日本人の自然観」カテゴリーアーカイブ

クマを探した夏

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今年はあの尾根から探してみよう、あの沢に張ってみようなどと思いを巡らした夏の大雪山。
豈図らんや、誰もが驚くとんでもない集中豪雨に見舞われて、道内各地で道路の崩壊や洪水だらけ。
入山にも危険が生じ、考えていた撮影計画はほとんど白紙に戻さざるを得なくなった。

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桜に見ているもの

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4月ももうすぐ終わる。
北の大地にも遅い春の気配が漂う。
桜の季節がもうすぐやってくる・・・

折からの天候不順で例年より開花の遅れが見込まれている。
大型連休中のお花見にはどうやら間に合わないらしく
たくさんの人が落胆しているのだろうと思う。

自然とはそういうものであると、分かってはいるのだが・・・

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それにしても
桜の花の美しさとは、いったい何だろう。
皆がこれほど熱中し心ときめかせて待つ、あの花に
私たちは本当は何を見ているのだろう。

欧米人も満開の桜を見て美しいと感じるけれども
その花びらが散りゆく姿に美を感じることはないという。

だが私たち日本人は春風に舞う花吹雪にため息をもらし
池の面に浮かぶ一片の薄紅色にもしみじみと感じ入る。

これこそはDNAのなせる業にちがいない。
私たちの民族が長い歴史を通じて培ってきた共通の記憶
それは私たちを遠い古代のご先祖様と結びつける。
そして「自分のルーツ」をはっきりと確信する拠り所を与える。
私たち日本人は幸せな民族だと、つくづく思うのだ。

私たちが桜の花を見ているとき
きっと魂は古(いにしえ)の先祖(みおや)と語り合っているのだ。
目に見えない精神のつながりをそこに感じているのだと思う。

久方の 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
(紀友則/古今和歌集)

平安の昔の歌人が詠んだ歌を、1,000年後の私たちが
何の違和感もなく暗唱し、その心を感じ取ることができるとは
考えてみれば驚くべきことである。

この連続性、この確固たる精神のつながり!
何と素晴らしいことだろうか。
この日本という国が育んできた深い精神性の象徴
それが桜の花であると思えてならない。

(写真:桜とヒヨドリ/東京・九段)

十勝岳のキタキツネ

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白金温泉付近のキャンプ場で迎えた朝は
小雨が上がった雲間から青空が見え隠れ。
秋風の冷たさの中、日差しのぬくもりにはまだ夏の名残り。

さわやかな大空に弧を描くのは 三羽のトビ。
上富良野の黄金色の田や、収穫の終わった畑を
上空から餌を探しているのだ。

昨年11月の雪山研修以来、約一年ぶりの白銀荘で
お湯を頂く。連休中で洗い場の混雑はすごい。

ここの露天風呂の雰囲気が好きだ。
39、44、46度Cの三種類の湯がある。
真冬なら46度にも入れるが、今は39度が精いっぱいだ。

白銀荘を後に、十勝岳温泉凌雲閣へ。
十勝岳、上ホロ、富良野岳への登山客で賑わっている。
昼過ぎなので、早くも下山してきた人たちだろうか。
今日みたいな天気は絶好の登山日和だ。
さぞ気持よかったろうな。

駐車場にキタキツネが現れ観光客の耳目を集めている。
餌をやらずに写真だけ撮る。キツネはもちろん餌を
期待しているものの、微妙な警戒心は捨てずにいる。

***  ***  ***

人間と野生動物の距離についてはいつも考えさせられる。
「餌をやるとキツネは自活できなくなる」というのは通説だが
「夏は餌をもらって冬は自活!」というしっかり者は確かにいる。

思うに
餌をねだる動物を遠ざけるという優しい配慮の本質は
人の子供の躾(しつけ)をそのまま当てはめるようなもので
人の自己満足に過ぎないのではないか。

そもそも野生を失うとは、一体どんな状況を指すのだろう。
彼らは自分なりにいつも真剣に生きている。
夏に餌を誰からもらおうが、冬には当たり前に自活する。
それが野生ではないだろうか。