日々の思い」カテゴリーアーカイブ

新元号発表寸前の思い・・不安と希望

四月一日、いま午前10時50分である。あと40分で、次の御世の元号が発表されるのである。

胸に渦巻く不安が高まる。変な元号にされたらどうなる?
「有識者」たちが絞り込んだという5つの案から、決められるらしい。
あの、女性宮家という「皇室破壊工作」を推進する勢力が占める「有識者」たちなのだろうか。
日本の国柄とご皇室の歴史を無視して、己の思想的好みを勝手な理屈で押し通そうとしてきた、あの「有識者」たちが、今回も決めているのだろうか。
私は どんどん胸の中に不安が高まっている。

新しい元号は、これから何十年か、私たち日本人の生活に密着する重大なものである。
これがもし、左翼リベラル思想に冒された連中の頭で 作られたら、どうなるのか。

国民がそっぽを向くような、あまり使いたくないような、言葉だったら?
国民に「何か嫌だな」「あまり使いたくないな」と元号を縁遠く感じさせれば しめたもの。
いずれ元号を廃止して西暦に統一するように持っていこう、そう考えている者たちがいるだろう。
それらが、「有識者」たちを主導している可能性も否定できない。
女性宮家をめぐる謀略や、皇室を貶めるマスコミ報道を許容し、歴史上存在しない皇嗣殿下というものを国民の知らないうちに勝手に作ってしまった連中だ。
ご皇室を、好き勝手に造り変えようとする者たちが、なぜか「有識者」と呼ばれている。

今回の元号の決め方に、陛下やご皇族の方々の意見は取り入れられているのか?・・
マスコミの記事で見る限り「有識者」が絞り込んで官邸が決める、という流れのようである。

もうあと13分で、発表だ。何をか言わんや・・祈るしかできない。祈るのみである。
日本の神様、ご先祖さま、どうかまともな元号になりますように。
日本国民が自国の歴史と伝統に誇りを感じられる、よい元号になりますように。
きちんと、伝統を守って古典籍からの引用でありますように。
現代的なキラキラ元号になりませんように・・
人権とか個人とか、平等とかの薄っぺらで幼稚な近代感覚で選ばれませんように・・

あと数分で、日本の将来がかかった瞬間がやってきます。

<甲子園後記> 秋田・金足農「日輪のたぐひなき愛」の校歌を讃す

秋田県立の金足(かなあし)農業高校が、夏の甲子園に旋風を巻き起こした。
この夏、何度も流れたその校歌は、農業国日本にふさわしい自然観を存分にうたいあげている。

「可美(うま)しき郷 わが金足」
(素晴らしいふるさと われらの生まれ故郷、金足よ)

「霜しろく 土こそ凍れ 見よ 草の芽に日のめぐみ」
(厳冬の冬、大地は霜に凍りつくが 春には 恵みの陽光が草の芽に命を吹き込む)

「農はこれ たぐひなき愛 日輪のたぐひなき愛」
(農とはつまり太陽の恵み この世に二つとない無限の宇宙自然の 愛の営みだ)

「おお げにやこの愛 いざやいざ 共に承(う)けて」
(ああまったく有難い、この大自然の愛を、みなで感謝とともに承けていこう)

「やがて来む 文化の黎明(あさけ) この道にわれら拓かむ ・・われら、拓かむ」
(必ず来るだろう、真の文化の黎明が だから我らは一心にこの農の心道を拓いてゆこう)

歌い出しの「うましき郷」という語を聞けば、有名な万葉集(巻一・二番)の舒明天皇の御製が連想される。

大和には群山あれど       (大和にはたくさん山があるが)
とりよろふ天の香具山      (中でも天の香具山がいい)
登りたち 国見をすれば     (山に登って国中を見渡せば)
国原は 煙立ち立つ       (人々の家々からは炊飯の煙が立って)
海原は 鷗立ち立つ       (海にはカモメたちがのどかに群れ飛んでいる)
可怜(うま)し国ぞ
蜻蛉洲(あきつしま) 大和の国は (いい国だなあ、大和の国は・・・)

同じく故郷を賛える素直な心が、古今を通じて変わらない共感を私たちの心に与えてくれる。

そして霜白く凍る厳しい冬が過ぎて、生命が一斉に輝く春の到来を、じつに美しく明るく歌う。
生命の源は「日輪のたぐひなき愛」と。これこそ日本人本来の自然観、太陽信仰の核心であろう。

天照大神から託された斎庭(ゆにわ)の稲穂を元に稲作で国を栄えさせた我らの祖先たち。
わが郷土と学業の師への恩愛のみならず、我が国の悠久の歴史へまで心を広げてゆく歌詞だ。

日本の国の成り立ちを織り込み、いまも変わらない自然への感謝のこころを受け継ごうとする。
こんな素晴らしい校歌を、私はほかに知らない。

最近、アニメソングのようなキラキラした軽薄な歌詞の校歌が甲子園に流れることがある。
その高校の生徒には悪いが、あの類のものを校歌にしてしまう大人たちが情けなく恥ずかしい。
ものごとの価値や区別がわからぬ、幼稚で無粋な日本人がここまで増えたかと悲しくなる。

***

最後の句「やがて来む 文化の黎明(あさけ)」とはなんのことだろう。
私には作詞の近藤忠義氏の思いが透けてみえる。

「今の日本人は物質とお金ばかり追いかけて、本当に大切なことを忘れている。
だがいつか、それが反省されるときがくる。そして本当の文化が花咲く世の中がくる。
だから我々は風潮に迷わされずに、物事の本質を求め、大自然の愛に感謝する農業の道を進もう」

そんな思いが込められた歌い終わりの部分のように思えてならない。

そしてこの校歌の素晴らしさは、何といっても楽曲のよさでもあろう。
作曲の岡野貞一氏は、戦前の東京音楽学校(現東京芸大)で教授をされた方である。
「春の小川」「朧月夜」「故郷(ふるさと)」など誰もが知る唱歌を作曲したほか、
日露戦争を歌った「水師営の会見」も岡野氏の手になる曲である。

金足農の校歌の旋律には、地に足のついた雄々しい時代の日本人の精神が宿っている。
それが美しい文語の韻律と美事に結びつき、長く我々の心に残る名曲を産み出したのだろう。

この素晴らしい校歌を歌える生徒たちは幸せ者だと、つくづく思う。

(前編 おわり)

W杯後記 _ ロシアとソ連は別ものである

🔹サッカーの祭典に見たロシア民族の誇り

わたしは有名選手たちの活躍よりも、開催国ロシアの戦いに注目していた。
国を代表するチームは、その国情を多かれ少なかれ、反映するものだ。
「ロシアW杯2018」は現今の国際政治の流れに照らして、運命的であった。

