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新元号発表寸前の思い・・不安と希望

四月一日、いま午前10時50分である。あと40分で、次の御世の元号が発表されるのである。

胸に渦巻く不安が高まる。変な元号にされたらどうなる?
「有識者」たちが絞り込んだという5つの案から、決められるらしい。
あの、女性宮家という「皇室破壊工作」を推進する勢力が占める「有識者」たちなのだろうか。
日本の国柄とご皇室の歴史を無視して、己の思想的好みを勝手な理屈で押し通そうとしてきた、あの「有識者」たちが、今回も決めているのだろうか。
私は どんどん胸の中に不安が高まっている。

新しい元号は、これから何十年か、私たち日本人の生活に密着する重大なものである。
これがもし、左翼リベラル思想に冒された連中の頭で 作られたら、どうなるのか。

国民がそっぽを向くような、あまり使いたくないような、言葉だったら?
国民に「何か嫌だな」「あまり使いたくないな」と元号を縁遠く感じさせれば しめたもの。
いずれ元号を廃止して西暦に統一するように持っていこう、そう考えている者たちがいるだろう。
それらが、「有識者」たちを主導している可能性も否定できない。
女性宮家をめぐる謀略や、皇室を貶めるマスコミ報道を許容し、歴史上存在しない皇嗣殿下というものを国民の知らないうちに勝手に作ってしまった連中だ。
ご皇室を、好き勝手に造り変えようとする者たちが、なぜか「有識者」と呼ばれている。

今回の元号の決め方に、陛下やご皇族の方々の意見は取り入れられているのか?・・
マスコミの記事で見る限り「有識者」が絞り込んで官邸が決める、という流れのようである。

もうあと13分で、発表だ。何をか言わんや・・祈るしかできない。祈るのみである。
日本の神様、ご先祖さま、どうかまともな元号になりますように。
日本国民が自国の歴史と伝統に誇りを感じられる、よい元号になりますように。
きちんと、伝統を守って古典籍からの引用でありますように。
現代的なキラキラ元号になりませんように・・
人権とか個人とか、平等とかの薄っぺらで幼稚な近代感覚で選ばれませんように・・

あと数分で、日本の将来がかかった瞬間がやってきます。

真の日本の夜明け (御代替りを迎えて)

◆ 去る12月23日 天長節 皇居前にて

今上陛下の 最後の「天長節」(※天皇陛下のお誕生日のこと)
人混み嫌いの私も 万感の思いで 皇居へ参じた。
朝の皇居 和田倉門前には すでに参賀者の大行列が出来ていた。

曇り空から時折 雨が落ちてくる 穏やかな冬の日。
手荷物の検査を終えて 新たな列に並ぶと 行く手には 正門と二重橋が見えた。
雲間から陽光が差して 彼方のビル街に降りそそぐ。

正門を入り 二重橋を渡ると 古い石垣や青々した松に 残りもみじの紅が映えている。
年配の夫婦や子連れの若夫婦、恋人たち、外国人と様々な人々が行く。
イベント気分の人も多いのかもしれないが・・それでも 天長節を祝うこの場に これだけの大勢の人たちが足を運び集った事実自体が 麗しく感じられた。

11時__人々で埋まった宮殿前で 小旗を握り 陛下と皇族方のお姿を拝した。
遠くからお姿を拝して 私は 思わず目頭が熱くなるのを感じた。
ライブ演奏や映画に感動するのとは異なり、根元的で 静謐な感激が湧いてきた。

悠遠の時間と、今ここに在る自分・・霊妙な感覚で 心が痺れたようになった
あの瞬間 私は  陛下のお姿を鏡として 己の本質に触れたのかもしれない。

生身の人間であると同時に 無数のご先祖の霊を合わせた「日本総体」としての 陛下。
 陛下と我々の心が共鳴して 不可視な波動が 己の魂を揺さぶったのかと思う。

「すめらぎは 我が国の祭祀王  皇室は 世界で一番古い家系 神と人をつなぐ大神主・・」
そんな知識や言葉よりも、胸に湧いた あの清らかな感情を 唯々 尊く思うのみ

◆ 元日_「日高見国(ひだかみのくに)」の旭日昇天

海から昇る朝日は 大きく美しい
まして それが一年の最初の日の出であれば 尚更に

両親が米国に住んでいた頃  家族で東海岸まで初日の出を見に行った。
夜明け前の海岸は 草むし 荒涼として 吹きつける風は冷たかった。
日の出の瞬間 喜びの声が上がって  道脇に集った大勢の人々の顔には
New Year の Opening Event を Enjoy する 興奮と歓喜があった。

あれから長い年月が経ち、私は久しぶりに海から昇る初日を拝む機会を得た。
茨城県 大洗町の 水平線から昇る 雄大な旭日に 全身を照らされて
北米海岸の風情とはまったく異なる、厳かな畏怖と 静かな祈りが 心に満ちた。
これが「日の出づる国」の夜明けなのだ・・ わけもなく感慨が胸に迫った。

古い祝詞に「大倭日高見国」(おおやまと ひだかみのくに)という言葉がある。
これは 天孫ニニギノミコトが 高天原から天下り 治めた国を指している部分で、
大倭は大和朝廷のこと。では日高見国とは何か?・・
じつは戦後日本で 一切顧みられなかった この謎に いま清新な光が当てられている。

東北大学名誉教授 田中英道(ひでみち)先生の説は 今 最も注目されるべきであろう。

「日高見国」は古代の東日本に存在した一大文化圏で 神話の「高天原」とはその地を指す。
そしてその中心は 常陸国(=日の立つ国)つまり今の茨城県、鹿島の地であったという。
(研究の詳細は ぜひ田中先生の著書をご参照頂きたい)
  『高天原は関東にあった』(勉誠出版)2017年 

美術研究が専門の田中先生が、考古学、歴史学、人類学、形象学など学際的な視点から
総合的に考察・構築された説は まさに 汲めども尽きぬ驚異の泉である。
その高い実証性と説得力の前に 歴史学界は沈黙し ほとんど無視を決め込んでいるらしい。

「神話は無価値な作り話」「古事記・日本書紀は後世の権力者の都合による捏造だ」
「日本は中国文化圏の一部に過ぎない」「縄文人は未開の野蛮人だった」etc・・

戦後の歴史学者が拠ってきた これらの自虐的な偏見に満ちた見方は、この田中説の登場で 一気に「次元跳躍」的に 覆されるであろう。
もちろん私たち国民は 歴史学会のメンツや 都合など いっさい気にする必要はない。
大切なことは 真実を知ることなのだから。

縄文時代に 関東・東北に高度な文化があったことは 青森の三内丸山遺跡を初めとする考古学の発掘調査で 明らかになってきている。
日本列島の自然の恵みは 安定的な食料事情(狩猟採集経済)を保証していた。
私たちの祖先は 一万年にわたり平和で高度な文化社会を築いていたのである。

神武以前の創建と言われる古社・鹿島神宮香取神宮の存在は それを今に伝えている。
神話の「出雲の国譲り」は 日高見国(高天原)勢力による 西国の平和的統合の事実を伝える。
「天孫降臨」は 中国大陸の戦乱興亡の余波に対応に迫られて 国内を統一する動きだった。
かつて 大船団が「東の鹿島」を旅立ち「西の鹿児島」へ「天(=海)降った」のである。

私は この田中説を知って 日本の起源の真実にやっと出会えた という強い感動に打たれた。
そして 日高見国の祖先が崇めた「太平洋に昇る旭日」に 強い思いを抱いたわけである。
万古不易の尊い「初日の出」を拝した後は 鹿島神宮に初詣を済ませたことは 言うまでもない。

鹿島神宮と並び 東日本最古の 香取神宮への参拝も 今年はぜひ叶えたいと思っている。
縄文日本に生きた祖先を偲び 古代のロマンに胸を震わせた 今年の元旦であった。

鹿島神宮(奥宮)

 

 

15年ぶりの涸沢カール訪問記(前編)

