本を取り巻く安全保障情勢が変わります。
現に今年、北朝鮮は一気に非核化へ動き出しました。中国は米国に貿易交渉で膝を屈しています。

こうした中、拙速に中身のない改憲を無理に行って次世代に重大な迷惑をかけることも敢えてするなら、もはや実績どころか恥の上塗りでしかありません。本当にそれでいいのですかと聞きたい。

今は腰を据えて、世界のこれまでと今後を腑に落とした上で、日本にとって最善の道を慎重に選ぶ姿勢が必要なのではないでしょうか。
これは私たち日本人の、生き方の根幹となるべき憲法をどうするかという話なんですから。

最後に一番言いたいことを述べます。改憲を叫ぶ前にするべき一番大事なこと。

安易に「国民はメディアに洗脳されて無知だから・・」という前に、安倍総理、自民党議員よ。
あなた方は一体、一度でも正面から日本の現状を国民に説明して、真剣に訴えたことがあるのか?と。
いつだってマスコミを恐れて腰の引けたことしか言わず、口裏を合わせて先送りばかりしてきたではないか、と。

首相が言えないなら、保守の議員先生方は国民の洗脳を解くために、議員バッヂを賭して占領憲法に関する真実を熱く語り、お茶の間に直接知らせてほしい。
選挙で選ばれた者として、卑劣で姑息なマスコミと堂々と戦う勇気と尊厳を見せてくれ、と切に願います。

そして櫻井さん、我々国民は真実を知ればちゃんと考えられるのですよ、と申し上げておきます。

(終)

春に寄せて

三月も半ばを過ぎました。皆さまは如何お過ごしでしょうか。
暖かい日が続き「春(^^)」と油断したところに寒雨の嵐来たれりの三寒四温。
ひと雨ごとに春の深まりを感じながらも体調には気をつけましょう。
ともあれ、桜色のそよ風がうずうずと待たれる毎日ですね。

🔹野鳥

「花粉非常に多し」との予報、それでも陽気に誘われて静岡市の池に野鳥撮影に出かけました。
この日の主役は鵜(ウ)。彼らは魚をウんと捕食するので、ライバルの釣り人や漁業者には不人気なのですが、改めて眺めるとなかなか味のある面白い鳥だと思います。
のんびりタイプ、せっかちタイプなど一羽ずつ性格が違うのがよく分かり、剽軽な顔つきも相俟って微笑ましいものを感じます。
頭のいい鳥なのでしょうね。長良川の鵜飼漁は余りにも有名です。

おしなべて野鳥は人に近寄りはしませんが、みんな賢くて素直で、愛すべき奴らに違いない、といつも思うのです。

夜明けから6時間、他にミサゴ、カイツブリ(地元名「いっちょもぐり」)、バン、カルガモ、アオサギ、ゴイサギ、カワセミ、ヒヨドリといった鳥たちが見られました。
そのほか、カケスが二羽頭上を飛んで対岸の朝日を浴びた繁樹に溶け込んでいきました。

ミサゴは鷹の仲間で、英語名「Osprey (オスプレイ)」です。空中から水面にダイブして魚を掴み飛沫と共に空へ舞い上がる、見事な狩りをします。幸運にもその日は私の目の前で披露してくれました。

🔹「梅が島」の梅

梅が島は静岡市を流れる安倍川の上流にあり「信玄の隠し湯」と呼ばれる歴史ある温泉郷です。この暖かな日ですからぜひ満開の梅を、と期待して行きました。
車道は所々で狭く、また曲がりクネっているので慎重な運転が必要です。ほぼ40分ほどで大野木地区の梅園に到着しました。見事な花盛りの樹は手前の半分くらいで、奥はまだ硬い蕾。
週末に梅まつりが開催されるので、それまでに咲けばよいがと思いつつ、見頃の樹をいくつか撮影してきました。

梅にうぐいす、というのは昔から定番の花札の絵柄ですが、薮や草地を好むウグイスが梅の花に来ることは実際にはなさそうです。
古くはメジロやヒヨドリなどを「うぐいす」と呼んだとか?然し春を告げるウグイスの美声は和歌にも詠まれており、まさかメジロと混同するとも思えません。
おそらく春の美しいもの、慶ばしいものを組み合わせた、古人の創作による絵柄なのでしょう。そういう自由な感覚が私は好きです。
想像力をのびのびと広げて、科学知識や合理主義の枠に縛られずに、世界を柔らかく素直に感じたいものです。

新年賀詞と胸中の思い

記念すべき平成三十年を無事に迎えられたことを、まず神様に感謝申し上げ、同胞の皆様のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げます。

🔷 出口のないまま平成の御世は終わるのか

わが国は積年の閉塞状況が各方面で噴出、矛盾と混乱の極みにあった平成29年でした。

  • ●金正恩の恫喝に「専守防衛ひと筋」で国民を核攻撃の的に差し出す政治家たち
  • ●「慰安婦性奴隷」の虚報拡大で、在外邦人子女の受難。頰被りの外務官僚の無責任
  • ●モリカケ騒動に終始した野党とメディア。愚弄された民の怒りで「安倍」圧勝の衆院選
  • ●モンゴル力士の騒動は、外国人労働者を受け入れた後の日本の混乱の予兆だった
  • ●受信料拒否裁判で売国NHKがまた勝訴。現実を無視して既存の体制を守る司法の病理極まる
  • ●現実逃避、個人の趣味や遊戯やグルメに興じる「責任感」なき幼稚日本人のスマホ天国