ソビエト政権という異形の支配者による暗黒時代から解放されてから27年。
ついに「ロシア民族によるロシア」が世界の檜舞台に立つ日がきた。
スタジアムを埋め尽くした大観衆の後押しで、好成績もついてきた。
下馬評で最弱と評されたロシアチームは、気力溢れる見事な戦いでベスト8に輝いた。

試合前の国歌吹奏でロシア選手や監督たちが見せる、深い眼差しと表情はじつに印象的だった。
共産政権下の75年に及ぶ苦難の歳月に失われた、二千万同胞の無念の魂への哀悼なのだろうか。
或いは、国を奪われて味わった塗炭の苦しみを乗り越えた、民族の歴史への誇りかもしれない。

 

🔹ソ連とロシア_悲劇のユダヤ革命

「ソ連時代を通じて●回目の、ロシアとしては初めての・・」とTVのアナウンサーが話す。
ロシアはソ連とは別の国家だということは、ほとんど理解されていないのだろうと思う。

だがこの事実を理解しなければ、世界の真実に迫ることはできない。

ロシアは1917年のボルシェビキ革命によって、一度は滅ぼされた。
その革命を起こしたのは、ロシア人ではなかった。
ユダヤ人革命家(レーニン、トロツキー、ジノビエフ、カメネフら)だった。
私たちが教科書で学んだ「貧しいロシア人労働者たちの蜂起」はウソである。

ロシア革命とは、少数派のユダヤ人がロシアを乗っ取った事件なのである。
そして欧米のユダヤ財閥が、彼らに巨額の援助をしていた。
(ロスチャイルド、ヤコブ・シフ、JPモルガン他)

当時の書籍はその間の事情をつまびらかにしているので、一例をあげる。
(残念ながら日本の二冊は戦後GHQの没収で絶版。私は古書店で入手した)

  1. 『The Jews』ヒレア・ベロック原著(1922年)/日本語訳『ユダヤ人』 2016年 祥伝社 (渡部昇一監修)
  2. 『世界的に激化するユダヤ問題と日本』宇都宮希洋 著 1939年 内外書房(宇都宮氏は陸軍所属)
  3. 『ユダヤ民族の対日攻勢』武藤貞一 著 1938年 内外書房(武藤氏は元毎日新聞社主筆)

革命政府によりロマノフ王家一族は虐殺され、ロシア国民は恐怖社会に突き落とされた。
秘密警察KGBが日常的に目を光らせる、暗黒の年月が始まったのである。

政権を批判した者は「反革命思想の持ち主」として逮捕投獄された。
「労働者」でない者、あるいは「ブルジョア」の烙印を押された者も同じ運命だった。
そうして普通の人々が次々と強制労働と獄死、あるいはその場で銃殺されたのである。
その数は二千万以上で、ナチスを遥かに凌ぐ蛮行にも関わらず、なぜか世に語られない。

***

戦後の「シベリア抑留」の記憶は、私たち日本人に「反ソ連」の感情を刻み込んだ。
それがそのまま「反ロシア」になっている観があるが、それは正されるべきであろう。
なぜなら、上述の通りロシア人たちこそソビエト政権の最大の犠牲者だったからである。
歴史の事実が示すものを、私たちは偏見を捨てて学び直すべきではないだろうか。

今後、世界で重きをなすロシアを、過去の間違った認識に囚われて誤解しつづけるならば、
望ましい日露関係を築く妨げとなるばかりか、世界の情勢変化にも立ち遅れることになろう。

🔹2017年、トランプ大統領が米国に誕生

米国民が覚醒してトランプ大統領が誕生した。この意味はとてつもなく大きい。
一言でいえば世界は「秩序の破壊」から「正常化」へ踏み出したのである。
隠されてきた世界史の真実が、これから次々と明るみに出てくるだろう。

この一年間で、欧州にナショナリズム復権の波が堰をきって溢れ出してきた。
民族意識の高まりを反映して、仏、伊、墺国などに右派政党が台頭してきた。
これぞユダヤ財閥による「共産主義思想によるグローバル化(世界統一)」の策謀に対し
欧州の国民が立ち上がった「民族レジスタンス」の大波と呼ばずして何と呼ぶか。

イギリス国民は、これ以上EUに留まれば伝統の英国は滅びると悟り、離脱を決した。

対照的に、独のメルケルは「多様性と寛容」を訴えて中東から大量移民を受け入れてきた。
だが移民が人口の30%を超えて、ドイツ社会崩壊の危機に目覚めた国民は、彼女を見放した。
メルケルは迷走して中国共産党と結ぶ愚を演じ、ドイツの将来をさらに危うくしている。

トランプは米国内のユダヤ勢力のうち「イスラエル民族派」と結んで世界戦略を立てている。
そしてウォール街のグローバリズム派ユダヤ勢力と、水面下で激しく戦っている。

“国境をなくして世界を統一する”という、ロスチャイルド、ロックフェラーやキッシンジャー、ブレジンスキーらが広げてきた大風呂敷は、いまやボロボロに破れて穴だらけなのだ。

欧米や日本のフェイクメディアの必死の洗脳も、追いつかない速さで世界は変わりつつある。
国民はもう新聞もテレビも、信用しない。フェイクニュースを見抜こうと目を光らせている。
グローバリズム(国家を破壊して世界を市場で統一する)の陰謀は、破綻したのだ。

この情勢に、愛国者プーチンの率いるロシア民族が輝きを増してきたのは自然なことだろう。
わが日本も、安倍首相を後押しして日本ファーストで国民がまとまっていかねばならない。

🔹ロシアは、ソ連ではない

「シベリア抑留」はソ連政権がやったことであり、ロシア人の仕業とはいえない。
だが日本のメディアは、パブロフの犬のように「ロシアは悪、プーチンは極悪人」という。

だが私たちは別の視点をもったほうがよい。
ロシア国民の圧倒的なプーチン支持という現実を、素直に、かつ公平に見てみよう。
決して「独裁者による非民主的な圧政」などではないことが、すぐに腑に落ちるはずだ。
こうして私たちは、またひとつメディアの洗脳を脱して、世界を見る目が開かれるだろう。
(終)

「個」の虚構との訣別を

「孤独な群集」

あれは高校一年の夏だったか。美術の授業でポスターを作る課題が出された。
幾つか決められたテーマの中から、私はなぜか「孤独な群集」を選んだ。
十六歳の少年に社会的な問題意識があったのではない。
ただ思索的で意味の深いテーマ性に何となく惹かれたのである。

赤いダルマを縦横にずらりと並べ、その中に一つだけ横に転んだダルマを描いた。
先生は褒めてくださったが、転んだダルマは現代社会に溶け込めない今の私の姿と重なる。
少年の私は、無意識のうちに早くも人生の闇路を予感していたのかもしれない。