15年前東京で、僕は毎週のように信州の山々に通った。
それまでの人生のすべてがここに集約しているかのように感じて
すっかり大自然の虜になってしまったのだった。

やがて北海道に戻り、自然写真家として再出発した僕は、人間と自然と
世界の真実を知ろうという志を立て、社会の片隅で孤独な努力を続けてきた。

故郷の静岡に戻って一年経ったこの秋、懐かしい北アルプスを訪ねた。

◆ 上高地の静かな変貌

秋の河童橋と奥穂高

かつて心を奪われた「涸沢カールの紅葉」を見たかった。弱っている心の力を蘇らせるために、原点に戻ろうと思ったのだ。

台風一過の初秋、僕は上高地の河童橋の上に立った。梓川の美しい流れと岳沢を抱いた奥穂高岳の勇姿は、あの頃と何も変わらない。
だが外国人が増えた。現地観光社の職員にも中国人スタッフがいて驚いた。

 

この中国人の増え方はどうだ。僕は総毛立つような不安を禁じ得ない。
差別はよくない、などというキレイゴトはもはや何の意味もない。
このまま外国人の増加を放置すれば、取り返しがつかないことになるだろう。

◆ 魂の禊(ミソギ)か 団塊世代の登山者たち

多くの人が楽しそうに話しながら、河童橋を渡って山へ向かっていく。
彼らは素敵な登山服に身を包み、きれいなザックを背負っている。
「私はもう百名山登ったよ、今は二百名山目指してるんだ」
「今日は穂高で、明日は立山へ行くのよ」

還暦を過ぎた人々が高価な登山グッズを身につけて、大挙して山へ入って行く。
いつの間にか見慣れた光景だが、このとき僕はあることに気がついた。
彼らは自分では意識せずに、山の神に魂を清めてもらおうとしているのかもしれないと。

「人生は楽しむためにある。公のことは他の誰かが考えればいい。
自分と周辺の人間が損をしないようにすればよいのだ。
そしてまず金だ!金さえあれば安心だ。金がない負け犬になったらお終いだ。
数字と科学的合理性、目に見えるものだけが信じられる。
目に見えぬものは全て幻で嘘だ。宗教は時代遅れの迷信、詐欺師の商売にすぎない」

団塊世代(私の父母世代)に共通してある価値観とは、概ねこういうものではないか。
金と物質を偏重し、精神をないがしろにする考え方が蔓延して、冷たく虚しく野暮な世になった。
人々の共通の価値が消え、孤独な「個人」を好き勝手に生きる子の世代は、精神的虚弱に病んでいる。
上高地に限らずあらゆる観光地が、物質主義で退廃した日本人の心のように見えて哀しい。

団塊世代は世塵に汚れた心の禊(みそぎ)を求めているように見える。
彼らの中には祖先から受け継いだ清らかな魂があり、それが山へと駆り立てる。
僕は、そうであってほしいと願っている。

◆ 初日、横尾のテント場まで


今日の予定は、梓川に沿って横尾まで、およそ12kmの歩きだ。
テント泊装備に加え撮影機材が重いので、膝を痛めないようテーピングする。
快調な歩きで、→明神→徳沢と順調に過ぎて、予定より早く横尾山荘に着いた。

紅葉の最盛期でもありテント場は混み合っていた。
僕は梓川に掛かる吊り橋の下に幕営した。他のテントからは離れて静かな場所だ。
ときおり橋を渡る人たちの話し声が気になるくらいだった。

横尾の夕景

単独のテント泊ではやることは単純だ。まず寝床を準備して荷物を整理する。
鍋に一合半の米を浸し、ベニヤ板の上でお湯を沸かしてテルモスに詰めた。

炊飯するうちにゆっくりと夕暮れが迫り、炊き上がる頃にはすっかり暗くなった。
横尾山荘の灯が赤々と夜の帳に浮かび、テントの中も冷気が満ちてくる。

幕営の様子

食事を片付けて寝袋に入ると、僕は今日のこと、そして明日のことを考えた。
案外よく歩けたな。重い荷物に肩が痛むが、朝には回復するだろうと思った。
四時の時点で天候判断だ。テントはここに張っておいて、涸沢まで往復しよう・・
梓川の瀬音が、耳に心地よかった。

◆二日目、十五年ぶり涸沢カールへ

長い夢をみた。高校時代の部活の友達や、片思いをした子が現れたりして。
山の空気はなぜ、心を昔に返すのだろう。

出発する登山者たちの声で起こされた。テントの入り口から首を出して見ると、
夜明けの霧の向こうに、朝日を浴びた前穂高の峰が青空に頭を突き出していた。
天候OK、よし行くぞ。

六時半に出発。やはり外国人が多い。それは紅葉シーズンだからなのか。
岩小屋の跡を過ぎて、左の沢向こうに朝日を浴びて巨大な屏風岩が輝いている。

本谷橋の手前で、北穂高が美しい場所に来た。ここで今回初めての撮影を行う。
Horseman985、叔父から譲られた中判カメラの歴史的逸品である。
何でも簡便・単純化するデジタル時代、この6×9判の持つ描写力とアオリ機能は貴重だ。

ある日のHorseman985(摩周湖にて)

狭く傾いた山道に三脚を構える。水平を出すのに苦労する。
15年前と変わらぬ北穂の姿に見惚れる。
後から途切れなく来る登山者に道を譲りつつ、数枚撮り終えるのに15分かかった。
本谷橋を通過して本格的な登りが始まる。15年前の記憶が蘇る。こんなだったかな、ああそうだ、こうだったなと独りごちつつ進んで行く。

 

支流の涸沢へ回り込むと谷には陽光が溢れていた。
山肌を埋めつくした錦秋模様が鮮やかに輝いている。

テントを置いてきて正解だ。ザックは軽く、肩の痛みは少ない。快適な登りである。
おかげで意外なほど早く、懐かしい涸沢小屋に到着できた。
テラスで憩う人々。雄大なカール、そのV字谷の正面に浮かぶ常念岳の秀麗な姿。
スリムな新しい登山服姿の若者や、昔ながらのニッカ姿のベテランもいる。
僕は15年前に池袋の店で買った山シャツと、札幌の釣具屋で買ったズボン。昔からオシャレ登山とは縁がない。

涸沢ラーメン(¥1,000)を頼み、持参の弁当箱を開く。ふりかけご飯だ。
これから撮影だからビールは飲まない。白湯が美味しかった。

涸沢ラーメン

「去年だったかな、テレビで言ってたよ、テント1,000張だってさ」
大岩の上で撮影しているときに声をかけてきた、初老の登山者が言った。
昔はグループでテントひとつで済んだが、今は単独行や少人数が増えた。
テントもその分増えたんだという。団体行動を嫌い、気の合う仲間だけで山に来る人が多い。
1,000張か・・それにしてもすごい数だ。

 

カール下部より北穂高を望む

涸沢カールの紅葉は色づきは今ひとつだったが、ここまで来られたことに僕は満足だった。
6×9で2ロール撮り、日が傾き始めた15時に横尾へ下山を開始した。
真っ暗になる前に降りたい。ヘッドランプ下山は好きではなかった。





完全に暗くなる前の17時過ぎに横尾に戻った。
テントに荷を解き、炊飯の準備にかかる。
重く濡れたシャツを枝に張ったロープに干すが、まず乾かないだろうな。

横尾山荘でチューハイを買った。今夜はロースハムとチーズで乾杯!
しかし残念、チーズは車に忘れてきたようだ。ピーナッツで我慢する。
今夜はご飯がずいぶん美味しく炊けた。
小魚のふりかけと、生卵に醤油を溶いてご飯にかける。おかずはハムのみだが満腹となった。

◆ 歳月が変えた視点

15年ぶりの涸沢カール訪問は、思いの外淡々と行われた。
経験を積んだことで、いつしか初心の感動を忘れてしまったのかもしれない。
「百名山」登山者たちの会話や外国人の多さに、やや白けていたのもある。
ただ自分の体力的な自信にはなったので、それでよしとしたい。

明日は上高地まで12kmの歩きが残っている。まずは体を休めよう。

(了)

 

 

<甲子園後記> 秋田・金足農「日輪のたぐひなき愛」の校歌を讃す

秋田県立の金足(かなあし)農業高校が、夏の甲子園に旋風を巻き起こした。
この夏、何度も流れたその校歌は、農業国日本にふさわしい自然観を存分にうたいあげている。

「可美(うま)しき郷 わが金足」
(素晴らしいふるさと われらの生まれ故郷、金足よ)