先の見えない漂流状態のわが国にあって、来年の御代替りだけは実にあっさりと決まりました。
天皇陛下のお言葉=詔(みことのり)は、さすがに「戦後日本人」にも効いたということなのでしょう。
しかしこの大きな節目を迎えることになる私たちは、本当に大丈夫なのでしょうか。

🔷 狙われるご皇室・・「日本滅亡の危機」

昭和から平成への移行時は、しっかりした戦前の世代が日本社会を守ってくれました。
でも今度は違います。だらしない個人主義が染みついた「団塊世代と戦後世代」が大多数です。
敗戦後の占領期に根ざす自虐教育と無国籍憲法で育ったこの世代には日本人の自覚と国家意識が欠落しています。祭祀王としての天皇の独自性や歴史も知らず、欧州の王室と同じように考えている節すらあります。

御代替りを迎えるにあたり、この無知・無関心・能天気は最大の危険要素です。
“「平和憲法」を死守、無防備宣言”という妄想が、わが国を国際社会の現実と乖離させ、弱体化させてきたことは今や明白です。

我らを脅かす敵は、実ははっきり見えているのです。国境をなくそうとする国際主義者、グローバリストたちです。日本の大手メディアは彼らの手先として率先して国際化やグローバル化を称揚してきたため、わが国民も長年の間に相当洗脳されてしまっています。

彼ら国際主義者たちは、わが国の皇位継承にまで干渉姿勢を見せてきました。
男系男子の皇位継承を「女性差別だ」として国連人権委員会に勧告を出させようとしたのです(これは幸い事前に食い止められました)。
そして国内では女系天皇容認につながる「女性宮家創設」の議論を蒸し返す動きがあり、今後もいろんな手で攻めてくると思われ油断なりません。

昨年、毎日新聞が真偽不明の「陛下の言葉」のリーク報道を連発しました。
宮内庁の重要ポストにスパイがいて、大手新聞メディアを宣伝工作に利用していると思われます。
このアカラサマな不敬報道に対しても国民の多くが無反応だった事実に、彼らは「機は熟せり」と勇気づけられたに違いなく、今度の御代替わりのどさくさに皇室典範や憲法の天皇条項に何か手を加えようとするかもしれません。

三千年続いて来たご皇室の伝統がもしも崩れれば、その時わが国は歴史の連続性と正統性を失います。現代に皇室は不要という考えは、歴史も世の道理も解さない人の心得違いと思います。
極論すれば私たちは「日本史イコールご皇室史」と考えるべきなのです。ご皇室が絶たれる時は日本の終わりなのです。

更に申せば、戦後日本が誇り信奉している「金力(経済力)」にしても、所詮はドルを握る国際金融資本の掌中にあります。
軍事を抑えられ、情報も制限され、全ての経済活動はドル統制下に置かれている。
我が国はまったく従属国状態、いわば「植民地支配」の下にあるのです。
そんな中、ご皇室の伝統まで失えば、我々は真に「根無し草」です。
結束力なき単なる一億人民に過ぎなくなり、もはや発展の力もなく停滞し、やがては隣国に侵攻され雲散霧消する運命が待っているでしょう。
歴史上多くの民族がそうして滅亡してきました。我らの子孫に同じ道を歩ませてはなりません。

今年から来年の、御代替わりが真の意味でわが国の正念場です。東京五輪ムードで浮ついている隙に、ご皇室への最終的な工作が行われるかもしれません。
我々は決して油断せずに、ご皇室に関わる動向を注視し、声を上げてゆく覚悟が必要なのです。

🔷 正月の靖国に見た日本の希望

正月二日、東京九段に出向き、靖国神社に参拝してきました。
春のような暖かさの参道は、驚くほど多くの老若男女の参拝者であふれていました。
大鳥居を入った手水場の手前あたりから、参拝者の並んだ長大な列が拝殿まで伸びており、
普段は行列を敬遠する私も1時間並んで、英霊に感謝を捧げて護国を祈念しました。
今年の干支、戌をかたどった土鈴と破魔矢を買って帰りました。

靖国には、馬渕睦夫先生の講演会に出席するために12月にも来ています。
その時も昇殿参拝をさせていただき、我が国を英霊と共に守っていく誓いを、志を同じくする方々とともに新たにしたものです。
正月の境内に溢れる、無邪気に笑う方々の嬉しそうな顔や声に、私は日本の行く先を照らす祖先の御霊の光を見る思いがしました。何も難しいことを考えなくてもよいのです。神社に詣でて、神様に感謝の心を捧げ、清らかな心を抱いて帰るだけで、日本人は日本人に還れるのです。
そう思うと現在の我が国の抱える無数の、絶望的にも見える病理と問題点のすべてが、なにか不思議な力で自然に解決されてゆくと信じられる、心強い感じが湧いてきます。

