「個」の虚構との訣別を

「孤独な群集」

あれは高校一年の夏だったか。美術の授業でポスターを作る課題が出された。
幾つか決められたテーマの中から、私はなぜか「孤独な群集」を選んだ。
十六歳の少年に社会的な問題意識があったのではない。
ただ思索的で意味の深いテーマ性に何となく惹かれたのである。

赤いダルマを縦横にずらりと並べ、その中に一つだけ横に転んだダルマを描いた。
先生は褒めてくださったが、転んだダルマは現代社会に溶け込めない今の私の姿と重なる。
少年の私は、無意識のうちに早くも人生の闇路を予感していたのかもしれない。

昭和六十年の日本社会はすでに「孤独な群集」の腐臭を漂わせていたのだろう。
公民教科書には現代社会の病として「三無主義」という言葉が登場していた。
「無気力・無感動・無関心」が人々の心を蝕んでいるという問題は、すでに教科書にも載っていたのである。

あれから三十年経った。日本人の「三無主義」は悪化の一途を辿っているようだ。

メディアはスキャンダルや茶番ばかりで、人々は公への真面目な関心を維持できない。
そして蓄財や享楽・生活の利便といった、狭い視点しか持てなくなっている。

不安と猜疑心が先に立ち、すぐに細かい損得勘定をするミミッチい習性がついてしまったり、
退屈なため息ばかりで、のびやかな活力やこころの柔軟さは忘れ去られているようだ。

「人付き合いも面倒だし、気ままにスマホとAIと犬を相手に暮らせれば、他はどうでもいい・・」
そんな投げやりで萎んだ了見が、静かに人々の心に染みて来ているような気がする。

道北の大河・天塩川

「個の確立」という妄想

いまだに「国家は庶民の敵だ」「国家は個人を抑圧する」という感覚がしぶとく蔓延している。
国や公の要請に従わない「個」の確立が人類の普遍的な価値だという人が、まだいる。
マスメディア、学者や文化人、一部の教育関係者たちにその傾向が強い。
およそ現実とかけ離れた、机上の妄想が数十年間も続いている。

さて、何物にも縛られぬ自由な個人__そんな人間は古今東西、実在しない。
現実の人間は必ず何らかの共同体に居場所をもち、その規範に縛られている。
またそのおかげで、安定した自己をもって健全に生きていられる。
これが世の常識であろう。
それなのに、共同体や国家に忠誠心をもつ「個人」が語られることはない。

かように偏った「個我」にとらわれて、我らは所属不明の孤独で不安定な群集に陥っている。
この状態は人間として不自然で、一刻も早く克服されなければならない。
だが_漫然と生きていても、虚しい毎日の反復から脱することはできない。

だから、私たちはもう一度、己の命について静かに謙虚に考え直すべきだと思う。

我々の肉体は、両親から生まれた。
しかし、私たちの心臓を動かして生かしている力は、両親が作り出したわけではない。
いったいどこからきたのだろう?

「吾が心を 吾が心と思はず」

江戸時代の垂加神道家・若林強斎はこう言っている。

「神道の大事は、吾が心を吾が心と思わず、天神アマツカミの賜物ぢゃと思うが、ココが、大事ぞ、
そう思いなすではない、真実にそれ。
こう云うことを寝ても覚めても大事にするよりない。
是程の宝物頂戴して居りながら井戸茶碗程にも思わぬは、うろたえぞ。」

私たちの心、命は、自分のものであって、しかし自分のものではない・・
一見難しいが、考えてみれば誰も「心や生命」を創り出すことはできない。
天神の賜物とは、宇宙の摂理に頂いた命を、遠い遠い祖先からずっと繋いできたこと。
合理主義的な解説など不要な、信仰の真髄に触れる感覚がそこにはある。

肉体は滅ぶもの。だが魂は残って後世の人々の心に新たな関わりを生じ、ずっと続いてゆく。
そうした自然な信仰が、我ら日本人の生命観の根源をなしているのだと思う。

人の生は深くて永い。私の個我も、悠遠な大いなる生命の流れのごく一部に過ぎない。

「わが心が天神アマツカミの賜物であるとの確念は、わが生命が
一身の生死を超えて天地の永遠に参ずるということに外ならない」
(『神道大系』垂加神道 下 解題)__ 元金沢工業大学教授 近藤啓吾先生

エゾシカ姉妹

親の勝手な「個」の観念が子供を追い詰めていく

近代思想における「個人」は他者とは隔絶し、つねに自己の安全と利益を優先する。
それはすべての人間が有する「自然権」といい、弱肉強食が自然状態なのだとする。
そこに「契約」を定めることで、初めて人間の社会が成り立つのだそうである。
トマス・ホッブスが提唱した社会契約論は、そんなものだった。

だが我ら日本の先祖は、そんな弱肉強食の自然状態とは無縁であったろう。
縄文時代に大きな戦争がなかったことが、遺跡の発掘研究から明らかになってきている。
共同作業の稲作で栄えてきたわが国の由来、世界に珍しいほど温和な国民性からみてもわかる。

ところが、戦後日本の教育は、欧米の思想に心酔して、欧米人の視点でわが国の独自性や国柄を酷評し、軽視あるいは無視してきた。
そして日本民族は残虐で好戦的だとか、皇室への崇敬心を狂信的カルト宗教のように言い募る輩が大学教授になったりしている。
まるで「日本人が信じてきた歴史など、すべて誤りで、学ぶ価値もない」と言わんばかりである。

だから、戦後の子供たちは日本の神話を知らない。また天皇のことも全然知らない。
日本人でありながら、日本のことを全然知らないまま育っている。
こんなバカな教育をしている国は世界にない。

