ブラジルW杯一次リーグ、日本は残念ながら敗退した。
最後のコロンビア戦についてのメディアや批評屋の記事がネットに踊る。
類似した記事は沢山あるので、目についた部分の感想をのべてみたい。
「なさすぎた勇気…ボール遊びだった日本」
「彼らは本当に「サムライ」を名乗る資格があるのだろうか。勝負を懸けた戦いだからこそ、刺し違えてでも相手を倒す気構えが必要だったのではないだろうか。」
「限りない不完全燃焼感。日本の勝利を信じて見守った多くの人の目にも、この日のサムライブルーが本当に戦ったとは映らなかったはずだ。」
こうした言い方は少し度が過ぎていよう。「限りない不完全燃焼」といっても、これが日本チームの現実だった。
現実を認めずに「まだ燃焼できたはず」とはちょっと未練がましい。
また「刺し違えても相手を倒す気構え」とは勇ましいが、言うは易しだ。
「サムライを名乗る資格は…」といってしまったら今の日本人の誰にも名乗れないと思う。
つまるところ勝敗の結果だけに囚われて鬱憤をぶつけるだけの、ライターの自己慰撫の「言葉遊び」に思える。
ところで、4年の間厳しい練習を経てきた選手達はこの敗戦を受け止めて、
「応援してくれた日本の人たちに申し訳ない」と記者の質問に答えていた。
その姿に私は胸を打たれたし、同時にある連想をした。
今日はサッカーと重ねてそのことを述べてみようと思う。
■ 戦い敗れた者の無念を共有できるか
つい昨日迄あんなに熱狂していたのに、負けた途端に掌を返して指揮官や選手を批判し叩きまくる人たちー
この構図は、実はあの大東亜戦争の顛末とそっくりではないだろうか。
昭和16年末から20年夏まで足掛け5年、国家の存亡をかけた大東亜戦争。
日本国民は、勝利を信じて最後の最後まで米英他の連合国と戦った。
勝利以外の結末など考える余裕もない、最後は必死の戦いだったと思う。
(余談だが戦時中の日本国内は最も治安がよく、犯罪が激減していたというのも頷ける)
だが原爆2発、東京大空襲ほか都市爆撃による民間人の虐殺などのアメリカの狂気の前に、我々は力尽きて降伏せざるを得なかった。
その時の日本人の気持ちは……反省でもなく、後悔でもなく、「無念」としかいえないだろう。
私は今朝、それと同じ匂いをサッカーの敗戦という現実において感じたのだ。
本田選手は「…無念です…応援してくれた人たちに申し訳ない」とだけ言った。
日本軍の最高責任者たる東条英機首相も「敗戦について国民に対してお詫びする」と述べた。
どちらも、昨日まで国民の熱い期待と信頼を背負って必死に戦った人の、絞り出すような敗戦の弁である。
彼らに私欲もなければ名誉欲もない。襲ってきた運命を受け入れる責任感と潔さがあるのみだ。
■ 勝てないと判っていても戦うことの意味
相手がわれわれより強くても戦わなければ道が開けないときがある。
日本代表は「一次リーグ突破するには、この相手に勝つしかない」
昭和の日本は「白人国家の植民地にされないためには、アメリカの野望を止めるしかない」
次元は違えど、どちらも「戦い勝たねばならない状況」に追い込まれていたから戦ったわけで自然な道だったと思う。
■ 敗れてなお、尊厳を守ることができるか
だがサッカーも大東亜戦争も、結果は敗北だった。これは運命、冷酷な現実としかいえまい。
「現実を受け入れるしかないです…」(本田選手)
そして敗北には後悔がつきものである。
(あのときパスが通っていれば… あのシュートが入れば… あのPKがなければ…)
(無謀な陸軍の作戦… ミッドウェーの無様な負けがなければ… 真珠湾攻撃などしなければ…)
敗者の内部ではそんな風に誰が悪い、あいつのせいだ、とタコツボのような責任の押しつけ合いが始まるのが常だ。
この厳しい運命を受け入れたうえでなお、敗者は己の尊厳を守る知恵と強さが求められる。
そこで尊厳を失って、うなだれて引きこもってしまえば、そのとき本当に「終了」してしまうと思う。