おみくじは「吉」でした。「冬の枯木が春になって芽を吹き 更にそのかげに 晴れ間の月を見るように 心誠であれば 神仏の御加護がある」との教えをいただきました。
初春の青空、晴れ渡った午後の日差し、寝不足の目をしばたたかせて地下鉄へ。
この記念すべき平成三十年が、日本国民みんなにとって清らかで明るい一年でありますように。

(終)

畏れを忘れた人間の姿(怒りと哀しみ)

九月の声を聞き、暑さもそろそろ一段落する頃でしょうか。
連日30度を超える久しぶりの本州の夏にすっかり参って、仕事部屋にエアコンをつけました。
冬は暖房費がかからず喜んでいたものの、夏の電気代でしっかり帳尻が合いそうですが・・・
最近のエアコンは節電機能も優れているらしく、ありがたいことです。

🔷 気になるニュース

先日かわいそうな記事を見ました。長野県の信濃町で起きた出来事です。
山に仕掛けたイノシシ用の罠に子熊がかかって鳴いていた。それを見ていたら後ろから母グマが来てかまれた。道路に逃げて役場に連絡し猟友会が出動した・・・
以下、8月16日15時53分、朝日新聞デジタルの記事からの抜粋です。

信濃町産業観光課農林畜産係によると、猟友会や町職員が現場に駆けつけた時、子グマは助けを求めて鳴き声を上げ続け、親とみられるクマは、逃げ去らずに興奮状態にあった。猟友会が子グマを殺処分すると、親とみられるクマは姿を消したという。

同係は「クマを落ち着かせるため、子グマの鳴き声を止めなければならず、殺処分せざるを得ない状況だった。近くに人家もあり、子グマが成獣になった時、再びこの場所に現れ、人を襲うなどする危険性も高いと判断し、猟友会などと話し合って殺処分を決めた」と説明している。

皆様はどう思われるでしょうか。
私は正直に申しまして、何か大切なことが抜けていると感じます。いろいろな点で間違いを犯しているように思います。

熊は力が強いだけでなく、とても細やかな心をもつ賢い動物です。
とくに親子は強い愛情で結ばれ、子を守る母熊の勇気と力は昔からよく知られ、いくつもの物語や伝説になってきました。
この時も、罠に落ちたわが子のために「命がけで」人間に噛みついた母熊の行動には、率直に心をうたれるものがあります。
まして痛みと恐怖に鳴き叫ぶ子熊を前に、罠を外してやることのできない母熊の悲しい気持ちを思うだけで、目頭が熱くなるではありませんか。
それが人としての自然な感情でありましょう。だがこのとき、役場と猟友会の方の考えはどうであったのか。

「母熊を落ち着かせるために子熊を殺さねばならない」「子熊が育ったら人間に復讐するだろうから今殺しておこう」・・・

このweb記事には、たくさんの一般の方がコメントを寄せておられ、その多くがこの処置に疑問を呈するものでした。しかし中には猟友会の処置はやむなしとする声もあり、現場をしらない外野は黙っていろと叱るような意見もありました。

世の中はキレイゴトで済まないとはいえ、それでも方向性が間違っていると言わざるを得ません。徹頭徹尾「人間の都合」だけで行われた子熊の殺処分を、処置は正当だったと言うだけですませてよいものでしょうか。ここに看取されるのは「人間>動物」の思考が固定化した姿、傲慢でしかも判断力も感情も衰えた現代人の危うい姿に思えます。

イノシシの罠に熊がかかる可能性はその道の人なら予見すべきこと、また子熊の近くに母熊がいることは常識です。昔の猟師ならこんなミスはしないでしょう。

親子のヒグマ(知床)

子熊を殺さず、母熊を麻酔銃で眠らせる考えはなかったのかとも思います。
猟友会が麻酔銃を撃つ資格がないのならば、初めから有資格者と麻酔銃を手配すればよかった。すぐに準備できなくても、到着を一日くらい待っても問題はない。母熊は子熊のそばを離れはしないでしょう。

「子熊が育ったら人間に復讐する、いま殺そう」には呆れました。小説やドラマの見過ぎではないか。日頃から「人間の怖さを教える」と言って散弾銃をぶっぱなしている知床財団の方々はどう思うでしょうね。臆病なツキノワグマがわざわざ人間に「復讐」なんてありえません。その場所に近づこうともしないでしょう。

結局「いろいろ面倒だから殺した」ということではないのかと思われてなりません。目の前の熊に威圧されて銃に頼る気持ちが高まり「殺処分」に走ったのではないのか。これではニホンツキノワグマの絶滅は遠くない。人間の胆力の弱さが問題なんです。

ちなみにシー・シェパードなどを引き合いに出して動物愛護の感情を揶揄するコメントも見られましたが、御門違いも甚だしい。これは狂信ではない誰でもわかるはずの心の痛みです。現場を知らない云々は全然関係ありません。むしろ生命に対する真剣さをからかう捩れた姿勢、困ったら簡単に道具(銃)でケリをつけようとする安易な姿勢が問題なのではないでしょうか。

