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4月28日は祝日と呼ぶべき

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テレビはどこを見ても大型連休にはしゃぐ姿で埋め尽くされている。
まるで日本中が「奴隷の苦役」から解放された喜びを爆発させているかのようだ(大袈裟な言い方だが、テレビはなんでも大騒ぎしすぎる)。

テレビ番組の演出は一般の現実からかなりずれていると感じることがしばしばだ。
それにくだらない番組が多すぎる。低視聴率に苦しむ現状は頷ける。

芸能人の身内話と、ヤラセ馬鹿笑いで飾るバラエティ番組。
教養番組と称して、およそ意味のない豆知識を問うクイズ番組。
芸能人や漫才師が司会を務める「時事討論」番組。などなど

およそ真の知性とは縁遠い、刹那的なコドモ番組が幅を利かせている。
今後、有識者討論などの質の高い大人の知的番組に力を入れない限り
遠からずテレビ業界は枕を並べて討ち死にの憂き目を見るのではないか。

この国家的危機の時代に、テレビは相変わらず阿呆の能天気では、呆れられて捨てられて当然である。

閑話休題

60年前の今日、私たちの国は、アメリカの占領から解放された。
そんなこともどうでもよい話だと、殆どの日本人は思っているように見える。

私は今日、そーっと日章旗を窓際に掲揚した。実質的な祝日だからである。
通りかかって気づいた人は、「ぷっ、昭和の日を一日間違えたな」と思うだろう。

日本人は今日28日もまた特別な記念日として認識するべきだ。
なんといっても、占領が終わって日本が国家主権を回復した日なのである。

だが現実は見ての通り、ただの「GW遊び週間の始まり」でしかない。
他にも、きちんとした由来や意味がある祝日がその意味を失い、
今や労働の苦役から解放される休みの日としか認識されていないのである。
子供ならまだしも、大人までがそうなのである。「三連休法」など言語道断だ。
これも、占領軍によって日本の古来の祝日や祭日が廃止されたままだからである。


いったい、5月3日がなぜ祝日でありつづけているのか?
こともあろうに、占領憲法を押し付けられた屈辱の日が!
あの復讐茶番劇、日本の尊厳を踏みにじった極東軍事裁判の開廷日が!
私たちは、こうしたことをちゃんと知って、自分の頭で考えなければならない。

国家が独立しているということの重い意味、そのありがたさ。
そして占領中にどんなことをされたのか。それが現在までどんな影響を残したのか。
私たちの先祖がなぜ戦ったのか。なぜ負けたのか。相手はどんなことをしたのか。

戦後の教育もメディアも、占領軍側に都合の良い歴史しか教えてこなかったけれども今は状況が変わり、知ろうと思えば本当の歴史を知ることはできる。
占領体制に縛られた文部行政やテレビ新聞メディアと距離をおいて、自分の頭で歴史を勉強し直すことが、今私たちに求められているのだ。

正しいと思って戦うこと、負けて悔しがり、次は負けてたまるかと誓う強い心。
尚武の領域を心に保たなければ、平和とは「安楽死に至る老衰」でしかない。
4月28日は、日本人が自らの戦いの正しさを心に刻むとともに、武力敗戦の現実の厳しさと、歴史の不可逆な運命性に思いを馳せ、理不尽なる占領の屈辱に耐えた先人の困難に、瞑目するべき日だ。
そして、子孫として捲土重来と精神の再起を静かに誓う日なのだ。


それにしても、北方領土がソ連に違法に分捕られたことも知らず、また北の恐怖国家に拉致された同胞のことも「ボクたちのせいじゃないから」と他人顔でパチンコに通い、その北朝鮮に貢いでいる人たち。
「日本さえ戦争しなければよかったのに。国民は軍の被害者だ」と歴史教科書にのせる連中。
「先祖は残虐だったが、私たちは友達だ、ユーアイ!トラストミー」などと恥知らずの極みを首相が演じている。

そんな腑抜けのボケ民族に、二度と繁栄のチャンスがあるだろうか。
私たちは真実に目を開かなければいけない。
今、本気になって日本を救わなければ、将来は確実に真っ暗である。

保守すべきものとは(建国記念日に寄せて)

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11日は小雪まじりの中、建国記念奉祝式典へ参加してきた。
会場はロイトン札幌の三階ホール。福井ばやし保存会の演奏に続き、国歌斉唱で厳かに開式した。
昨年の市長選で善戦した本間奈々氏の司会のもと、町村信孝衆院議員、自衛隊OB、市議会議員の方々が祝辞を述べられた。
運営の日本会議の若い会員たちは快活颯爽、キビキビとして好ましい。やはり日本人はこうあってほしいものだ。

記念講演は、産經新聞社の政治部記者、阿比留瑠比(あびる るい)氏が登壇された。

阿比留氏は09年の政権交代ブームの中、一貫して民主党の危険な本質を国民に訴えてきた方であり、その舌鋒鋭い政権批判は多くの保守層の喝采を浴びること多きゆえに、今回の運びとなったのであろう。