昭和六十年の日本社会はすでに「孤独な群集」の腐臭を漂わせていたのだろう。
公民教科書には現代社会の病として「三無主義」という言葉が登場していた。
「無気力・無感動・無関心」が人々の心を蝕んでいるという問題は、すでに教科書にも載っていたのである。

あれから三十年経った。日本人の「三無主義」は悪化の一途を辿っているようだ。

メディアはスキャンダルや茶番ばかりで、人々は公への真面目な関心を維持できない。
そして蓄財や享楽・生活の利便といった、狭い視点しか持てなくなっている。

不安と猜疑心が先に立ち、すぐに細かい損得勘定をするミミッチい習性がついてしまったり、
退屈なため息ばかりで、のびやかな活力やこころの柔軟さは忘れ去られているようだ。

「人付き合いも面倒だし、気ままにスマホとAIと犬を相手に暮らせれば、他はどうでもいい・・」
そんな投げやりで萎んだ了見が、静かに人々の心に染みて来ているような気がする。

道北の大河・天塩川

「個の確立」という妄想

いまだに「国家は庶民の敵だ」「国家は個人を抑圧する」という感覚がしぶとく蔓延している。
国や公の要請に従わない「個」の確立が人類の普遍的な価値だという人が、まだいる。
マスメディア、学者や文化人、一部の教育関係者たちにその傾向が強い。
およそ現実とかけ離れた、机上の妄想が数十年間も続いている。

さて、何物にも縛られぬ自由な個人__そんな人間は古今東西、実在しない。
現実の人間は必ず何らかの共同体に居場所をもち、その規範に縛られている。
またそのおかげで、安定した自己をもって健全に生きていられる。
これが世の常識であろう。
それなのに、共同体や国家に忠誠心をもつ「個人」が語られることはない。

かように偏った「個我」にとらわれて、我らは所属不明の孤独で不安定な群集に陥っている。
この状態は人間として不自然で、一刻も早く克服されなければならない。
だが_漫然と生きていても、虚しい毎日の反復から脱することはできない。

だから、私たちはもう一度、己の命について静かに謙虚に考え直すべきだと思う。

我々の肉体は、両親から生まれた。
しかし、私たちの心臓を動かして生かしている力は、両親が作り出したわけではない。
いったいどこからきたのだろう?

「吾が心を 吾が心と思はず」

江戸時代の垂加神道家・若林強斎はこう言っている。

「神道の大事は、吾が心を吾が心と思わず、天神アマツカミの賜物ぢゃと思うが、ココが、大事ぞ、
そう思いなすではない、真実にそれ。
こう云うことを寝ても覚めても大事にするよりない。
是程の宝物頂戴して居りながら井戸茶碗程にも思わぬは、うろたえぞ。」

私たちの心、命は、自分のものであって、しかし自分のものではない・・
一見難しいが、考えてみれば誰も「心や生命」を創り出すことはできない。
天神の賜物とは、宇宙の摂理に頂いた命を、遠い遠い祖先からずっと繋いできたこと。
合理主義的な解説など不要な、信仰の真髄に触れる感覚がそこにはある。

肉体は滅ぶもの。だが魂は残って後世の人々の心に新たな関わりを生じ、ずっと続いてゆく。
そうした自然な信仰が、我ら日本人の生命観の根源をなしているのだと思う。

人の生は深くて永い。私の個我も、悠遠な大いなる生命の流れのごく一部に過ぎない。

「わが心が天神アマツカミの賜物であるとの確念は、わが生命が
一身の生死を超えて天地の永遠に参ずるということに外ならない」
(『神道大系』垂加神道 下 解題)__ 元金沢工業大学教授 近藤啓吾先生

エゾシカ姉妹

親の勝手な「個」の観念が子供を追い詰めていく

近代思想における「個人」は他者とは隔絶し、つねに自己の安全と利益を優先する。
それはすべての人間が有する「自然権」といい、弱肉強食が自然状態なのだとする。
そこに「契約」を定めることで、初めて人間の社会が成り立つのだそうである。
トマス・ホッブスが提唱した社会契約論は、そんなものだった。

だが我ら日本の先祖は、そんな弱肉強食の自然状態とは無縁であったろう。
縄文時代に大きな戦争がなかったことが、遺跡の発掘研究から明らかになってきている。
共同作業の稲作で栄えてきたわが国の由来、世界に珍しいほど温和な国民性からみてもわかる。

ところが、戦後日本の教育は、欧米の思想に心酔して、欧米人の視点でわが国の独自性や国柄を酷評し、軽視あるいは無視してきた。
そして日本民族は残虐で好戦的だとか、皇室への崇敬心を狂信的カルト宗教のように言い募る輩が大学教授になったりしている。
まるで「日本人が信じてきた歴史など、すべて誤りで、学ぶ価値もない」と言わんばかりである。

だから、戦後の子供たちは日本の神話を知らない。また天皇のことも全然知らない。
日本人でありながら、日本のことを全然知らないまま育っている。
こんなバカな教育をしている国は世界にない。

いま日本の子供が教え込まれるのは「自由」や「人権」「平等」などのいわゆる普遍的価値というものだ。
(これらは日本においては、あらゆるワガママを正当化するための呪文でしかない)
人として当たり前の義務や規則を、面倒で意味のない、避けるべきものとして片隅に追いやっている。
例えば日本国憲法には権利ばかり多く書かれて、義務はたった三つしか書かれていない。(納税・教育・労働。なぜか国防の義務はない)

甘やかされ思い上がり、人生の先達を尊敬することもなく、ただ体だけ大きくなる若者たちだが
遅かれ早かれ、彼らは現実社会との差に直面して、己の力量不足と無知に絶望して苦しむ。
こんなはずじゃ……と呟くが、今更教えを乞うべき先達もなく、自分を責めて卑しめるばかりで、うつ病になる。

昨今の「友達のような親」などは、とうてい人生の真剣な悩みに答えられるはずがない。
それに今の大人たちは自分の遊びや旅行に忙しい。墓参りはしないし、町内行事は無視する。
この自分勝手で幼稚な親の姿こそが、子供らを悲しく情けない思いにさせ、己を蔑ませる元凶なのだ。
成長するにつれて深まってゆく絶望感に、若くして人生を諦めている若者はさぞ多いだろう。

出口のない苦しみに疲れ、すべてに嫌気がさしたとき、ついに若い人生は破綻する。
自暴自棄の凶行、絶望からの自死、現実逃避の精神症が生じるのは、この時なのだ。

冷酷・狂気の犯罪者としてニュースに現れる若者の姿は、あまりに哀れである。
昔からいわれる「親の顔が見たい」の言葉は、今こそ声を大にして叫ばれるべきだ。
無垢な子供の魂が健全に導かれるか否かは、いつの世も親の自覚と努力に負っている。