やはり日本人には古来の自然信仰が必要だと思うのです。誰も見ていなくても神様に誓って自然の掟を守る、不注意の事故は自分の責任である。その心をもう一度鍛えるしかないのでは。

昨今流行りの「自然保護」や「自然との共生」なんてのは全くダメです。口だけのゴマカシで、その時の世の都合でどうにでも変わり、CO2問題のようにすぐ利権化する。

人間が自然に対して抱く感情は、そもそも保護とか管理などという技術的な次元のものでは到底ありません。己の存在そのものと向き合うことであり、それはもう哲学、信仰という言葉でしか表せません。そういう真剣な内観と自制が今の日本人には欠けていることが見えた、悲しい出来事でした。

子熊を目の前で殺されて、とぼとぼと森に帰って行った母熊の心を思うと胸が締め付けられます。あのやり方は絶対に間違っていると思います。
現場を知らないくせに黙っていろと言う人たちは、本音はどうなんでしょうね。聞いてみたいし、聞くのが怖い気もします。
(了)

久々に更新です

思うところがあり暫く別の作業に没頭して、本来の撮影活動が停滞しておりましたが、
春も過ぎて夏に向かうこの時期、富士山麓で活動を始めました。
手探りで続けるうちにいろいろ見えてくると思います。

🔹富士山麓

昨日行ったのは富士山スカイラインの「西臼塚」の森。
時間が遅かったためか人影もなく、夕方の光に輝く木々の若葉がゆるやかな風に揺れていました。
降るような小鳥たちのさえずりです。森は生命に満ち溢れています。
小道をゆくと、注連縄に囲まれたご神木のミズナラが静かに鎮座していました。
我々の信仰心の原点、豊かな自然に育まれた日本人の素朴な感謝が、そこに黙然と在りました。

北海道の森は森閑たる神秘的な雰囲気で、その原始性を私は愛してやみません。
それに比べて、富士山麓の森には人の匂いを感じます。
それは親しい身近な存在としての森を感じさせ、北の森とはまた違う新しい感覚がありました。
山川草木にカミを感じ、その宿る神霊を信じて大切に守ってきたわが祖先たちを思います。
森は樹木の群れであるけれど、その存在の由来を静かに辿れば、宇宙を一貫する大きな生命に行き着く。
我ら人の営みもまた、その大生命の局所的な現れに過ぎない、そんな大きな思いに至るのです。

🔹祖先から受け継ぐ日本の信仰心

私は日本の信仰たる神道のこころ、古事記の世界にとても惹かれます。
何といいましょうか・・・
日々見聞きする言説、次々現れる新技術や商品の話題、国際金融とグローバル化。
みんな金銭がらみの、人間ご都合主義の作り物、胡散臭くて嫌気がさします。
そんな臭いものに囲まれて息詰まるなか、遠い昔の日本神話や神道の考え方は実に開放的で魅力的です。

天照大神あまてらすおおみかみを始め、八百万やおよろずのカミ様たちは私たちと同じく悩みもし、時に過ちも犯すご存在です。
それもそのはず、私たちはみな「天の益人あめのますひと」といってカミの子孫で、八百万の神様は私たちのご先祖なのです。
だから私たちの心は本来神性をもち素直で清らかに出来ています。それが現世的欲望に引張られて離れる異心ことごころが出る。その異心を祓い清め、本来の「清く明けき心」に還る、それが祓いなのです。

本居宣長は『古事記伝』第三巻で次のように日本の古代の「カミ」を解釈しています。

すべ迦微カミとは古御典等いにしえのみふみどもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に御霊みたまをも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣とりけもの木草のたぐひ、海山など、其余何そのほかなににまれ、尋常よのつねならずすぐれたることのありて、可畏かしこき物を迦微カミとは云ふなり」

つまり人はもちろんのこと、自然界の鳥や獣、木や草、海や山など、善悪に関係なく、尋常ならざる力を持っているものは、みんな畏れ多きカミとして敬ったのです。

日本の「カミ」観は実におおらかで、自然界に生きる人間の真理を語っていると感じます。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の絶対的一神教と根本的に違い、そこに人為的な約束事は一切ありません。
日本人の信仰は祖先崇敬の素朴な心で、信仰の根源に最も近いのではないかと思えるのです。
だから「これこそホンモノだ」と、心の奥の奥、いわば魂の次元でしっくり噛み合う感触があるのです。

私自身、幼い頃から古いものに憧れたり、現代的な科学合理主義に強い違和感を持ってきました。
それは日本人のDNA、いにしえをカミと敬う大きな宇宙観に発しているのだと思います。

🔹取り戻そう、日本の素直な清い心を

明治以前の日本は、安定し充実した日本の伝統に抱かれて、本当に自然な形で発展してきたと思います。
しかし西洋一神教文明との接触以来、その自然さは混乱し中断され、素直な心が霞の向う側に隠れてしまった。

明治以来、文明開化だ、進歩主義だと突き進んできたこの150年の間、己を見失った不自然が積み重ねられた末に、肥大化した我欲に囚われて、利便性の追求という単純な物質偏重に落ち込んでしまったように思えてなりません。