「霜しろく 土こそ凍れ 見よ 草の芽に日のめぐみ」
(厳冬の冬、大地は霜に凍りつくが 春には 恵みの陽光が草の芽に命を吹き込む)

「農はこれ たぐひなき愛 日輪のたぐひなき愛」
(農とはつまり太陽の恵み この世に二つとない無限の宇宙自然の 愛の営みだ)

「おお げにやこの愛 いざやいざ 共に承(う)けて」
(ああまったく有難い、この大自然の愛を、みなで感謝とともに承けていこう)

「やがて来む 文化の黎明(あさけ) この道にわれら拓かむ ・・われら、拓かむ」
(必ず来るだろう、真の文化の黎明が だから我らは一心にこの農の心道を拓いてゆこう)

歌い出しの「うましき郷」という語を聞けば、有名な万葉集(巻一・二番)の舒明天皇の御製が連想される。

大和には群山あれど       (大和にはたくさん山があるが)
とりよろふ天の香具山      (中でも天の香具山がいい)
登りたち 国見をすれば     (山に登って国中を見渡せば)
国原は 煙立ち立つ       (人々の家々からは炊飯の煙が立って)
海原は 鷗立ち立つ       (海にはカモメたちがのどかに群れ飛んでいる)
可怜(うま)し国ぞ
蜻蛉洲(あきつしま) 大和の国は (いい国だなあ、大和の国は・・・)

同じく故郷を賛える素直な心が、古今を通じて変わらない共感を私たちの心に与えてくれる。

そして霜白く凍る厳しい冬が過ぎて、生命が一斉に輝く春の到来を、じつに美しく明るく歌う。
生命の源は「日輪のたぐひなき愛」と。これこそ日本人本来の自然観、太陽信仰の核心であろう。

天照大神から託された斎庭(ゆにわ)の稲穂を元に稲作で国を栄えさせた我らの祖先たち。
わが郷土と学業の師への恩愛のみならず、我が国の悠久の歴史へまで心を広げてゆく歌詞だ。

日本の国の成り立ちを織り込み、いまも変わらない自然への感謝のこころを受け継ごうとする。
こんな素晴らしい校歌を、私はほかに知らない。

最近、アニメソングのようなキラキラした軽薄な歌詞の校歌が甲子園に流れることがある。
その高校の生徒には悪いが、あの類のものを校歌にしてしまう大人たちが情けなく恥ずかしい。
ものごとの価値や区別がわからぬ、幼稚で無粋な日本人がここまで増えたかと悲しくなる。

***

最後の句「やがて来む 文化の黎明(あさけ)」とはなんのことだろう。
私には作詞の近藤忠義氏の思いが透けてみえる。

「今の日本人は物質とお金ばかり追いかけて、本当に大切なことを忘れている。
だがいつか、それが反省されるときがくる。そして本当の文化が花咲く世の中がくる。
だから我々は風潮に迷わされずに、物事の本質を求め、大自然の愛に感謝する農業の道を進もう」

そんな思いが込められた歌い終わりの部分のように思えてならない。

そしてこの校歌の素晴らしさは、何といっても楽曲のよさでもあろう。
作曲の岡野貞一氏は、戦前の東京音楽学校(現東京芸大)で教授をされた方である。
「春の小川」「朧月夜」「故郷(ふるさと)」など誰もが知る唱歌を作曲したほか、
日露戦争を歌った「水師営の会見」も岡野氏の手になる曲である。

金足農の校歌の旋律には、地に足のついた雄々しい時代の日本人の精神が宿っている。
それが美しい文語の韻律と美事に結びつき、長く我々の心に残る名曲を産み出したのだろう。

この素晴らしい校歌を歌える生徒たちは幸せ者だと、つくづく思う。

(前編 おわり)

「個」の虚構との訣別を

「孤独な群集」

あれは高校一年の夏だったか。美術の授業でポスターを作る課題が出された。
幾つか決められたテーマの中から、私はなぜか「孤独な群集」を選んだ。
十六歳の少年に社会的な問題意識があったのではない。
ただ思索的で意味の深いテーマ性に何となく惹かれたのである。

赤いダルマを縦横にずらりと並べ、その中に一つだけ横に転んだダルマを描いた。
先生は褒めてくださったが、転んだダルマは現代社会に溶け込めない今の私の姿と重なる。
少年の私は、無意識のうちに早くも人生の闇路を予感していたのかもしれない。

昭和六十年の日本社会はすでに「孤独な群集」の腐臭を漂わせていたのだろう。
公民教科書には現代社会の病として「三無主義」という言葉が登場していた。
「無気力・無感動・無関心」が人々の心を蝕んでいるという問題は、すでに教科書にも載っていたのである。

あれから三十年経った。日本人の「三無主義」は悪化の一途を辿っているようだ。

メディアはスキャンダルや茶番ばかりで、人々は公への真面目な関心を維持できない。
そして蓄財や享楽・生活の利便といった、狭い視点しか持てなくなっている。

不安と猜疑心が先に立ち、すぐに細かい損得勘定をするミミッチい習性がついてしまったり、
退屈なため息ばかりで、のびやかな活力やこころの柔軟さは忘れ去られているようだ。

「人付き合いも面倒だし、気ままにスマホとAIと犬を相手に暮らせれば、他はどうでもいい・・」
そんな投げやりで萎んだ了見が、静かに人々の心に染みて来ているような気がする。

道北の大河・天塩川

「個の確立」という妄想

いまだに「国家は庶民の敵だ」「国家は個人を抑圧する」という感覚がしぶとく蔓延している。
国や公の要請に従わない「個」の確立が人類の普遍的な価値だという人が、まだいる。
マスメディア、学者や文化人、一部の教育関係者たちにその傾向が強い。
およそ現実とかけ離れた、机上の妄想が数十年間も続いている。

さて、何物にも縛られぬ自由な個人__そんな人間は古今東西、実在しない。
現実の人間は必ず何らかの共同体に居場所をもち、その規範に縛られている。
またそのおかげで、安定した自己をもって健全に生きていられる。
これが世の常識であろう。
それなのに、共同体や国家に忠誠心をもつ「個人」が語られることはない。

かように偏った「個我」にとらわれて、我らは所属不明の孤独で不安定な群集に陥っている。
この状態は人間として不自然で、一刻も早く克服されなければならない。
だが_漫然と生きていても、虚しい毎日の反復から脱することはできない。

だから、私たちはもう一度、己の命について静かに謙虚に考え直すべきだと思う。

我々の肉体は、両親から生まれた。
しかし、私たちの心臓を動かして生かしている力は、両親が作り出したわけではない。
いったいどこからきたのだろう?

「吾が心を 吾が心と思はず」

江戸時代の垂加神道家・若林強斎はこう言っている。

「神道の大事は、吾が心を吾が心と思わず、天神アマツカミの賜物ぢゃと思うが、ココが、大事ぞ、
そう思いなすではない、真実にそれ。
こう云うことを寝ても覚めても大事にするよりない。
是程の宝物頂戴して居りながら井戸茶碗程にも思わぬは、うろたえぞ。」

私たちの心、命は、自分のものであって、しかし自分のものではない・・
一見難しいが、考えてみれば誰も「心や生命」を創り出すことはできない。
天神の賜物とは、宇宙の摂理に頂いた命を、遠い遠い祖先からずっと繋いできたこと。
合理主義的な解説など不要な、信仰の真髄に触れる感覚がそこにはある。

肉体は滅ぶもの。だが魂は残って後世の人々の心に新たな関わりを生じ、ずっと続いてゆく。
そうした自然な信仰が、我ら日本人の生命観の根源をなしているのだと思う。

人の生は深くて永い。私の個我も、悠遠な大いなる生命の流れのごく一部に過ぎない。

「わが心が天神アマツカミの賜物であるとの確念は、わが生命が
一身の生死を超えて天地の永遠に参ずるということに外ならない」
(『神道大系』垂加神道 下 解題)__ 元金沢工業大学教授 近藤啓吾先生

エゾシカ姉妹

親の勝手な「個」の観念が子供を追い詰めていく

近代思想における「個人」は他者とは隔絶し、つねに自己の安全と利益を優先する。
それはすべての人間が有する「自然権」といい、弱肉強食が自然状態なのだとする。
そこに「契約」を定めることで、初めて人間の社会が成り立つのだそうである。
トマス・ホッブスが提唱した社会契約論は、そんなものだった。