一見スマートだが、底知れぬ虚無を心に抱えている日本の若者たちの危うい姿。
これがあの「三無主義」のたどり着いた最終段階なのだろうか。

先祖を裏切り、子孫を見捨てる現代日本人たち

かつて、2,700年練磨されてきた貴重な日本人の知恵と人生観があった。
それをたった一度「戦争に負けた」だけで全否定したことの愚かさは、言葉に尽くせない。
しかも、欧米崇拝の負け犬根性に駆られて、身丈に合わない制度を無理やり導入してきた。
こんな不自然にねじくれた社会で、次世代がまともに育つはずがない。
日々起こる理不尽で狂気じみた事件は、起こるべくして起きている悲劇なのだ。

残念だが、われわれ戦後日本人は、多かれ少なかれ卑怯な臆病者になってしまっている。
目先の利害しか見ずに、すべての祖先を忘却し裏切り、すべての子孫を見捨てている。
それを問題視しないメディアに流され、事態の恐ろしい本質に全く気がつかない群集。
彼らの鈍感さは、同じ日本人として本当に信じられないし、情けないの一言である。

全体(公)の中にある個(私)・・精神の均衡

国家を内側から破壊するにはどうするか?
信仰を禁じ、ウソの歴史を教えて国民の団結を壊す。
個人主義を吹き込んで公の意識を薄れさせ、バラバラにする。
欲望を煽る広告宣伝で風紀を堕落させ、国家と国民を借金漬けにする。
(住宅や車のローンも借金漬けの一例である。けっして他人事ではないのだ)
そして政治を金で縛って法律を変えさせ、伝統を絶やして国民意識を希薄化していく。

これがユダヤ式「3S政策」であり、我が国も戦前から相当やられてきている。
(3Sとはセックス、スクリーン(映画)、スポーツのことである)

スポーツは、大規模なビジネスにすることで、巨大利権の世界にシームレスにつながっている。
オリンピックはその代表だ。「柔道」はその道具に選ばれたために魂を汚され堕落した。
神事から娯楽に堕し、外人の稼ぎ場と化した相撲は、わが伝統破壊のもっとも顕著な例である。
先般、女も平等に土俵に上げろと騒いだ連中がいたが、可哀想に、完全に洗脳されている。

「個」という幻想にとらわれて、頭だけで考えた法制度を作ってきたために
我々日本人はいまやすっかり常識と現実がわからなくなっている。
つまり、鈍麻して幼稚化してしまっている。
「日本人は何を考えているのかわからない」と外国人に言われるはそのせいだ。
英語ができないとか、国際化が不十分だからではない。現実認識が幼いからである。
この現状は、戦前から日本破壊を企んできた共産主義者たちの狙い通りだろう。

「ゆく川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず」
この世に永遠不滅のものがないこともまた真実である。
不自然は矯められる(正される)宿命にある。

世代交代にしたがって、世界潮流もまた変わってきた。
個人主義やリベラル「進歩派」が大きな顔をする時代は終わった。

先日、国民民主党の前原氏が「リベラル右派」を誇らかに自称したが、時代錯誤も甚だしい。
彼もまた国家覆滅を図る左翼革命家の一味だったのか__いやいや…そんなタマではないか。

これからの世界は、リアリティのある誠実さ、光と影の両方を語る勇気、真実を見抜く眼力、が求められていく。
くだらない言葉狩りに狂奔して「セクハラ・差別」糾弾商売をしてきた偽善者たちは、もう居場所がなくなる。
具眼の士には、リベラル思想など顧みる価値もないのだ。
2017年米国にトランプ大統領が誕生したのを機に、世界は健全化にむかって舵を切ったといえよう。
何年かかろうが、不自然は矯められるものなのだ。

私たちは均衡ある精神を保ち、ばら撒かれたキレイゴトのウソを見抜いて洗浄していこう。
長く待たれた時代がやってきた。米国の変身によって、その条件が急速に整ってきている。
我々自身が、これまでの惰性を改めて、偽善を撃ち壊す気概を持つことが求められている。(終)

新年賀詞と胸中の思い

記念すべき平成三十年を無事に迎えられたことを、まず神様に感謝申し上げ、同胞の皆様のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げます。

🔷 出口のないまま平成の御世は終わるのか

わが国は積年の閉塞状況が各方面で噴出、矛盾と混乱の極みにあった平成29年でした。

  • ●金正恩の恫喝に「専守防衛ひと筋」で国民を核攻撃の的に差し出す政治家たち
  • ●「慰安婦性奴隷」の虚報拡大で、在外邦人子女の受難。頰被りの外務官僚の無責任
  • ●モリカケ騒動に終始した野党とメディア。愚弄された民の怒りで「安倍」圧勝の衆院選
  • ●モンゴル力士の騒動は、外国人労働者を受け入れた後の日本の混乱の予兆だった
  • ●受信料拒否裁判で売国NHKがまた勝訴。現実を無視して既存の体制を守る司法の病理極まる
  • ●現実逃避、個人の趣味や遊戯やグルメに興じる「責任感」なき幼稚日本人のスマホ天国

先の見えない漂流状態のわが国にあって、来年の御代替りだけは実にあっさりと決まりました。
天皇陛下のお言葉=詔(みことのり)は、さすがに「戦後日本人」にも効いたということなのでしょう。
しかしこの大きな節目を迎えることになる私たちは、本当に大丈夫なのでしょうか。

🔷 狙われるご皇室・・「日本滅亡の危機」

昭和から平成への移行時は、しっかりした戦前の世代が日本社会を守ってくれました。
でも今度は違います。だらしない個人主義が染みついた「団塊世代と戦後世代」が大多数です。
敗戦後の占領期に根ざす自虐教育と無国籍憲法で育ったこの世代には日本人の自覚と国家意識が欠落しています。祭祀王としての天皇の独自性や歴史も知らず、欧州の王室と同じように考えている節すらあります。

御代替りを迎えるにあたり、この無知・無関心・能天気は最大の危険要素です。
“「平和憲法」を死守、無防備宣言”という妄想が、わが国を国際社会の現実と乖離させ、弱体化させてきたことは今や明白です。

我らを脅かす敵は、実ははっきり見えているのです。国境をなくそうとする国際主義者、グローバリストたちです。日本の大手メディアは彼らの手先として率先して国際化やグローバル化を称揚してきたため、わが国民も長年の間に相当洗脳されてしまっています。

彼ら国際主義者たちは、わが国の皇位継承にまで干渉姿勢を見せてきました。
男系男子の皇位継承を「女性差別だ」として国連人権委員会に勧告を出させようとしたのです(これは幸い事前に食い止められました)。
そして国内では女系天皇容認につながる「女性宮家創設」の議論を蒸し返す動きがあり、今後もいろんな手で攻めてくると思われ油断なりません。