明治は西洋文明との衝突から始まりました。その不可抗力性と不運を理解した上で敢えて言いますが、この150年の経験は日本民族にとって大きな災厄であり試練でした。西欧との出会いは私たちの精神を混乱させ、欺き、絶望させ、遂には叩きのめしました。
明治史を彩る大日本帝国の華やかさと雄々しい活躍ぶりの中に、どこか哀しい調べがあるのは、裏を返せば、西欧による侵略攻勢の大なるに脅かされた、我らの先輩たちの命をかけた必死の戦いの絵巻だったからだと思います。
世界が拡大してゆく中で、ある意味必然的な流れがあったとはいえ、あまりに悲劇的な運命でした。
大東亜戦争は、日本を計画的に破滅させようと追い詰める悪意ある欧米列強に対し、我が国民が見せた全力の反撃でした。

敗戦後の日本は欧米金融勢力に屈服し、自らを小さく見せることでお叱りを受けないようにする臆病な子供のように哀れです。

そうした悲劇の歴史事実を率直にみつめ、正しい自己認識のもとに日本は出直すべき時だと、私は強く思うのです。
古い殻は、いつかは脱ぎ去らねばなりません。
それは決して「戦前に還れ」などという視野の狭い話ではありません。
私は「明治以前に還れ」といいたい。それくらいの精神的な大転換がいま求められていると思います。
米国、欧州を始め世界的に戦後秩序の再編が始まっている今こそ、日本も覚醒して再出発しなければならないのです。
そのことは、また稿を改めて論じたいと思います。

🔹この春の桜の回想

毎年見ていたのは、北海道神宮の境内や、函館五稜郭公園の桜たち。
静岡に移った今年はどこがいいだろう?なんだか気が乗らないままグズグズしていると
今年は開花が遅いと油断しているうち、あっという間に咲いて、雨ですぐ散ってしまいました。

諦めたあとで偶然出会う「残り桜」はひとしお嬉しいものです。
四月末に二度目の伊勢参宮を果し、立ち寄った三重県の美杉村で「三多気の桜」に出会いました。


またあちこちの見聞を記したいと思います。
今回はここまで。ありがとうございました。

何かほっとする風景 〜 安倍峠

静岡に帰ってきてひと月が経ち、日常生活にも慣れてきました。

そろそろ山の空気を吸いたくなり、山梨県との境の「安倍峠」に登ってきました。
祖母が俵沢という安倍川沿いの集落出身で、安倍奥と呼ばれる山域に私は強い思い入れを感じています。
だから静岡の山登りはぜひ安倍奥から始めようと決めていました。

▪️安倍奥・梅ヶ島温泉へ

新東名を降りて、安倍川沿いに上流へ40分走ると、秘湯「梅ヶ島温泉」に到着です。
鄙びた宿の軒先で、明るい日差しに紛れてふと頬に吹く山風の冷たさはやはり冬です。
空気の乾燥具合が、湿った日本海側の冬と全く違う気がします。

ひなびた温泉街

▪️安倍峠へ

登山口からの400m急登は、引越し以来まともに運動していなかった体にはきつい洗礼でした。
大汗をかいて1時間で上の林道に合流し、少し行ったところから沢沿いの山道へ下ります。
足首の上まで積もった雪の上に、週末の登山者と野生動物の足跡が交錯しています。
確認できたのはシカとキツネ、ウサギ。それとリスかな?というのが少し。
歩いていると斜面の樹々の間から「フィーッ」とシカの警戒する声が何度か響きました。

この日は出発が遅れたため13時の入山となり、あまり時間に余裕のない山行でした。
何とか15時に安倍峠に到着。展望を求めて南側のコブに登り返します。
雲を被った富士山が見えたときは何かほっとする気持ちでいっぱいになりました。

富士山に帽子が

穏やかな雪の森の雰囲気は、北海道でいえば春、4月頃の印象です。
北と南ではこんなにも季節感が違うことに改めて驚きました。

まずは冬の間に体力作りを兼ねた偵察山行を重ねながらこの地の風物や道に馴染みたいです。
そして五月頃からは南アルプスを訪問してみようと楽しみにしています。

(終)

 

新年のご挨拶 平成29年=皇紀2677年=西暦2017年

初日の出

あけましておめでとうございます。
みなさまにはよいお正月を迎えられたこととお慶び申し上げます。
しかし突然の自然災害や年の瀬の大火事で、思いもよらず苦しい状況の中で
新年を迎えられた方々のことを思うと、人の世の無常、定めというものの非情を感じて
まさに他人事ではなく身が引き締まります。

***  ***

昨年は個人的にも大きな転機の年となりました。
21年住んだ札幌を離れて、静岡県の富士山麓に参りました。

仕事の面では昨夏北海道を襲った4つの台風で撮影活動の場所を大きく失ったこと、
私的事情では親類縁者が高齢になる中、故郷への思いが強まっていたこと。
日本の将来について危機感が高まるなかで、自身の新しい出会いを欲していたこと。
それらを総合的に考え、今が転機と決断したうえの転居でした。
まずは早くこちらの生活に慣れて、活動を再開したいと思います。