いま日本の子供が教え込まれるのは「自由」や「人権」「平等」などのいわゆる普遍的価値というものだ。
(これらは日本においては、あらゆるワガママを正当化するための呪文でしかない)
人として当たり前の義務や規則を、面倒で意味のない、避けるべきものとして片隅に追いやっている。
例えば日本国憲法には権利ばかり多く書かれて、義務はたった三つしか書かれていない。(納税・教育・労働。なぜか国防の義務はない)

甘やかされ思い上がり、人生の先達を尊敬することもなく、ただ体だけ大きくなる若者たちだが
遅かれ早かれ、彼らは現実社会との差に直面して、己の力量不足と無知に絶望して苦しむ。
こんなはずじゃ……と呟くが、今更教えを乞うべき先達もなく、自分を責めて卑しめるばかりで、うつ病になる。

昨今の「友達のような親」などは、とうてい人生の真剣な悩みに答えられるはずがない。
それに今の大人たちは自分の遊びや旅行に忙しい。墓参りはしないし、町内行事は無視する。
この自分勝手で幼稚な親の姿こそが、子供らを悲しく情けない思いにさせ、己を蔑ませる元凶なのだ。
成長するにつれて深まってゆく絶望感に、若くして人生を諦めている若者はさぞ多いだろう。

出口のない苦しみに疲れ、すべてに嫌気がさしたとき、ついに若い人生は破綻する。
自暴自棄の凶行、絶望からの自死、現実逃避の精神症が生じるのは、この時なのだ。

冷酷・狂気の犯罪者としてニュースに現れる若者の姿は、あまりに哀れである。
昔からいわれる「親の顔が見たい」の言葉は、今こそ声を大にして叫ばれるべきだ。
無垢な子供の魂が健全に導かれるか否かは、いつの世も親の自覚と努力に負っている。

一見スマートだが、底知れぬ虚無を心に抱えている日本の若者たちの危うい姿。
これがあの「三無主義」のたどり着いた最終段階なのだろうか。

先祖を裏切り、子孫を見捨てる現代日本人たち

かつて、2,700年練磨されてきた貴重な日本人の知恵と人生観があった。
それをたった一度「戦争に負けた」だけで全否定したことの愚かさは、言葉に尽くせない。
しかも、欧米崇拝の負け犬根性に駆られて、身丈に合わない制度を無理やり導入してきた。
こんな不自然にねじくれた社会で、次世代がまともに育つはずがない。
日々起こる理不尽で狂気じみた事件は、起こるべくして起きている悲劇なのだ。

残念だが、われわれ戦後日本人は、多かれ少なかれ卑怯な臆病者になってしまっている。
目先の利害しか見ずに、すべての祖先を忘却し裏切り、すべての子孫を見捨てている。
それを問題視しないメディアに流され、事態の恐ろしい本質に全く気がつかない群集。
彼らの鈍感さは、同じ日本人として本当に信じられないし、情けないの一言である。

全体(公)の中にある個(私)・・精神の均衡

国家を内側から破壊するにはどうするか?
信仰を禁じ、ウソの歴史を教えて国民の団結を壊す。
個人主義を吹き込んで公の意識を薄れさせ、バラバラにする。
欲望を煽る広告宣伝で風紀を堕落させ、国家と国民を借金漬けにする。
(住宅や車のローンも借金漬けの一例である。けっして他人事ではないのだ)
そして政治を金で縛って法律を変えさせ、伝統を絶やして国民意識を希薄化していく。

これがユダヤ式「3S政策」であり、我が国も戦前から相当やられてきている。
(3Sとはセックス、スクリーン(映画)、スポーツのことである)

スポーツは、大規模なビジネスにすることで、巨大利権の世界にシームレスにつながっている。
オリンピックはその代表だ。「柔道」はその道具に選ばれたために魂を汚され堕落した。
神事から娯楽に堕し、外人の稼ぎ場と化した相撲は、わが伝統破壊のもっとも顕著な例である。
先般、女も平等に土俵に上げろと騒いだ連中がいたが、可哀想に、完全に洗脳されている。

「個」という幻想にとらわれて、頭だけで考えた法制度を作ってきたために
我々日本人はいまやすっかり常識と現実がわからなくなっている。
つまり、鈍麻して幼稚化してしまっている。
「日本人は何を考えているのかわからない」と外国人に言われるはそのせいだ。
英語ができないとか、国際化が不十分だからではない。現実認識が幼いからである。
この現状は、戦前から日本破壊を企んできた共産主義者たちの狙い通りだろう。

「ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず」
この世に永遠不滅のものがないこともまた真実である。
不自然は矯められる(正される)宿命にある。

世代交代にしたがって、世界潮流もまた変わってきた。
個人主義やリベラル「進歩派」が大きな顔をする時代は終わった。

先日、国民民主党の前原氏が「リベラル右派」を誇らかに自称したが、時代錯誤も甚だしい。
彼もまた国家覆滅を図る左翼革命家の一味だったのか__いやいや…そんなタマではないか。

これからの世界は、リアリティのある誠実さ、光と影の両方を語る勇気、真実を見抜く眼力、が求められていく。
くだらない言葉狩りに狂奔して「セクハラ・差別」糾弾商売をしてきた偽善者たちは、もう居場所がなくなる。
具眼の士には、リベラル思想など顧みる価値もないのだ。
2017年米国にトランプ大統領が誕生したのを機に、世界は健全化にむかって舵を切ったといえよう。
何年かかろうが、不自然は矯められるものなのだ。

私たちは均衡ある精神を保ち、ばら撒かれたキレイゴトのウソを見抜いて洗浄していこう。
長く待たれた時代がやってきた。米国の変身によって、その条件が急速に整ってきている。
我々自身が、これまでの惰性を改めて、偽善を撃ち壊す気概を持つことが求められている。(終)

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