昨年、毎日新聞が真偽不明の「陛下の言葉」のリーク報道を連発しました。
宮内庁の重要ポストにスパイがいて、大手新聞メディアを宣伝工作に利用していると思われます。
このアカラサマな不敬報道に対しても国民の多くが無反応だった事実に、彼らは「機は熟せり」と勇気づけられたに違いなく、今度の御代替わりのどさくさに皇室典範や憲法の天皇条項に何か手を加えようとするかもしれません。

三千年続いて来たご皇室の伝統がもしも崩れれば、その時わが国は歴史の連続性と正統性を失います。現代に皇室は不要という考えは、歴史も世の道理も解さない人の心得違いと思います。
極論すれば私たちは「日本史イコールご皇室史」と考えるべきなのです。ご皇室が絶たれる時は日本の終わりなのです。

更に申せば、戦後日本が誇り信奉している「金力(経済力)」にしても、所詮はドルを握る国際金融資本の掌中にあります。
軍事を抑えられ、情報も制限され、全ての経済活動はドル統制下に置かれている。
我が国はまったく従属国状態、いわば「植民地支配」の下にあるのです。
そんな中、ご皇室の伝統まで失えば、我々は真に「根無し草」です。
結束力なき単なる一億人民に過ぎなくなり、もはや発展の力もなく停滞し、やがては隣国に侵攻され雲散霧消する運命が待っているでしょう。
歴史上多くの民族がそうして滅亡してきました。我らの子孫に同じ道を歩ませてはなりません。

今年から来年の、御代替わりが真の意味でわが国の正念場です。東京五輪ムードで浮ついている隙に、ご皇室への最終的な工作が行われるかもしれません。
我々は決して油断せずに、ご皇室に関わる動向を注視し、声を上げてゆく覚悟が必要なのです。

🔷 正月の靖国に見た日本の希望

正月二日、東京九段に出向き、靖国神社に参拝してきました。
春のような暖かさの参道は、驚くほど多くの老若男女の参拝者であふれていました。
大鳥居を入った手水場の手前あたりから、参拝者の並んだ長大な列が拝殿まで伸びており、
普段は行列を敬遠する私も1時間並んで、英霊に感謝を捧げて護国を祈念しました。
今年の干支、戌をかたどった土鈴と破魔矢を買って帰りました。

靖国には、馬渕睦夫先生の講演会に出席するために12月にも来ています。
その時も昇殿参拝をさせていただき、我が国を英霊と共に守っていく誓いを、志を同じくする方々とともに新たにしたものです。
正月の境内に溢れる、無邪気に笑う方々の嬉しそうな顔や声に、私は日本の行く先を照らす祖先の御霊の光を見る思いがしました。何も難しいことを考えなくてもよいのです。神社に詣でて、神様に感謝の心を捧げ、清らかな心を抱いて帰るだけで、日本人は日本人に還れるのです。
そう思うと現在の我が国の抱える無数の、絶望的にも見える病理と問題点のすべてが、なにか不思議な力で自然に解決されてゆくと信じられる、心強い感じが湧いてきます。

おみくじは「吉」でした。「冬の枯木が春になって芽を吹き 更にそのかげに 晴れ間の月を見るように 心誠であれば 神仏の御加護がある」との教えをいただきました。
初春の青空、晴れ渡った午後の日差し、寝不足の目をしばたたかせて地下鉄へ。
この記念すべき平成三十年が、日本国民みんなにとって清らかで明るい一年でありますように。

(終)

畏れを忘れた人間の姿(怒りと哀しみ)

九月の声を聞き、暑さもそろそろ一段落する頃でしょうか。
連日30度を超える久しぶりの本州の夏にすっかり参って、仕事部屋にエアコンをつけました。
冬は暖房費がかからず喜んでいたものの、夏の電気代でしっかり帳尻が合いそうですが・・・
最近のエアコンは節電機能も優れているらしく、ありがたいことです。

🔷 気になるニュース

先日かわいそうな記事を見ました。長野県の信濃町で起きた出来事です。
山に仕掛けたイノシシ用の罠に子熊がかかって鳴いていた。それを見ていたら後ろから母グマが来てかまれた。道路に逃げて役場に連絡し猟友会が出動した・・・
以下、8月16日15時53分、朝日新聞デジタルの記事からの抜粋です。

信濃町産業観光課農林畜産係によると、猟友会や町職員が現場に駆けつけた時、子グマは助けを求めて鳴き声を上げ続け、親とみられるクマは、逃げ去らずに興奮状態にあった。猟友会が子グマを殺処分すると、親とみられるクマは姿を消したという。

同係は「クマを落ち着かせるため、子グマの鳴き声を止めなければならず、殺処分せざるを得ない状況だった。近くに人家もあり、子グマが成獣になった時、再びこの場所に現れ、人を襲うなどする危険性も高いと判断し、猟友会などと話し合って殺処分を決めた」と説明している。

皆様はどう思われるでしょうか。
私は正直に申しまして、何か大切なことが抜けていると感じます。いろいろな点で間違いを犯しているように思います。

熊は力が強いだけでなく、とても細やかな心をもつ賢い動物です。
とくに親子は強い愛情で結ばれ、子を守る母熊の勇気と力は昔からよく知られ、いくつもの物語や伝説になってきました。
この時も、罠に落ちたわが子のために「命がけで」人間に噛みついた母熊の行動には、率直に心をうたれるものがあります。
まして痛みと恐怖に鳴き叫ぶ子熊を前に、罠を外してやることのできない母熊の悲しい気持ちを思うだけで、目頭が熱くなるではありませんか。
それが人としての自然な感情でありましょう。だがこのとき、役場と猟友会の方の考えはどうであったのか。

「母熊を落ち着かせるために子熊を殺さねばならない」「子熊が育ったら人間に復讐するだろうから今殺しておこう」・・・

このweb記事には、たくさんの一般の方がコメントを寄せておられ、その多くがこの処置に疑問を呈するものでした。しかし中には猟友会の処置はやむなしとする声もあり、現場をしらない外野は黙っていろと叱るような意見もありました。

世の中はキレイゴトで済まないとはいえ、それでも方向性が間違っていると言わざるを得ません。徹頭徹尾「人間の都合」だけで行われた子熊の殺処分を、処置は正当だったと言うだけですませてよいものでしょうか。ここに看取されるのは「人間>動物」の思考が固定化した姿、傲慢でしかも判断力も感情も衰えた現代人の危うい姿に思えます。

イノシシの罠に熊がかかる可能性はその道の人なら予見すべきこと、また子熊の近くに母熊がいることは常識です。昔の猟師ならこんなミスはしないでしょう。

親子のヒグマ(知床)