新年の曙光に輝く

***  ***

「今年は激動の一年になるぞ」と、新年を迎えるたびに思っておりますが、
まさに世界の混乱は増す一方です。先行き不透明で前途多難の緊張感が満ちています。
かたやわが国のテレビ報道ときたら時代遅れでマト外れで、いったい何を見ているのかと。

情報が溢れている時代、その意味を自分の言葉で組み直して真偽を判断する力が必要ですが
手っ取り早く「検索」して得た他人の言葉を便利に使い回すことに慣れた頭には大変なこと。
情報を理解し判断する力の差は、そのまま現実認識の差となって、国論は常に分裂しています。

またテレビや新聞も本当に大事なことは報道しません。尖閣諸島の危険な実情も報道しません。
芸能人の麻薬とか、どうでもよい些事に我々の関心を向けさせようとします。
難しい世界情勢など一般国民は理解できないし、視聴率も取れないと考えているからでしょうか。

いつぞやある市議選候補者が、選挙を手伝っている私に雑談的に話してくれました。
「テレビ局の人間はみんな一般国民を馬鹿だと思っていて、程度に合わせた番組を作っていますよ」と。
彼自身がその業界出身だったのは笑えないオチですが、本当のことだろうと思いました。

***   ***

自分の命は長くても70〜80年です。でも日本の国と日本の民はずっとずっと続いて欲しい。
同じように願ってきた無数の祖先がいたからこそ、いまも日本は続いています。

現代の我々はその大切な祖先との約束がどんどん壊されていく只中を生きている。
伝統的な麗しい習慣は現代的に作り変えられ、言葉もじつに貧しく粗雑になりました。
長い歴史をもつ日本が今、根底から壊されて永遠に失われる危機に瀕していることを実感します。
それも国民がすっかり油断してノホホンと気付かない中で、静かに確実に進んでいる。
その首謀者は誰なのか。なぜ日本人はそれに気づかないのか。

“金を稼げば人生の勝利者、稼げなければ人生の敗北者”と言わんばかりの拝金主義社会です。
この流れを意図的に生み出して、世界を金漬けにして支配しようとしている勢力があります。
国際金融資本つまり国際銀行家たちです。彼らは金融を武器に各国の政治経済を冒し、その自主性を奪います。国民を「金持ち」と「貧乏」に分断して団結力を弱め、バラバラの個人を金で支配するのです。

金で国を買い叩かれ、国民を分断され、伝統文化を滅ぼされる苦しみを我々戦後の日本人はずっと味わってきました。誰と戦っているのか知らないまま、負け続けてきたのです。
本当の敵は、じつはアメリカや中国といった国家単位の政府ではなく、彼らを裏から金で操っている者たちなのだということを、この二年ほどで私は腑に落とすことができました。

我々の骨髄を腐らせ自壊させるのは結局は金と物への欲望であり、それを戦略的に流行らせているのは国際金融資本家たち、つまりグローバリスト推進派です。
私たちが金に対する卑しい心構えを恥じ、反省しないかぎり、彼らの侵略から日本を守ることはできないと思います。戦争は武力だけではないことを知らねばなりません。

真の国際的視野とは、自国のかけがえのなさを悟った人だけが持てるものだと思います。
国を失ったらどうなるか、その怖さや痛みを感じられる人は、他国民の痛みも分かるのです。
それが本当の国際人というもので、決して国際的なビジネスに長けた人のことではない。
私はそう思っております。

みんなで、2677年目を迎えた愛しい日本の国を守るために、自分の頭で考えていきましょう。
今年もよろしくお願いいたします。

(終)

富士の国から(耶蘇祭りの夜想)

秋頃にお知らせしました通り、このたび長年住み慣れた北海道を離れて
故郷静岡県の町に越してきました。
荷物整理もやっと一息つきまして、当ブログも再開と相成りました。
どうぞ引き続きよろしくお願い申し上げます。

***  ***

窓からは毎日富士山が大きく見えます。12月というのに日中の気温は12〜16℃もあって、
外出も薄いコートで済むのは新鮮な感覚です。温暖な土地に来たことが実感されます。
気候の変化に体がついていきません。朝晩はくしゃみばかりして、昼間は眠くてぼうっとして。
少しずつ慣れるものでしょうが、風邪は寒いからひくとは限らないなと感じます。
高校時代以来の静岡県民となり、人とのつながり作りからの再スタートですが
焦らずにやるべきことをやっていこうと思います。

***  ***

年が明けたら早速近隣の山を歩いてみたいのですが、私は静岡の山をほとんど知りません。
とりあえず昔買ったヤマケイのアルペンガイド南アルプス編を読みなおしています。
動物や野鳥たちのご機嫌伺い&足慣らしのため、まずは冬の低山で訓練ですね。
カメラを担いでいくのはもう少し先になりそうです。