だが我ら日本の先祖は、そんな弱肉強食の自然状態とは無縁であったろう。
縄文時代に大きな戦争がなかったことが、遺跡の発掘研究から明らかになってきている。
共同作業の稲作で栄えてきたわが国の由来、世界に珍しいほど温和な国民性からみてもわかる。

ところが、戦後日本の教育は、欧米の思想に心酔して、欧米人の視点でわが国の独自性や国柄を酷評し、軽視あるいは無視してきた。
そして日本民族は残虐で好戦的だとか、皇室への崇敬心を狂信的カルト宗教のように言い募る輩が大学教授になったりしている。
まるで「日本人が信じてきた歴史など、すべて誤りで、学ぶ価値もない」と言わんばかりである。

だから、戦後の子供たちは日本の神話を知らない。また天皇のことも全然知らない。
日本人でありながら、日本のことを全然知らないまま育っている。
こんなバカな教育をしている国は世界にない。

いま日本の子供が教え込まれるのは「自由」や「人権」「平等」などのいわゆる普遍的価値というものだ。
(これらは日本においては、あらゆるワガママを正当化するための呪文でしかない)
人として当たり前の義務や規則を、面倒で意味のない、避けるべきものとして片隅に追いやっている。
例えば日本国憲法には権利ばかり多く書かれて、義務はたった三つしか書かれていない。(納税・教育・労働。なぜか国防の義務はない)

甘やかされ思い上がり、人生の先達を尊敬することもなく、ただ体だけ大きくなる若者たちだが
遅かれ早かれ、彼らは現実社会との差に直面して、己の力量不足と無知に絶望して苦しむ。
こんなはずじゃ……と呟くが、今更教えを乞うべき先達もなく、自分を責めて卑しめるばかりで、うつ病になる。

昨今の「友達のような親」などは、とうてい人生の真剣な悩みに答えられるはずがない。
それに今の大人たちは自分の遊びや旅行に忙しい。墓参りはしないし、町内行事は無視する。
この自分勝手で幼稚な親の姿こそが、子供らを悲しく情けない思いにさせ、己を蔑ませる元凶なのだ。
成長するにつれて深まってゆく絶望感に、若くして人生を諦めている若者はさぞ多いだろう。

出口のない苦しみに疲れ、すべてに嫌気がさしたとき、ついに若い人生は破綻する。
自暴自棄の凶行、絶望からの自死、現実逃避の精神症が生じるのは、この時なのだ。

冷酷・狂気の犯罪者としてニュースに現れる若者の姿は、あまりに哀れである。
昔からいわれる「親の顔が見たい」の言葉は、今こそ声を大にして叫ばれるべきだ。
無垢な子供の魂が健全に導かれるか否かは、いつの世も親の自覚と努力に負っている。

一見スマートだが、底知れぬ虚無を心に抱えている日本の若者たちの危うい姿。
これがあの「三無主義」のたどり着いた最終段階なのだろうか。

先祖を裏切り、子孫を見捨てる現代日本人たち

かつて、2,700年練磨されてきた貴重な日本人の知恵と人生観があった。
それをたった一度「戦争に負けた」だけで全否定したことの愚かさは、言葉に尽くせない。
しかも、欧米崇拝の負け犬根性に駆られて、身丈に合わない制度を無理やり導入してきた。
こんな不自然にねじくれた社会で、次世代がまともに育つはずがない。
日々起こる理不尽で狂気じみた事件は、起こるべくして起きている悲劇なのだ。

残念だが、われわれ戦後日本人は、多かれ少なかれ卑怯な臆病者になってしまっている。
目先の利害しか見ずに、すべての祖先を忘却し裏切り、すべての子孫を見捨てている。
それを問題視しないメディアに流され、事態の恐ろしい本質に全く気がつかない群集。
彼らの鈍感さは、同じ日本人として本当に信じられないし、情けないの一言である。

全体(公)の中にある個(私)・・精神の均衡

国家を内側から破壊するにはどうするか?
信仰を禁じ、ウソの歴史を教えて国民の団結を壊す。
個人主義を吹き込んで公の意識を薄れさせ、バラバラにする。
欲望を煽る広告宣伝で風紀を堕落させ、国家と国民を借金漬けにする。
(住宅や車のローンも借金漬けの一例である。けっして他人事ではないのだ)
そして政治を金で縛って法律を変えさせ、伝統を絶やして国民意識を希薄化していく。

これがユダヤ式「3S政策」であり、我が国も戦前から相当やられてきている。
(3Sとはセックス、スクリーン(映画)、スポーツのことである)

スポーツは、大規模なビジネスにすることで、巨大利権の世界にシームレスにつながっている。
オリンピックはその代表だ。「柔道」はその道具に選ばれたために魂を汚され堕落した。
神事から娯楽に堕し、外人の稼ぎ場と化した相撲は、わが伝統破壊のもっとも顕著な例である。
先般、女も平等に土俵に上げろと騒いだ連中がいたが、可哀想に、完全に洗脳されている。

「個」という幻想にとらわれて、頭だけで考えた法制度を作ってきたために
我々日本人はいまやすっかり常識と現実がわからなくなっている。
つまり、鈍麻して幼稚化してしまっている。
「日本人は何を考えているのかわからない」と外国人に言われるはそのせいだ。
英語ができないとか、国際化が不十分だからではない。現実認識が幼いからである。
この現状は、戦前から日本破壊を企んできた共産主義者たちの狙い通りだろう。

「ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず」
この世に永遠不滅のものがないこともまた真実である。
不自然は矯められる(正される)宿命にある。

世代交代にしたがって、世界潮流もまた変わってきた。
個人主義やリベラル「進歩派」が大きな顔をする時代は終わった。

先日、国民民主党の前原氏が「リベラル右派」を誇らかに自称したが、時代錯誤も甚だしい。
彼もまた国家覆滅を図る左翼革命家の一味だったのか__いやいや…そんなタマではないか。

これからの世界は、リアリティのある誠実さ、光と影の両方を語る勇気、真実を見抜く眼力、が求められていく。
くだらない言葉狩りに狂奔して「セクハラ・差別」糾弾商売をしてきた偽善者たちは、もう居場所がなくなる。
具眼の士には、リベラル思想など顧みる価値もないのだ。
2017年米国にトランプ大統領が誕生したのを機に、世界は健全化にむかって舵を切ったといえよう。
何年かかろうが、不自然は矯められるものなのだ。

私たちは均衡ある精神を保ち、ばら撒かれたキレイゴトのウソを見抜いて洗浄していこう。
長く待たれた時代がやってきた。米国の変身によって、その条件が急速に整ってきている。
我々自身が、これまでの惰性を改めて、偽善を撃ち壊す気概を持つことが求められている。(終)

憲法記念日に思う(保守派への大疑問)

◆5月3日を祝日としていいのか?

5月3日はいわゆる「憲法」記念日。休みでもこの日だけは素直に喜べません。

なし崩し的に、とうとう71年目を迎えてしまったGHQ製の「日本国憲法」!
この占領基本法の施行日である1947年の5月3日を記念する日なのですから・・

正直言えば、私たちは「憲法」を守ってきたという自覚はなく、無視してきた、つまり無関心だったというのが実態ではないでしょうか。

しかし無関心でも法治国家体制である以上、すべての法律がこの「憲法」に土台をおいています。
我々が無視(放置)しても、我々自身の生活が根本から影響を受けてきたことも事実なのです。

つまり「無関心」ではいられるが、「無関係」ではいられないということです。

「日本国憲法」が「敵国が占領中に作ったもの」だということは、今や多くの知るところでありますが、その内容と目的が「日本人を愚民化して支配する」ことにあり、そのための条文が多く盛られていることを、どれだけの方がご存知でしょうか。

あの戦争のあと「連合国や占領軍は、悪い軍国日本を(民主主義の)よい国にしようとしたのだ」と誰かが言い出しました。
こんな一方的で独善的な宣伝を信じるものは、当時の日本人には誰もいませんでした。
しかし占領が続き、その後も平和が続くと、みんな日常に溶け込んで戦争のことを忘れて「これでいいのだ」となってしまったのです。
ついこの前の戦いに散った同胞の思いをあっけなく忘れて、敵の言い分を受け入れてしまったのです。
みんなで一斉に、無数の日本の祖先を裏切って、只今の権勢を誇る連合国に寝返ったのです。

◆ 「日本国憲法」の罪状

私は、戦前の日本はまともな国家だったと思います。国際政治面の未熟さは否めませんが、少なくとも国民の常識と倫理は極めて強く健全でした。

今の日本は頭のおかしい国家になったと思います。国際政治はますます盲になり、さらに私たち国民が公への責任感も見識も失い、ただひたすら、個人的なモノとカネに夢中という有様です。

この状態をいまだに「良い世の中だ」と擁護し続ける人々は、心と目の病気だと思います。
私たちの現実認識を歪め、日本を内外からボロボロにしてきた元凶が「日本国憲法」なのです。

では私なりに「日本国憲法」が日本人をダメにした点を思いつくままに列挙してみましょう。
少々表現が過激になる点は、危機意識と公憤の強さの表れと思し召して、ご容赦ください。

「平和を希求する国際社会」(前文)
非現実的な嘘八百。外国に対する正当な警戒心すら持てなくなって、わが国は外国勢力に蚕食され続けてきました。しかも現政権は外国人移民をどんどん入れようとしています。亡国の危機です!