子熊を殺さず、母熊を麻酔銃で眠らせる考えはなかったのかとも思います。
猟友会が麻酔銃を撃つ資格がないのならば、初めから有資格者と麻酔銃を手配すればよかった。すぐに準備できなくても、到着を一日くらい待っても問題はない。母熊は子熊のそばを離れはしないでしょう。

「子熊が育ったら人間に復讐する、いま殺そう」には呆れました。小説やドラマの見過ぎではないか。日頃から「人間の怖さを教える」と言って散弾銃をぶっぱなしている知床財団の方々はどう思うでしょうね。臆病なツキノワグマがわざわざ人間に「復讐」なんてありえません。その場所に近づこうともしないでしょう。

結局「いろいろ面倒だから殺した」ということではないのかと思われてなりません。目の前の熊に威圧されて銃に頼る気持ちが高まり「殺処分」に走ったのではないのか。これではニホンツキノワグマの絶滅は遠くない。人間の胆力の弱さが問題なんです。

ちなみにシー・シェパードなどを引き合いに出して動物愛護の感情を揶揄するコメントも見られましたが、御門違いも甚だしい。これは狂信ではない誰でもわかるはずの心の痛みです。現場を知らない云々は全然関係ありません。むしろ生命に対する真剣さをからかう捩れた姿勢、困ったら簡単に道具(銃)でケリをつけようとする安易な姿勢が問題なのではないでしょうか。

やはり日本人には古来の自然信仰が必要だと思うのです。誰も見ていなくても神様に誓って自然の掟を守る、不注意の事故は自分の責任である。その心をもう一度鍛えるしかないのでは。

昨今流行りの「自然保護」や「自然との共生」なんてのは全くダメです。口だけのゴマカシで、その時の世の都合でどうにでも変わり、CO2問題のようにすぐ利権化する。

人間が自然に対して抱く感情は、そもそも保護とか管理などという技術的な次元のものでは到底ありません。己の存在そのものと向き合うことであり、それはもう哲学、信仰という言葉でしか表せません。そういう真剣な内観と自制が今の日本人には欠けていることが見えた、悲しい出来事でした。

子熊を目の前で殺されて、とぼとぼと森に帰って行った母熊の心を思うと胸が締め付けられます。あのやり方は絶対に間違っていると思います。
現場を知らないくせに黙っていろと言う人たちは、本音はどうなんでしょうね。聞いてみたいし、聞くのが怖い気もします。
(了)

久々に更新です

思うところがあり暫く別の作業に没頭して、本来の撮影活動が停滞しておりましたが、
春も過ぎて夏に向かうこの時期、富士山麓で活動を始めました。
手探りで続けるうちにいろいろ見えてくると思います。

🔹富士山麓

昨日行ったのは富士山スカイラインの「西臼塚」の森。
時間が遅かったためか人影もなく、夕方の光に輝く木々の若葉がゆるやかな風に揺れていました。
降るような小鳥たちのさえずりです。森は生命に満ち溢れています。
小道をゆくと、注連縄に囲まれたご神木のミズナラが静かに鎮座していました。
我々の信仰心の原点、豊かな自然に育まれた日本人の素朴な感謝が、そこに黙然と在りました。

北海道の森は森閑たる神秘的な雰囲気で、その原始性を私は愛してやみません。
それに比べて、富士山麓の森には人の匂いを感じます。
それは親しい身近な存在としての森を感じさせ、北の森とはまた違う新しい感覚がありました。
山川草木にカミを感じ、その宿る神霊を信じて大切に守ってきたわが祖先たちを思います。
森は樹木の群れであるけれど、その存在の由来を静かに辿れば、宇宙を一貫する大きな生命に行き着く。
我ら人の営みもまた、その大生命の局所的な現れに過ぎない、そんな大きな思いに至るのです。

🔹祖先から受け継ぐ日本の信仰心

私は日本の信仰たる神道のこころ、古事記の世界にとても惹かれます。
何といいましょうか・・・
日々見聞きする言説、次々現れる新技術や商品の話題、国際金融とグローバル化。
みんな金銭がらみの、人間ご都合主義の作り物、胡散臭くて嫌気がさします。
そんな臭いものに囲まれて息詰まるなか、遠い昔の日本神話や神道の考え方は実に開放的で魅力的です。

天照大神あまてらすおおみかみを始め、八百万やおよろずのカミ様たちは私たちと同じく悩みもし、時に過ちも犯すご存在です。
それもそのはず、私たちはみな「天の益人あめのますひと」といってカミの子孫で、八百万の神様は私たちのご先祖なのです。
だから私たちの心は本来神性をもち素直で清らかに出来ています。それが現世的欲望に引張られて離れる異心ことごころが出る。その異心を祓い清め、本来の「清く明けき心」に還る、それが祓いなのです。

本居宣長は『古事記伝』第三巻で次のように日本の古代の「カミ」を解釈しています。

すべ迦微カミとは古御典等いにしえのみふみどもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に御霊みたまをも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣とりけもの木草のたぐひ、海山など、其余何そのほかなににまれ、尋常よのつねならずすぐれたることのありて、可畏かしこき物を迦微カミとは云ふなり」

つまり人はもちろんのこと、自然界の鳥や獣、木や草、海や山など、善悪に関係なく、尋常ならざる力を持っているものは、みんな畏れ多きカミとして敬ったのです。

日本の「カミ」観は実におおらかで、自然界に生きる人間の真理を語っていると感じます。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の絶対的一神教と根本的に違い、そこに人為的な約束事は一切ありません。
日本人の信仰は祖先崇敬の素朴な心で、信仰の根源に最も近いのではないかと思えるのです。
だから「これこそホンモノだ」と、心の奥の奥、いわば魂の次元でしっくり噛み合う感触があるのです。

私自身、幼い頃から古いものに憧れたり、現代的な科学合理主義に強い違和感を持ってきました。
それは日本人のDNA、いにしえをカミと敬う大きな宇宙観に発しているのだと思います。

🔹取り戻そう、日本の素直な清い心を

明治以前の日本は、安定し充実した日本の伝統に抱かれて、本当に自然な形で発展してきたと思います。
しかし西洋一神教文明との接触以来、その自然さは混乱し中断され、素直な心が霞の向う側に隠れてしまった。

明治以来、文明開化だ、進歩主義だと突き進んできたこの150年の間、己を見失った不自然が積み重ねられた末に、肥大化した我欲に囚われて、利便性の追求という単純な物質偏重に落ち込んでしまったように思えてなりません。