【耶蘇(ヤソ)教祭りの大騒ぎにもの申す】

世の中はクリスマス一色でも、我が家では23日の天皇誕生日のお祝いが最も大切な日。
強風に負けず国旗も出した。青空に翻る(ほとんど飛ばされそうな)日の丸の美しさ。

私はX’mas「クリスマス」を日本語で「ヤソ(耶蘇)祭り」と呼んでいる。
キリスト教の聖夜祭なのだからそれが正しいといっても、残念ながら世間では通じない。

欧米人の習慣をむやみに導入したところで、しょせんうわべだけの借り物だ。
毎年12月に日本中で演じられるX’masの行事は巨大な消費と流通、それ以上でも以下でもない。
物事の意義や由来を無視して表面的な享楽だけをいいとこ取りする姿勢はいかがなものだろう。

たいていの人は「X’masは楽しいからいいじゃん」というだろう。また「GDP増に資する重要な経済行為だ」という人もあるかもしれない。だが行事の由来や意味が完全に没却されたら、そこには薄っぺらの、むなしい空っぽの疲れしか残らない。
メリークリスマス!と叫ぶ日本人は、いったい何をMerryと思い、何を祝っているのだろうか。

こうも思う。他国の宗教儀式を意味も考えずに真似することは、無責任で軽薄な仕業ではないか。
つまり真摯なキリスト教信者に対して侮辱行為ではないだろうか。ましてや商売の都合だけで。
何でも楽しければいいという軽い態度や、本来の深い意義を顧みない粗雑な感覚に、私は同意できない。

私の怒りとは無関係に、この馬鹿らしい風習もきっと100年後にはなくなっている気がする。時代も世界も変わる。西欧キリスト教文明の世界支配はせいぜいこの500年で、それももう終わろうとしている。
それまで待てないのは残念だが、耶蘇に迎合しない意思はしっかりと示しておきたい。

【平和ボケの悲劇&世間知らず日本、どこへゆく】

振り込め詐欺被害が報道されるたびに、またかという驚きと、なぜだという不審を禁じえない。
騙される人の中にある悪意への油断。虚実を判断する力の欠如。心の不安定さ。
そんな状態につけ込んで金を要求する巧言に動揺してしまい、痛い目に会うのだろう。
こんな油断と隙がお年寄りには多いのは、逆にいえば日本の幸せな国柄の証でもあるから皮肉だ。
なぜ、お年寄りが心に相当な武装を要するような、寒い世の中になったのか。

「国境や民族を超えて、誰もが地球規模で活躍するべき時代だ」とテレビで無邪気に話す「有識者」たちは国際化が生みだしている実生活での軋轢や弊害を「改革には痛みがつきものだ」と片付けて顧みない。こうした盲目的な国際化信仰がエリート層の見識の狭さと相まって、社会に実害を及ぼすこと実に大きなものがある。
年端もいかぬ全国の小学生がその大きな犠牲者だ。文科省は異議異論をすべて封じて、子供たちを早期英語教育の実験台に供した。

これは必ず大問題になる。すでに日本の家庭は崩壊寸前だ。
子供の機嫌をとる親には威厳も力もなく、自由の荒野に放り出された子は不安と恐怖からゲームや仮想空間に居場所を求めるしかない。社会全体が不安と臆病と自己不信のかたまりのような分厚い暗雲に包まれている感じだ。

このうえ家庭内に英語が入ってきたら親子はお手上げだ。何年かして全国で深刻な事態が顕われるだろうが、国際化信仰の文科省はシラをきるだろう。日本語と日本民族が地球上から消えていく、その第一幕を演出した罪を決して認めないだろう。
この恐ろしさに比べれば、ゆとり教育による学力低下などは全然他愛ないものだ。

また先般、全国の大学に対して「理系学生の育成を重視して、文系学部は削減せよ」という文科省通達もあった。この狂気の沙汰に、怒り嘆いているのは勿論私だけではないだろう。
科学技術の意義が人の生活向上に奉仕することなら、人間の死生観を深く考える哲学や宗教の素養こそが大前提である。土台をおざなりにして果実だけ効率よく得られると考える文科省官僚の頭は、ものの道理を弁えない幼児レベルの粗雑さだと思われてならない。

最高学府を出た人々が見せる無知と暴走が、我が国での「優秀さ」というものの無意味と危険性、有害性を証明している。
嗚呼!このような連中が国を導く立場に座っている。敗戦で正邪を180度ひっくり返されたままの戦後日本が悲しくてむなしい気持ちになる。
そういう思いが無気力を生み「今だけ金だけ自分だけ」の世を生み、振り込め詐欺の天国にもなるのだろうか。

***  ***

今日は12月25日、耶蘇祭りの日だ。我が家では「ケーキを食べる日」である。
デパートや大通りではモミの樹を飾り立てるのに懸命だ。毎年繰り返されるこの行事のむなしさは、戦後日本人の漂流と惚け面の本質をみごとに象徴している気がする。

敗戦で古来の国柄と心軸を投げ捨てた結果、目先の欲望と金の誘惑しか見えなくなった戦後日本の悲劇を静かに思う。
己の醜さをごまかさずに恥じることから始めなければならない。それがあの戦争の真の総括となり、これから進むべき正しい方向が初めて見えてくる。それは敗戦から続く自暴自棄と絶望の連鎖からの脱出、二千年のわが国史への素直な愛情と誇りの回復である。
敗戦を言い訳にして現状を看過する腐れ魂を一刀両断する、それが我々の再生へのただ一つの道であろう。