「戦争放棄、戦力不保持」(9条)
言わずと知れた、日米安保条約とセットで「アメリカに日本国民の命を丸投げ」する条文です。
すべての日本人を無能力者扱いする、許し難く恥ずかしい条文です。無責任にもほどがあります!

「政教分離」(20条)
日本人の伝統に基づく公的な価値観(皇室信仰)を否定しました。共同体の心軸を失って人心は萎縮し倫理は乱れ、国民生活全体が漂流し衰弱しています。宗教否定は共産革命の常套手段です。

「婚姻は両性の同意のみに基づき成立する」(24条)
個人と家族共同体の関係性を無視して安易で無責任な結婚を奨励することになり、離婚も急増。
家庭崩壊、躾の消滅、子育ての無知と困難は少子化につながり、社会の基盤が揺らいでいます。

「最低限の生活を営む権利を有する」(25条)
個人の権利意識を鼓吹して自立精神を希薄にし、社会に甘える怠惰な風潮を増大させました。(現今の生活保護制度の悪用の実態を見よ!)これも国家を破壊する共産主義思想です。

「労働者の権利」を強調する条文
家族的な信頼関係に基づく日本の伝統的な会社組織に、本来なかった労使の対立を持ち込んだ。
ストライキや裁判沙汰が増大、働くことの意義が誤解されてきました。(労働は苦役・罰であるというユダヤ基督教的な労働観の影響)今、勤勉で真面目な日本人の美点が損なわれつつあります。

「憲法改正への理不尽に高いハードル」(96条)
事実上、改憲を不可能にする内容です。未来永劫、日本人を自立させないための束縛条項です。

この他にもたくさん、日本人を日本人でないものに作り変えるための数々の工作が盛り込まれています。
読めばわかります。「日本国憲法」は「日本ハ外国ノ植民地デス」という宣言文書なのだということが。
「憲法を変えると戦争になる」と叫ぶ人たちの短絡的な無思考ぶりは理解に苦しみますが、彼らは要するに戦後の占領体制下に順応して甘い汁を吸ってきた連中と、そのシンパということでしょう。自己保身のために、真実を捨て去り、考えることをやめた人たちなのです。

私は、良識ある日本人ならば「5月3日」に国旗を掲揚してはならないと強く思います。

◆本日の見聞録:「日本会議」が陥った倒錯

今日は日本会議富士支部主催の「憲法講演会」に参加してきました。来場者は300人くらいかなと思います。

有名なジャーナリストの櫻井よしこ氏や、安倍晋三総理のビデオメッセージが流されたあとで、
メインの講師には衆議院議員の杉田水脈さんが登壇、憲法改正を中心に女性の目線での講演をされました。
関係者の方々のお骨折りには頭の下がる想いです。

私は10年来の日本会議の会員です。壊れていく日本を少しでも立て直したいという思いを抱いて、
志を共にする仲間を求めて、この組織に入会しています。しかし・・

私は、日本会議は昨年の春頃から何だかおかしくなったと感じているのです。
それは彼らが支持する「憲法改正」について、その内容の激しい変化ぶりに現れています。

最初は自主憲法制定が目標だったのに、やがて「憲法96条(改正要件)の改正」、そして「9条に絞った改憲」そして「9条に3項を加える改憲」という形で、どんどん後退していき、
ついには自衛隊を現状のまま憲法に書き込め!、という内容に変わってしまったのです。

ちなみにこの「3項加憲論」は安倍内閣の主張であり(現在3項ではなく2項ノ2と言っているようですが)、日本会議はこれを全面的に支持している様です。

◆「憲法9条1、2項を残したまま第3項を加える」?

第9条の第2項は「(略)陸海空の戦力はこれを保持しない、国の交戦権はこれを認めない」ですが、自民党案ではこの条項をそのまま残すのだそうです。

そのうえで第3項に自衛隊を明記するというのですが、どうですか?こんな欺瞞がありますか?
誰がみても、2項の戦力不保持と3項は完全に矛盾しますね。自衛隊は戦力ではないとでもいうのでしょうか?また余計な紛糾が起きることは火を見るより明らかです。

私のみならず、相当多くの方がこの案に強い違和感を覚えると思います。
また同時に、この案を強引に推し進める自民党、そして支持する日本会議の姿勢にも「疑義」を抱くようになるのではないか。

一番おかしい点は、自衛隊をそのまま憲法に書き込んでも、何ら現状の問題解決にはならないことを完全に無視していることです。
今の自衛隊は、警察権しか持たないので、危険に際しても自分から武力攻撃はできないのです。
実際ソマリアやイラクでは「憲法」の制約で武器が使用できず、自衛官は命の危険にさらされていたのです。
国際法で認められた軍隊であれば、そんな問題は皆無なのですが、日本だけが世界の常識に外れています。

国軍ではなく「自衛隊」を3項に書き込もうとする真意は何なのでしょうか。実に奇怪です。
2項を削ることに公明党が反対するからだとも聞きましたが、この大事をそんなことで決めてよいのでしょうか。

◆戦わずして後退を続けて、結局はアリバイ作りに終わるのか

ヴィデオの中で櫻井よしこ氏は優しく、噛んで含めるように視聴者に訴えます。

「今は戦後初めての改憲のチャンスなんです。国際社会は大きく変化しています。もう時間がありません。」
「改憲しないことで喜ぶのは中国やロシアです。この際、2項は残しても仕方ない。今は1ミリでも2ミリでも、とにかく動かすことが大事なんです」
「あとは、次世代、そのまた次世代に頑張って働いてもらいましょう」

私はこれを聞いて「何という不見識、なんという無責任!」と呟きました。

櫻井よしこ氏は、尚も優しく、噛んで含めるように語りかけます。
「1ミリでも改憲することで、『憲法は変えていいんだ』ということを国民に知らせることが大事なんです」と。(櫻井さん、国民は幼稚園児ですか?)

つまり「内容は不問だ、何よりも「変えた」という実績が大事だ」というわけですから、語るに落ちたという感じすらしました。
そんないい加減な改憲はするべきではない。国民を舐めているのだろうかと。

この案では自衛隊は半永久的に「戦えない戦力」として正式に憲法に刻まれてしまいます。しかも今度はわれわれ日本人自身の手で!
そんな取り返しのつかないことをして、あとは次世代に働いてもらいましょうだなんて、よく言えるなあと心底呆れました。
ところで、こんな無意味な改憲をして喜ぶのは誰でしょう?もちろん中国ですね!

◆「自称保守」たちの国民不信が暴走を始めている?

衆議院議員の杉田水脈さんまで壇上で叫びました。
「今が最後のチャンスなんです、これを逃したら今後また70年間、改憲はできません!」
だから9条2項がそのままでも仕方ない、悔しいけど仕方ない、3項に自衛隊を書きましょう!というのです。

本当に悔しいなら、議員辞職をかけて訴えるべき大問題だと思いますが・・
それに「今できなければ今後70年ダメ」という根拠は何なのでしょうか?