明治は西洋文明との衝突から始まりました。その不可抗力性と不運を理解した上で敢えて言いますが、この150年の経験は日本民族にとって大きな災厄であり試練でした。西欧との出会いは私たちの精神を混乱させ、欺き、絶望させ、遂には叩きのめしました。
明治史を彩る大日本帝国の華やかさと雄々しい活躍ぶりの中に、どこか哀しい調べがあるのは、裏を返せば、西欧による侵略攻勢の大なるに脅かされた、我らの先輩たちの命をかけた必死の戦いの絵巻だったからだと思います。
世界が拡大してゆく中で、ある意味必然的な流れがあったとはいえ、あまりに悲劇的な運命でした。
大東亜戦争は、日本を計画的に破滅させようと追い詰める悪意ある欧米列強に対し、我が国民が見せた全力の反撃でした。

敗戦後の日本は欧米金融勢力に屈服し、自らを小さく見せることでお叱りを受けないようにする臆病な子供のように哀れです。

そうした悲劇の歴史事実を率直にみつめ、正しい自己認識のもとに日本は出直すべき時だと、私は強く思うのです。
古い殻は、いつかは脱ぎ去らねばなりません。
それは決して「戦前に還れ」などという視野の狭い話ではありません。
私は「明治以前に還れ」といいたい。それくらいの精神的な大転換がいま求められていると思います。
米国、欧州を始め世界的に戦後秩序の再編が始まっている今こそ、日本も覚醒して再出発しなければならないのです。
そのことは、また稿を改めて論じたいと思います。

🔹この春の桜の回想

毎年見ていたのは、北海道神宮の境内や、函館五稜郭公園の桜たち。
静岡に移った今年はどこがいいだろう?なんだか気が乗らないままグズグズしていると
今年は開花が遅いと油断しているうち、あっという間に咲いて、雨ですぐ散ってしまいました。

諦めたあとで偶然出会う「残り桜」はひとしお嬉しいものです。
四月末に二度目の伊勢参宮を果し、立ち寄った三重県の美杉村で「三多気の桜」に出会いました。


またあちこちの見聞を記したいと思います。
今回はここまで。ありがとうございました。

富士の国から(耶蘇祭りの夜想)

秋頃にお知らせしました通り、このたび長年住み慣れた北海道を離れて
故郷静岡県の町に越してきました。
荷物整理もやっと一息つきまして、当ブログも再開と相成りました。
どうぞ引き続きよろしくお願い申し上げます。

***  ***

窓からは毎日富士山が大きく見えます。12月というのに日中の気温は12〜16℃もあって、
外出も薄いコートで済むのは新鮮な感覚です。温暖な土地に来たことが実感されます。
気候の変化に体がついていきません。朝晩はくしゃみばかりして、昼間は眠くてぼうっとして。
少しずつ慣れるものでしょうが、風邪は寒いからひくとは限らないなと感じます。
高校時代以来の静岡県民となり、人とのつながり作りからの再スタートですが
焦らずにやるべきことをやっていこうと思います。

***  ***

年が明けたら早速近隣の山を歩いてみたいのですが、私は静岡の山をほとんど知りません。
とりあえず昔買ったヤマケイのアルペンガイド南アルプス編を読みなおしています。
動物や野鳥たちのご機嫌伺い&足慣らしのため、まずは冬の低山で訓練ですね。
カメラを担いでいくのはもう少し先になりそうです。

【耶蘇(ヤソ)教祭りの大騒ぎにもの申す】

世の中はクリスマス一色でも、我が家では23日の天皇誕生日のお祝いが最も大切な日。
強風に負けず国旗も出した。青空に翻る(ほとんど飛ばされそうな)日の丸の美しさ。

私はX’mas「クリスマス」を日本語で「ヤソ(耶蘇)祭り」と呼んでいる。
キリスト教の聖夜祭なのだからそれが正しいといっても、残念ながら世間では通じない。

欧米人の習慣をむやみに導入したところで、しょせんうわべだけの借り物だ。
毎年12月に日本中で演じられるX’masの行事は巨大な消費と流通、それ以上でも以下でもない。
物事の意義や由来を無視して表面的な享楽だけをいいとこ取りする姿勢はいかがなものだろう。

たいていの人は「X’masは楽しいからいいじゃん」というだろう。また「GDP増に資する重要な経済行為だ」という人もあるかもしれない。だが行事の由来や意味が完全に没却されたら、そこには薄っぺらの、むなしい空っぽの疲れしか残らない。
メリークリスマス!と叫ぶ日本人は、いったい何をMerryと思い、何を祝っているのだろうか。

こうも思う。他国の宗教儀式を意味も考えずに真似することは、無責任で軽薄な仕業ではないか。
つまり真摯なキリスト教信者に対して侮辱行為ではないだろうか。ましてや商売の都合だけで。
何でも楽しければいいという軽い態度や、本来の深い意義を顧みない粗雑な感覚に、私は同意できない。

私の怒りとは無関係に、この馬鹿らしい風習もきっと100年後にはなくなっている気がする。時代も世界も変わる。西欧キリスト教文明の世界支配はせいぜいこの500年で、それももう終わろうとしている。
それまで待てないのは残念だが、耶蘇に迎合しない意思はしっかりと示しておきたい。

【平和ボケの悲劇&世間知らず日本、どこへゆく】

振り込め詐欺被害が報道されるたびに、またかという驚きと、なぜだという不審を禁じえない。
騙される人の中にある悪意への油断。虚実を判断する力の欠如。心の不安定さ。
そんな状態につけ込んで金を要求する巧言に動揺してしまい、痛い目に会うのだろう。
こんな油断と隙がお年寄りには多いのは、逆にいえば日本の幸せな国柄の証でもあるから皮肉だ。
なぜ、お年寄りが心に相当な武装を要するような、寒い世の中になったのか。

「国境や民族を超えて、誰もが地球規模で活躍するべき時代だ」とテレビで無邪気に話す「有識者」たちは国際化が生みだしている実生活での軋轢や弊害を「改革には痛みがつきものだ」と片付けて顧みない。こうした盲目的な国際化信仰がエリート層の見識の狭さと相まって、社会に実害を及ぼすこと実に大きなものがある。
年端もいかぬ全国の小学生がその大きな犠牲者だ。文科省は異議異論をすべて封じて、子供たちを早期英語教育の実験台に供した。

これは必ず大問題になる。すでに日本の家庭は崩壊寸前だ。
子供の機嫌をとる親には威厳も力もなく、自由の荒野に放り出された子は不安と恐怖からゲームや仮想空間に居場所を求めるしかない。社会全体が不安と臆病と自己不信のかたまりのような分厚い暗雲に包まれている感じだ。

このうえ家庭内に英語が入ってきたら親子はお手上げだ。何年かして全国で深刻な事態が顕われるだろうが、国際化信仰の文科省はシラをきるだろう。日本語と日本民族が地球上から消えていく、その第一幕を演出した罪を決して認めないだろう。
この恐ろしさに比べれば、ゆとり教育による学力低下などは全然他愛ないものだ。