***  ***

札幌から静岡へ引っ越しても、私自身の視点、関心事はもちろん変わりません。
今後も我が美しき国土とそこに生きる命を見つめ、先人の国史と伝統の精華に思いを寄せつつ現代を生きる市井の一人としての憂国の思いを綴ってまいります。
どうぞ末長くご愛顧くださいますようお願い申し上げます。

トランプ大統領こそ日本の国益

戦後の日本のシステムを根底から見直すチャンスが来るのだろうか。

何十年もの間アメリカの理不尽な圧力と脅しに我ら国民の生活はどれほど不自然に歪められてきたことか。憲法の押し付けに始まり数々の法律を変えられ、企業の経営方法も労働観も変えられ、為替も強引に操作され、国語破壊、英語の押し付け、あらゆる文化基準を変えられ、今またTPPという勝手極まりない貿易条約を押し付けられそうになっている。

いや我が国だけではなく世界中の国民が「グローバリズム」というアメリカの原理の押し付けに苦しんできた。そんな中で祖国を金で売る連中だけが利益を享受する構造、素朴で誠実な一般国民はひたすら搾取される不幸な構造が世界中に蔓延してきた。

グローバリズムの侵略に対抗する戦いはイスラムや欧州だけの話ではない。日本が苦しんでいる経済の長期凋落や社会規範の溶解、絶望的閉塞感は、いま世界で起きている現実の戦いと常に密接に関連している現象だと考える。
国民生活より己の利益を優先して憚らない対米追従のTPP推進派の経団連や政治家たち。
彼らを見ているとグローバリストとは罪悪感なき売国奴だと改めて思う。

グローバリズム否定派のトランプ氏が大統領になるかもしれない。
世界の潮流はその方向にあるし、何よりアメリカ国民がそれを望んでいる。
グローバリズムは反省され、見直されようとしているのが世界の現実だ。

だが周回遅れの日本の要人たちの頭には理解も反省もない。
米国を相手にいかにこれまで通りに金儲けを続けるかが関心事であり続ける。
敗戦後の日本はそういう人間だけが出世するように作られている。

国益という言葉を未だにNHKが使わないのは、GHQの命令を忠実に守っているからだ。
70年前から日本は三流国家に落ちてゆくようにプログラムされていたわけである。
トランプ旋風の意義を全く報道できないメディアの低質さがその大成果だ。

ヒラリーは既存のユダヤ金融グローバリスト勢力に守られている。
トランプはそれを打ち破りたい米国の一般国民に支持されている。
「グローバリストの代表」VS「米一般国民の代表」
アメリカという国が今後続いていくかどうか、歴史的正念場であろう。
米国が正常化の道に踏み出すときが、わが日本も占領の首輪を外すときだ。

わが歩みを刻んだ北海道と祖国への思い

いつしか二十年の歳月が流れていた。
不惑の歳を大きく超えたが精神の躍動は失わずにいたいものだ。
北国では初雪の知らせを聞く季節。私の人生もまた岐路を迎えている。

私はこの冬、故あって長年住んだ北海道を離れることにした。

秋色・十勝岳

秋色・十勝岳

***

思い出とは白い霧の向こう側にある断片的な光景のことか。
歳月を経たことは寂しさでもあるが、同時に安らぎでもある。
喜怒哀楽、かつて心を燃やしたすべてが、今は優しい淡さに包まれて見える。

今度は故郷にほど近い、わが国随一の霊山の麓にある古い町へ移り住む。
そこで魂を磨き、これまでの積み重ねを統合して新しい挑戦をしたい。
人生はダイナミズムだ。機を逃さずに一気に跳ぶそのときが来た。

***

私は北海道の広大な自然に、本当に大切なことを教わった。

野生動物との日常的な遭遇は、いつしか人の心に謙虚な信仰の心を育む。
私は自然科学の本質的な矛盾と、人間の尺度で叫ぶ自然保護の虚しさを痛感した。

山で過ごした野生的な夜は、いつも私を小賢しい人間から一個の素朴な生き物に還した。
鋭敏になった心で、人の感覚や理屈を超えた世界の実在を直感するのだった。

日本文明の古代的自然信仰が、実は最も現代的かつ高次元の思想であることに気づき、
体と心で掴み取ったこの感覚が、古い神道に通じていることを、大きな感動とともに悟った。

大切なことはすべて昔にあったのだ。私たちは昔を忘れてはならない。

夜明けの知床峠

夜明けの知床峠

***

欧州と日本という対照的な少年時代の生活環境が、私に自然な祖国愛を芽生えさせたが
そのことで私は公の重要な問題に関し、つねに少数派として孤立する宿命を背負った。
戦後の巨大な偽りの構造に安住する人々を寂しく眺めるしかできない無力な己を思う。

「思ふこと 言はでぞ ただに止みぬべき われと同じき人しあらねば」(在原業平朝臣)

何も言うまい、自分と同じ人などいないのだから、と唇を噛み世情を静観する毎日。
それでも思いを上手に伝える力が欲しいと願い続ける。

ひとり早い秋

ひとり早い秋

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