「決めるのは私たち国民です、みんな賢くなりましょう!」(櫻井よしこ氏)
ああ、賢い国民なら、この「加憲」論こそダメだ!と考えるだろうと思いました。

私の直感はこう叫んでいます。
「本筋を大幅に捻じ曲げて、国民を騙すようなことをして、なぜそこまで改憲の「実績」が欲しいのか?・・誰かに命令されているのか?(またウォール街の銀行家たちか?)目を覚ませ、国民に率直に言うべきときだ、安倍首相と同志の方々よ」と。

明らかに日本会議の面々や自民党議員たちは、国民を信用していないのだなと感じました。
というのも、杉田水脈さんがはっきりとこう仰ったからです。

2項を残す理由は、国民投票で否決されるのが目に見えているからです

つまり今の国民はみんな左翼メディアに洗脳されているから、憲法を改正すると戦争になって子供達が死ぬと思っている。だから国民投票で絶対に負けるだろう、というのですね。
でもこれは「国民の意識を変える」という意思を初めから欠き、現状に完全屈服した劣位戦思考そのものでしょう。
(ちなみに「改憲=戦争」という短絡思考ならば、2項を残そうが削ろうが同じではないか?)

◆焦って崖下に落ちるなかれ、今は状況を見定めよ

櫻井さんの仰る通り、国際情勢は大きく変わってきています。
しかしそれは、彼女の言うような危機ではなく、むしろ日本にとって好条件になってきているのです。
元ウクライナ兼モルドバ大使の馬渕睦夫氏の見方が、私には腑に落ちます。

「グローバリズム推進の既存勢力は退潮しつつあり、今後は国家中心のナショナリズム時代がくる。今はその過渡期である。
米国のトランプ大統領の登場はその象徴だ。彼は日本は日本ファーストでやれと言っている。
これまで日本を抑圧してきた「戦後体制派」は退潮していき、今後は各国が自立する時代がくる」

つまり今後は今までとまったく違う世界になっていく、という馬渕先生の見方に私は強く同感します。
トランプ登場がなぜ世界を激震させたのか、それを考えることで、いま世界が大きな転換点にあることがわかるはずです。
英国はやがてEUを離脱します。ドイツもフランスも、イタリアもオーストリアも愛国的な政党が躍進しつつあります。
軍産複合体の「打ち出の小槌」だった南北朝鮮の対立構造も終わりです。世界をテロ戦争の恐怖で縛ってきたグローバリズム(金融資本支配)は、ついに終わるのです。
そして日本人は今度こそ、堂々と日本のために考え、ものを言えるようになります。
自らを卑下し、縛りつけてきた腐った敗戦国根性とは永遠にサヨナラです。

この視点は、従来流布されてきた世界観を見直し、ユダヤ人と国際金融資本に関わる歴史の実像を学びなおすことで得られます。
私にそれを教えてくれたのが、先述の馬渕睦夫元外交官の高いご見識との出会いでした。

残念ですが保守派国会議員の先生方はトランプ以前の世界の枠組みに囚われており、
世界で今まさに起きている大変動の本質を見ていない(見えない)のだと思われます。
従来の視点論点を一歩も出ずに、国民が世代交代に伴って覚醒に向かっている現実にも気付かず、
ただ「今しかない、時間がない」と今までの調子で焦っている。
自分たちが憲法を変える、そのことが第一目的になってしまったように見受けられるのです。

世界は大きく変わります。それは国際金融資本の支配力がトランプによって縮小したからです。
その結果、中共も北朝鮮も後ろ盾の力を失い、日本を取り巻く安全保障情勢が変わります。
現に今年、北朝鮮は一気に非核化へ動き出しました。中国は米国に貿易交渉で膝を屈しています。

こうした中、拙速に中身のない改憲を無理に行って次世代に重大な迷惑をかけることも敢えてするなら、もはや実績どころか恥の上塗りでしかありません。本当にそれでいいのですかと聞きたい。

今は腰を据えて、世界のこれまでと今後を腑に落とした上で、日本にとって最善の道を慎重に選ぶ姿勢が必要なのではないでしょうか。
これは私たち日本人の、生き方の根幹となるべき憲法をどうするかという話なんですから。

最後に一番言いたいことを述べます。改憲を叫ぶ前にするべき一番大事なこと。

安易に「国民はメディアに洗脳されて無知だから・・」という前に、安倍総理、自民党議員よ。
あなた方は一体、一度でも正面から日本の現状を国民に説明して、真剣に訴えたことがあるのか?と。
いつだってマスコミを恐れて腰の引けたことしか言わず、口裏を合わせて先送りばかりしてきたではないか、と。

首相が言えないなら、保守の議員先生方は国民の洗脳を解くために、議員バッヂを賭して占領憲法に関する真実を熱く語り、お茶の間に直接知らせてほしい。
選挙で選ばれた者として、卑劣で姑息なマスコミと堂々と戦う勇気と尊厳を見せてくれ、と切に願います。

そして櫻井さん、我々国民は真実を知ればちゃんと考えられるのですよ、と申し上げておきます。

(終)

久々に更新です

思うところがあり暫く別の作業に没頭して、本来の撮影活動が停滞しておりましたが、
春も過ぎて夏に向かうこの時期、富士山麓で活動を始めました。
手探りで続けるうちにいろいろ見えてくると思います。

🔹富士山麓

昨日行ったのは富士山スカイラインの「西臼塚」の森。
時間が遅かったためか人影もなく、夕方の光に輝く木々の若葉がゆるやかな風に揺れていました。
降るような小鳥たちのさえずりです。森は生命に満ち溢れています。
小道をゆくと、注連縄に囲まれたご神木のミズナラが静かに鎮座していました。
我々の信仰心の原点、豊かな自然に育まれた日本人の素朴な感謝が、そこに黙然と在りました。

北海道の森は森閑たる神秘的な雰囲気で、その原始性を私は愛してやみません。
それに比べて、富士山麓の森には人の匂いを感じます。
それは親しい身近な存在としての森を感じさせ、北の森とはまた違う新しい感覚がありました。
山川草木にカミを感じ、その宿る神霊を信じて大切に守ってきたわが祖先たちを思います。
森は樹木の群れであるけれど、その存在の由来を静かに辿れば、宇宙を一貫する大きな生命に行き着く。
我ら人の営みもまた、その大生命の局所的な現れに過ぎない、そんな大きな思いに至るのです。

🔹祖先から受け継ぐ日本の信仰心

私は日本の信仰たる神道のこころ、古事記の世界にとても惹かれます。
何といいましょうか・・・
日々見聞きする言説、次々現れる新技術や商品の話題、国際金融とグローバル化。
みんな金銭がらみの、人間ご都合主義の作り物、胡散臭くて嫌気がさします。
そんな臭いものに囲まれて息詰まるなか、遠い昔の日本神話や神道の考え方は実に開放的で魅力的です。

天照大神あまてらすおおみかみを始め、八百万やおよろずのカミ様たちは私たちと同じく悩みもし、時に過ちも犯すご存在です。
それもそのはず、私たちはみな「天の益人あめのますひと」といってカミの子孫で、八百万の神様は私たちのご先祖なのです。
だから私たちの心は本来神性をもち素直で清らかに出来ています。それが現世的欲望に引張られて離れる異心ことごころが出る。その異心を祓い清め、本来の「清く明けき心」に還る、それが祓いなのです。

本居宣長は『古事記伝』第三巻で次のように日本の古代の「カミ」を解釈しています。

すべ迦微カミとは古御典等いにしえのみふみどもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に御霊みたまをも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣とりけもの木草のたぐひ、海山など、其余何そのほかなににまれ、尋常よのつねならずすぐれたることのありて、可畏かしこき物を迦微カミとは云ふなり」

つまり人はもちろんのこと、自然界の鳥や獣、木や草、海や山など、善悪に関係なく、尋常ならざる力を持っているものは、みんな畏れ多きカミとして敬ったのです。

日本の「カミ」観は実におおらかで、自然界に生きる人間の真理を語っていると感じます。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の絶対的一神教と根本的に違い、そこに人為的な約束事は一切ありません。
日本人の信仰は祖先崇敬の素朴な心で、信仰の根源に最も近いのではないかと思えるのです。
だから「これこそホンモノだ」と、心の奥の奥、いわば魂の次元でしっくり噛み合う感触があるのです。

私自身、幼い頃から古いものに憧れたり、現代的な科学合理主義に強い違和感を持ってきました。
それは日本人のDNA、いにしえをカミと敬う大きな宇宙観に発しているのだと思います。