また先般、全国の大学に対して「理系学生の育成を重視して、文系学部は削減せよ」という文科省通達もあった。この狂気の沙汰に、怒り嘆いているのは勿論私だけではないだろう。
科学技術の意義が人の生活向上に奉仕することなら、人間の死生観を深く考える哲学や宗教の素養こそが大前提である。土台をおざなりにして果実だけ効率よく得られると考える文科省官僚の頭は、ものの道理を弁えない幼児レベルの粗雑さだと思われてならない。

最高学府を出た人々が見せる無知と暴走が、我が国での「優秀さ」というものの無意味と危険性、有害性を証明している。
嗚呼!このような連中が国を導く立場に座っている。敗戦で正邪を180度ひっくり返されたままの戦後日本が悲しくてむなしい気持ちになる。
そういう思いが無気力を生み「今だけ金だけ自分だけ」の世を生み、振り込め詐欺の天国にもなるのだろうか。

***  ***

今日は12月25日、耶蘇祭りの日だ。我が家では「ケーキを食べる日」である。
デパートや大通りではモミの樹を飾り立てるのに懸命だ。毎年繰り返されるこの行事のむなしさは、戦後日本人の漂流と惚け面の本質をみごとに象徴している気がする。

敗戦で古来の国柄と心軸を投げ捨てた結果、目先の欲望と金の誘惑しか見えなくなった戦後日本の悲劇を静かに思う。
己の醜さをごまかさずに恥じることから始めなければならない。それがあの戦争の真の総括となり、これから進むべき正しい方向が初めて見えてくる。それは敗戦から続く自暴自棄と絶望の連鎖からの脱出、二千年のわが国史への素直な愛情と誇りの回復である。
敗戦を言い訳にして現状を看過する腐れ魂を一刀両断する、それが我々の再生へのただ一つの道であろう。

***  ***

札幌から静岡へ引っ越しても、私自身の視点、関心事はもちろん変わりません。
今後も我が美しき国土とそこに生きる命を見つめ、先人の国史と伝統の精華に思いを寄せつつ現代を生きる市井の一人としての憂国の思いを綴ってまいります。
どうぞ末長くご愛顧くださいますようお願い申し上げます。

トランプ大統領こそ日本の国益

戦後の日本のシステムを根底から見直すチャンスが来るのだろうか。

何十年もの間アメリカの理不尽な圧力と脅しに我ら国民の生活はどれほど不自然に歪められてきたことか。憲法の押し付けに始まり数々の法律を変えられ、企業の経営方法も労働観も変えられ、為替も強引に操作され、国語破壊、英語の押し付け、あらゆる文化基準を変えられ、今またTPPという勝手極まりない貿易条約を押し付けられそうになっている。

いや我が国だけではなく世界中の国民が「グローバリズム」というアメリカの原理の押し付けに苦しんできた。そんな中で祖国を金で売る連中だけが利益を享受する構造、素朴で誠実な一般国民はひたすら搾取される不幸な構造が世界中に蔓延してきた。

グローバリズムの侵略に対抗する戦いはイスラムや欧州だけの話ではない。日本が苦しんでいる経済の長期凋落や社会規範の溶解、絶望的閉塞感は、いま世界で起きている現実の戦いと常に密接に関連している現象だと考える。
国民生活より己の利益を優先して憚らない対米追従のTPP推進派の経団連や政治家たち。
彼らを見ているとグローバリストとは罪悪感なき売国奴だと改めて思う。

グローバリズム否定派のトランプ氏が大統領になるかもしれない。
世界の潮流はその方向にあるし、何よりアメリカ国民がそれを望んでいる。
グローバリズムは反省され、見直されようとしているのが世界の現実だ。

だが周回遅れの日本の要人たちの頭には理解も反省もない。
米国を相手にいかにこれまで通りに金儲けを続けるかが関心事であり続ける。
敗戦後の日本はそういう人間だけが出世するように作られている。

国益という言葉を未だにNHKが使わないのは、GHQの命令を忠実に守っているからだ。
70年前から日本は三流国家に落ちてゆくようにプログラムされていたわけである。
トランプ旋風の意義を全く報道できないメディアの低質さがその大成果だ。

ヒラリーは既存のユダヤ金融グローバリスト勢力に守られている。
トランプはそれを打ち破りたい米国の一般国民に支持されている。
「グローバリストの代表」VS「米一般国民の代表」
アメリカという国が今後続いていくかどうか、歴史的正念場であろう。
米国が正常化の道に踏み出すときが、わが日本も占領の首輪を外すときだ。

わが歩みを刻んだ北海道と祖国への思い

いつしか二十年の歳月が流れていた。
不惑の歳を大きく超えたが精神の躍動は失わずにいたいものだ。
北国では初雪の知らせを聞く季節。私の人生もまた岐路を迎えている。

私はこの冬、故あって長年住んだ北海道を離れることにした。

秋色・十勝岳

秋色・十勝岳

***

思い出とは白い霧の向こう側にある断片的な光景のことか。
歳月を経たことは寂しさでもあるが、同時に安らぎでもある。
喜怒哀楽、かつて心を燃やしたすべてが、今は優しい淡さに包まれて見える。

今度は故郷にほど近い、わが国随一の霊山の麓にある古い町へ移り住む。
そこで魂を磨き、これまでの積み重ねを統合して新しい挑戦をしたい。
人生はダイナミズムだ。機を逃さずに一気に跳ぶそのときが来た。

***

私は北海道の広大な自然に、本当に大切なことを教わった。

野生動物との日常的な遭遇は、いつしか人の心に謙虚な信仰の心を育む。
私は自然科学の本質的な矛盾と、人間の尺度で叫ぶ自然保護の虚しさを痛感した。

山で過ごした野生的な夜は、いつも私を小賢しい人間から一個の素朴な生き物に還した。
鋭敏になった心で、人の感覚や理屈を超えた世界の実在を直感するのだった。

日本文明の古代的自然信仰が、実は最も現代的かつ高次元の思想であることに気づき、
体と心で掴み取ったこの感覚が、古い神道に通じていることを、大きな感動とともに悟った。

大切なことはすべて昔にあったのだ。私たちは昔を忘れてはならない。

夜明けの知床峠

夜明けの知床峠

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欧州と日本という対照的な少年時代の生活環境が、私に自然な祖国愛を芽生えさせたが
そのことで私は公の重要な問題に関し、つねに少数派として孤立する宿命を背負った。
戦後の巨大な偽りの構造に安住する人々を寂しく眺めるしかできない無力な己を思う。

「思ふこと 言はでぞ ただに止みぬべき われと同じき人しあらねば」(在原業平朝臣)

何も言うまい、自分と同じ人などいないのだから、と唇を噛み世情を静観する毎日。
それでも思いを上手に伝える力が欲しいと願い続ける。

ひとり早い秋

ひとり早い秋

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