今回、日本代表は失意の内に帰国するだろう。だが無念の思いを糧に次の戦いに挑むだろう。
時は動いている。いつまでも失意に沈んでいるわけにはいかない。
だが、大東亜戦争の敗者「日本」はそうできずにいる。
戦後70年、今も勝者「アメリカ」に媚びへつらい、背を丸めて生きている。
その証拠に、核兵器どころか自前の軍隊すら持てない。自国の憲法ひとつ改正するのに大騒ぎである。
TPPではアメリカの要求に抗せず、日本農業を見捨てる言い訳の検討段階にあるとも聞く。
国内に溢れる若者を放っておいて、不足労働力を外国の大量移民で補おうなど狂気の沙汰だ。
日本の「終了」につながることばかりが力強く推進されている。一体どこを見ているのだ。
自分を失って錯乱したままのわれわれ日本人に「次の戦い」のチャンスはあるのだろうか。
■ 軍事的に自立した国が生き残る真実
軍事力を外国の軍に頼るしかない今の状態は危険だ。
もし本当に戦争になれば、それこそ拒否できずに巻き込まれ、翻弄され、捨てられるのだ。
今やアメリカの軍事力は弱まっている。中国やロシア、そしてイスラム勢力がその空白をついて動き出している。
もはや日本は自らの足で立たなければ潰される時代が迫っていることを、心ある人たちはみな強く感じている。
「憲法9条」はこの状況においては国の手足を縛る拘束具、国を内部から破壊するガン細胞でしかない。
「戦争イヤイヤ」と叫んで満足し、目先の平穏をひたすら信じるだけの蒙昧な民を増やし続けてきたのだ。
そもそも、国を守る自衛権に「集団」も「個別」もあるものか。先生方しっかりして頂きたい。
寝惚けた「議論ごっこ」は即刻やめて、「現実を受け入れて」対処してもらいたいものだ。
いつも楽しみに読んでいます。
渡部さん、お久しぶりです。サイト引っ越ししたので見られなくなっていないか、心配していました。
新しいサイトで始めたはいいのですが、中身を作る時間と能力が足りずで、心苦しく思います。
昨今ますます明らかになりつつある戦後日本・積年の病巣ですが、目を背けずに時代の真実を見つめて参りましょう。お互い頑張りましょう。
サッカー日本代表を応援する国民の側に、W杯を真剣勝負の場と心得て現実を見据え「どうすれば勝てるか」と考えている人は、ほんの少ししかいなかったように思います。他人事というか当事者意識の欠如という感じがしていました。日本の勝利よりも金儲けを考えているようでは足を引っ張るばかりです。どうしてそうなのかと考えてみると、やはり戦後を振り返らざるを得ません。
「国家の為に、各々がその本分を尽くす」ことを、まるで価値のないことであるかのように捉えさせる今の教育は、いわゆる”自己中”を増殖させ、あちこちに害を及ぼしています。全体を見る目がなく、物事を客観的に捉えることができていません。今回のW杯で、開会前には無責任な楽観的予測をしながら敗退後は選手監督に批難を浴びせるマスコミの態度は、戦後の「神も仏もあるものか」という風潮と軌を一にしていますね。それがいずれは死をもたらすことを知らない、まるで癌細胞のようです。
お茶と蜜柑さん、お久しぶりです。サイト引っ越し後初のコメントありがとうございます。
コメントの承認作業が遅れて、なかなか表示されず失礼しました。
W杯はすでに遠い過去になっていますね。これも数多くのイベントのひとつに過ぎなかった。
盛大なる空騒ぎ、お祭りの後を包む空虚…
仰る通り「常に他人事で、当事者意識などない」だからすぐに忘れてしまふのですね。
年中「イベント」を探し回っては退屈を紛らせて、あとは金を稼ぐために生きる日常…?
深い思索も信仰もなく刹那的に歳月を送る。そこには最後に何が残るのでしょうね。
みんな自分のことしか見えていません。自分の権利ばかり信じて、使命というか義務というか、
自分が社会の中で果すべき役割について考えていない、幼い子供のように思えてなりません。