🔹取り戻そう、日本の素直な清い心を

明治以前の日本は、安定し充実した日本の伝統に抱かれて、本当に自然な形で発展してきたと思います。
しかし西洋一神教文明との接触以来、その自然さは混乱し中断され、素直な心が霞の向う側に隠れてしまった。

明治以来、文明開化だ、進歩主義だと突き進んできたこの150年の間、己を見失った不自然が積み重ねられた末に、肥大化した我欲に囚われて、利便性の追求という単純な物質偏重に落ち込んでしまったように思えてなりません。

明治は西洋文明との衝突から始まりました。その不可抗力性と不運を理解した上で敢えて言いますが、この150年の経験は日本民族にとって大きな災厄であり試練でした。西欧との出会いは私たちの精神を混乱させ、欺き、絶望させ、遂には叩きのめしました。
明治史を彩る大日本帝国の華やかさと雄々しい活躍ぶりの中に、どこか哀しい調べがあるのは、裏を返せば、西欧による侵略攻勢の大なるに脅かされた、我らの先輩たちの命をかけた必死の戦いの絵巻だったからだと思います。
世界が拡大してゆく中で、ある意味必然的な流れがあったとはいえ、あまりに悲劇的な運命でした。
大東亜戦争は、日本を計画的に破滅させようと追い詰める悪意ある欧米列強に対し、我が国民が見せた全力の反撃でした。

敗戦後の日本は欧米金融勢力に屈服し、自らを小さく見せることでお叱りを受けないようにする臆病な子供のように哀れです。

そうした悲劇の歴史事実を率直にみつめ、正しい自己認識のもとに日本は出直すべき時だと、私は強く思うのです。
古い殻は、いつかは脱ぎ去らねばなりません。
それは決して「戦前に還れ」などという視野の狭い話ではありません。
私は「明治以前に還れ」といいたい。それくらいの精神的な大転換がいま求められていると思います。
米国、欧州を始め世界的に戦後秩序の再編が始まっている今こそ、日本も覚醒して再出発しなければならないのです。
そのことは、また稿を改めて論じたいと思います。

🔹この春の桜の回想

毎年見ていたのは、北海道神宮の境内や、函館五稜郭公園の桜たち。
静岡に移った今年はどこがいいだろう?なんだか気が乗らないままグズグズしていると
今年は開花が遅いと油断しているうち、あっという間に咲いて、雨ですぐ散ってしまいました。

諦めたあとで偶然出会う「残り桜」はひとしお嬉しいものです。
四月末に二度目の伊勢参宮を果し、立ち寄った三重県の美杉村で「三多気の桜」に出会いました。


またあちこちの見聞を記したいと思います。
今回はここまで。ありがとうございました。

新年のご挨拶 平成29年=皇紀2677年=西暦2017年

初日の出

あけましておめでとうございます。
みなさまにはよいお正月を迎えられたこととお慶び申し上げます。
しかし突然の自然災害や年の瀬の大火事で、思いもよらず苦しい状況の中で
新年を迎えられた方々のことを思うと、人の世の無常、定めというものの非情を感じて
まさに他人事ではなく身が引き締まります。

***  ***

昨年は個人的にも大きな転機の年となりました。
21年住んだ札幌を離れて、静岡県の富士山麓に参りました。

仕事の面では昨夏北海道を襲った4つの台風で撮影活動の場所を大きく失ったこと、
私的事情では親類縁者が高齢になる中、故郷への思いが強まっていたこと。
日本の将来について危機感が高まるなかで、自身の新しい出会いを欲していたこと。
それらを総合的に考え、今が転機と決断したうえの転居でした。
まずは早くこちらの生活に慣れて、活動を再開したいと思います。

新年の曙光に輝く

***  ***

「今年は激動の一年になるぞ」と、新年を迎えるたびに思っておりますが、
まさに世界の混乱は増す一方です。先行き不透明で前途多難の緊張感が満ちています。
かたやわが国のテレビ報道ときたら時代遅れでマト外れで、いったい何を見ているのかと。

情報が溢れている時代、その意味を自分の言葉で組み直して真偽を判断する力が必要ですが
手っ取り早く「検索」して得た他人の言葉を便利に使い回すことに慣れた頭には大変なこと。
情報を理解し判断する力の差は、そのまま現実認識の差となって、国論は常に分裂しています。

またテレビや新聞も本当に大事なことは報道しません。尖閣諸島の危険な実情も報道しません。
芸能人の麻薬とか、どうでもよい些事に我々の関心を向けさせようとします。
難しい世界情勢など一般国民は理解できないし、視聴率も取れないと考えているからでしょうか。

いつぞやある市議選候補者が、選挙を手伝っている私に雑談的に話してくれました。
「テレビ局の人間はみんな一般国民を馬鹿だと思っていて、程度に合わせた番組を作っていますよ」と。
彼自身がその業界出身だったのは笑えないオチですが、本当のことだろうと思いました。

***   ***

自分の命は長くても70〜80年です。でも日本の国と日本の民はずっとずっと続いて欲しい。
同じように願ってきた無数の祖先がいたからこそ、いまも日本は続いています。

現代の我々はその大切な祖先との約束がどんどん壊されていく只中を生きている。
伝統的な麗しい習慣は現代的に作り変えられ、言葉もじつに貧しく粗雑になりました。
長い歴史をもつ日本が今、根底から壊されて永遠に失われる危機に瀕していることを実感します。
それも国民がすっかり油断してノホホンと気付かない中で、静かに確実に進んでいる。
その首謀者は誰なのか。なぜ日本人はそれに気づかないのか。

“金を稼げば人生の勝利者、稼げなければ人生の敗北者”と言わんばかりの拝金主義社会です。
この流れを意図的に生み出して、世界を金漬けにして支配しようとしている勢力があります。
国際金融資本つまり国際銀行家たちです。彼らは金融を武器に各国の政治経済を冒し、その自主性を奪います。国民を「金持ち」と「貧乏」に分断して団結力を弱め、バラバラの個人を金で支配するのです。

金で国を買い叩かれ、国民を分断され、伝統文化を滅ぼされる苦しみを我々戦後の日本人はずっと味わってきました。誰と戦っているのか知らないまま、負け続けてきたのです。
本当の敵は、じつはアメリカや中国といった国家単位の政府ではなく、彼らを裏から金で操っている者たちなのだということを、この二年ほどで私は腑に落とすことができました。

我々の骨髄を腐らせ自壊させるのは結局は金と物への欲望であり、それを戦略的に流行らせているのは国際金融資本家たち、つまりグローバリスト推進派です。
私たちが金に対する卑しい心構えを恥じ、反省しないかぎり、彼らの侵略から日本を守ることはできないと思います。戦争は武力だけではないことを知らねばなりません。

真の国際的視野とは、自国のかけがえのなさを悟った人だけが持てるものだと思います。
国を失ったらどうなるか、その怖さや痛みを感じられる人は、他国民の痛みも分かるのです。
それが本当の国際人というもので、決して国際的なビジネスに長けた人のことではない。
私はそう思っております。

みんなで、2677年目を迎えた愛しい日本の国を守るために、自分の頭で考えていきましょう。
今年もよろしくお願いいたします。

(終)

富士の国から(耶蘇祭りの夜想)

秋頃にお知らせしました通り、このたび長年住み慣れた北海道を離れて
故郷静岡県の町に越してきました。
荷物整理もやっと一息つきまして、当ブログも再開と相成りました。
どうぞ引き続きよろしくお願い申し上げます。

***  ***

窓からは毎日富士山が大きく見えます。12月というのに日中の気温は12〜16℃もあって、
外出も薄いコートで済むのは新鮮な感覚です。温暖な土地に来たことが実感されます。
気候の変化に体がついていきません。朝晩はくしゃみばかりして、昼間は眠くてぼうっとして。
少しずつ慣れるものでしょうが、風邪は寒いからひくとは限らないなと感じます。
高校時代以来の静岡県民となり、人とのつながり作りからの再スタートですが
焦らずにやるべきことをやっていこうと思います。

***  ***

年が明けたら早速近隣の山を歩いてみたいのですが、私は静岡の山をほとんど知りません。
とりあえず昔買ったヤマケイのアルペンガイド南アルプス編を読みなおしています。
動物や野鳥たちのご機嫌伺い&足慣らしのため、まずは冬の低山で訓練ですね。
カメラを担いでいくのはもう少し先になりそうです。

【耶蘇(ヤソ)教祭りの大騒ぎにもの申す】

世の中はクリスマス一色でも、我が家では23日の天皇誕生日のお祝いが最も大切な日。
強風に負けず国旗も出した。青空に翻る(ほとんど飛ばされそうな)日の丸の美しさ。

私はX’mas「クリスマス」を日本語で「ヤソ(耶蘇)祭り」と呼んでいる。
キリスト教の聖夜祭なのだからそれが正しいといっても、残念ながら世間では通じない。

欧米人の習慣をむやみに導入したところで、しょせんうわべだけの借り物だ。
毎年12月に日本中で演じられるX’masの行事は巨大な消費と流通、それ以上でも以下でもない。
物事の意義や由来を無視して表面的な享楽だけをいいとこ取りする姿勢はいかがなものだろう。

たいていの人は「X’masは楽しいからいいじゃん」というだろう。また「GDP増に資する重要な経済行為だ」という人もあるかもしれない。だが行事の由来や意味が完全に没却されたら、そこには薄っぺらの、むなしい空っぽの疲れしか残らない。
メリークリスマス!と叫ぶ日本人は、いったい何をMerryと思い、何を祝っているのだろうか。

こうも思う。他国の宗教儀式を意味も考えずに真似することは、無責任で軽薄な仕業ではないか。
つまり真摯なキリスト教信者に対して侮辱行為ではないだろうか。ましてや商売の都合だけで。
何でも楽しければいいという軽い態度や、本来の深い意義を顧みない粗雑な感覚に、私は同意できない。

私の怒りとは無関係に、この馬鹿らしい風習もきっと100年後にはなくなっている気がする。時代も世界も変わる。西欧キリスト教文明の世界支配はせいぜいこの500年で、それももう終わろうとしている。
それまで待てないのは残念だが、耶蘇に迎合しない意思はしっかりと示しておきたい。

【平和ボケの悲劇&世間知らず日本、どこへゆく】

振り込め詐欺被害が報道されるたびに、またかという驚きと、なぜだという不審を禁じえない。
騙される人の中にある悪意への油断。虚実を判断する力の欠如。心の不安定さ。
そんな状態につけ込んで金を要求する巧言に動揺してしまい、痛い目に会うのだろう。
こんな油断と隙がお年寄りには多いのは、逆にいえば日本の幸せな国柄の証でもあるから皮肉だ。
なぜ、お年寄りが心に相当な武装を要するような、寒い世の中になったのか。

「国境や民族を超えて、誰もが地球規模で活躍するべき時代だ」とテレビで無邪気に話す「有識者」たちは国際化が生みだしている実生活での軋轢や弊害を「改革には痛みがつきものだ」と片付けて顧みない。こうした盲目的な国際化信仰がエリート層の見識の狭さと相まって、社会に実害を及ぼすこと実に大きなものがある。
年端もいかぬ全国の小学生がその大きな犠牲者だ。文科省は異議異論をすべて封じて、子供たちを早期英語教育の実験台に供した。

これは必ず大問題になる。すでに日本の家庭は崩壊寸前だ。
子供の機嫌をとる親には威厳も力もなく、自由の荒野に放り出された子は不安と恐怖からゲームや仮想空間に居場所を求めるしかない。社会全体が不安と臆病と自己不信のかたまりのような分厚い暗雲に包まれている感じだ。

このうえ家庭内に英語が入ってきたら親子はお手上げだ。何年かして全国で深刻な事態が顕われるだろうが、国際化信仰の文科省はシラをきるだろう。日本語と日本民族が地球上から消えていく、その第一幕を演出した罪を決して認めないだろう。
この恐ろしさに比べれば、ゆとり教育による学力低下などは全然他愛ないものだ。

また先般、全国の大学に対して「理系学生の育成を重視して、文系学部は削減せよ」という文科省通達もあった。この狂気の沙汰に、怒り嘆いているのは勿論私だけではないだろう。
科学技術の意義が人の生活向上に奉仕することなら、人間の死生観を深く考える哲学や宗教の素養こそが大前提である。土台をおざなりにして果実だけ効率よく得られると考える文科省官僚の頭は、ものの道理を弁えない幼児レベルの粗雑さだと思われてならない。

最高学府を出た人々が見せる無知と暴走が、我が国での「優秀さ」というものの無意味と危険性、有害性を証明している。
嗚呼!このような連中が国を導く立場に座っている。敗戦で正邪を180度ひっくり返されたままの戦後日本が悲しくてむなしい気持ちになる。
そういう思いが無気力を生み「今だけ金だけ自分だけ」の世を生み、振り込め詐欺の天国にもなるのだろうか。

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今日は12月25日、耶蘇祭りの日だ。我が家では「ケーキを食べる日」である。
デパートや大通りではモミの樹を飾り立てるのに懸命だ。毎年繰り返されるこの行事のむなしさは、戦後日本人の漂流と惚け面の本質をみごとに象徴している気がする。

敗戦で古来の国柄と心軸を投げ捨てた結果、目先の欲望と金の誘惑しか見えなくなった戦後日本の悲劇を静かに思う。
己の醜さをごまかさずに恥じることから始めなければならない。それがあの戦争の真の総括となり、これから進むべき正しい方向が初めて見えてくる。それは敗戦から続く自暴自棄と絶望の連鎖からの脱出、二千年のわが国史への素直な愛情と誇りの回復である。
敗戦を言い訳にして現状を看過する腐れ魂を一刀両断する、それが我々の再生へのただ一つの道であろう。

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札幌から静岡へ引っ越しても、私自身の視点、関心事はもちろん変わりません。
今後も我が美しき国土とそこに生きる命を見つめ、先人の国史と伝統の精華に思いを寄せつつ現代を生きる市井の一人としての憂国の思いを綴ってまいります。
どうぞ末長くご愛顧くださいますようお願い申し上げます。

トランプ大統領こそ日本の国益

戦後の日本のシステムを根底から見直すチャンスが来るのだろうか。

何十年もの間アメリカの理不尽な圧力と脅しに我ら国民の生活はどれほど不自然に歪められてきたことか。憲法の押し付けに始まり数々の法律を変えられ、企業の経営方法も労働観も変えられ、為替も強引に操作され、国語破壊、英語の押し付け、あらゆる文化基準を変えられ、今またTPPという勝手極まりない貿易条約を押し付けられそうになっている。

いや我が国だけではなく世界中の国民が「グローバリズム」というアメリカの原理の押し付けに苦しんできた。そんな中で祖国を金で売る連中だけが利益を享受する構造、素朴で誠実な一般国民はひたすら搾取される不幸な構造が世界中に蔓延してきた。

グローバリズムの侵略に対抗する戦いはイスラムや欧州だけの話ではない。日本が苦しんでいる経済の長期凋落や社会規範の溶解、絶望的閉塞感は、いま世界で起きている現実の戦いと常に密接に関連している現象だと考える。
国民生活より己の利益を優先して憚らない対米追従のTPP推進派の経団連や政治家たち。
彼らを見ているとグローバリストとは罪悪感なき売国奴だと改めて思う。

グローバリズム否定派のトランプ氏が大統領になるかもしれない。
世界の潮流はその方向にあるし、何よりアメリカ国民がそれを望んでいる。
グローバリズムは反省され、見直されようとしているのが世界の現実だ。

だが周回遅れの日本の要人たちの頭には理解も反省もない。
米国を相手にいかにこれまで通りに金儲けを続けるかが関心事であり続ける。
敗戦後の日本はそういう人間だけが出世するように作られている。

国益という言葉を未だにNHKが使わないのは、GHQの命令を忠実に守っているからだ。
70年前から日本は三流国家に落ちてゆくようにプログラムされていたわけである。
トランプ旋風の意義を全く報道できないメディアの低質さがその大成果だ。

ヒラリーは既存のユダヤ金融グローバリスト勢力に守られている。
トランプはそれを打ち破りたい米国の一般国民に支持されている。
「グローバリストの代表」VS「米一般国民の代表」
アメリカという国が今後続いていくかどうか、歴史的正念場であろう。
米国が正常化の道に踏み出すときが、わが日本も占領の首輪を外すときだ。