「天災を人災に変えた男・菅直人」について、氏が官邸担当記者として知り得た数々の逸話に、菅氏がわが国の首相だったことは悪夢以外の何物でもないと改めて思った。人間として許せぬ冷酷さと卑劣さ、無責任さに今更ながら哀しい笑いを禁じ得なかった。奉祝式典の場ではあったが日本を憂う誰もが思いを同じくしたはずである。


講演の最後に阿比留氏が次のように語った。
「日本人は保守が2割、左派が2割、残りの6割は雰囲気や流行で動くノンポリ層。保守層だけでは数が足りず日本は動きません。
大阪の橋下氏があんなに人気があるのは、彼はイデオロイギー色を表に出さないのでノンポリに受け入れられているのでしょう」

おおよそ同感だが、イデオロギー色を出す、出さないというのは何のことだろう。
「大阪都」「教育条例」「維新の会」と政策を打ち出しても、バックボーンの思想は隠し通せるものだろうか?
そもそも「保守」や「左派」とは何かを今一度確認する必要を感じた。
深い議論には立ち入らずに、ごく一般的な感覚による私見を述べてみる。


「保守」はいったい何を守るのか。広くて捉えにくいが「長い歴史の中に蓄積されてきた生活の智慧とその価値の体系」だろう。
冠婚葬祭から人間関係の礼節その他の慣習など社会固有の文化を、次世代に伝えていくことを重んじるのが「保守思想」だ。
ごく自然な人情に基づいた道理と言えよう。

一方、左派つまり革新派の本家マルクス主義は、極めて単純で唯物的な科学理論だった。
「善=労働者、悪=資本家。伝統は階級差別を生む悪。革命で新しい平等の世界を創造する」として世界のインテリを魅了した。
20世紀末の崩壊後は、その亜流のリベラル思想が形を変えてはびこっている。
「個人の自由。国境なき地球市民社会。家族解体、女は家庭を出て働け。夫婦別姓と同性婚を認めよ」など。

左派の思考は、歴史に価値も意味も認めず革命で社会を変えようとする。
保守の考え方は、歴史そのものに価値があるとして、自然の流れに逆らわない社会変化を是とする。

このどちらの考え方が良識の検証に耐え得る道かは、おのずから明らかであろう。

17世紀イギリスの保守思想家エドマンド・バークが、フランス革命を批判してこう言っている。

「あなた方(革命派)は偏見と戦っているのだと考えるけれども、しかしあなた方は自然と戦っているのである。」

左派の考え方は、自然のあり方を無視した机上の空論である。
そして恐るべきことに、現在の日本の政治はほぼ左派に握られてしまっている。
革命ごっこの幻想を引きずる民主党は、歴史や経緯を無視した政策を次々にぶち挙げる。

普天間基地移設の白紙撤回、八場ダム建設中止、子ども手当強行、外国人参政権付与や夫婦別姓への執着。
尖閣漁船衝突事件での稚拙な対応、軽々しい「脱原発」宣言。枚挙に暇なしだ。

また橋下氏の改革には伝統も慣習も無視する「壊し屋」の匂いがする。
勢いと発信力はあるが改革内容は冷徹でテクニカル。わが国の歴史に対する愛情が感じられないのが気にかかる。


ともあれ世界に冠たる恥辱の政府に、国民はもう我慢の限界である。私たちは「日本国民としての自覚」を強めて眼力を養わねばならない。
革命ごっこも壊し屋も不要。今は心から祖国を愛する人たちによる常識的な大人の政権が必要なのだ。

せめて建国記念日ぐらいは国全体でお祝いするくらいの、まともな日本を取り戻さなくてはご先祖にも子どもや孫にも顔が立つまい。

充実した紀元節の一日

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今日は日本の建国記念日、大変めでたい日である。
昔は紀元節と呼ばれており、それこそ国中挙げてお祝いしたという。

だが今はどうだ。三連休となれば「何をして遊ぶか」ばかりだ。
祝日だというのに、祝いの雰囲気は皆無。
街を歩いても国旗を掲揚する光景にまったく出会わない。
おかしな国だ。心の軸が何重にもねじれているようだ。

**
大通は7日から開催中の雪祭りの見物客でごったがえしている。
前日の雪の予報をものともせず青空に恵まれ、大層な人出だった。
昼頃、私はロイトン札幌ホテルに足を踏み入れた。

日本再生を目指す国民運動のひとつ「日本会議」主催の式典
「建国記念の日 奉祝道民の集い」に出るためである。

《式典》

壇上正面に大きな日章旗が掲げられていた。
閑散とした会場が次第に来賓で埋められていく。
60歳以上の年配の方が殆どと見受けたが、中には若人もいた。
仲間同士で誘いあってきた者、独り静かにきた者。
この厳粛な会場に自ら足を運んだ人々に明朗誠実な強さを感じた。

自然な愛国心に触れるのはよいものだ、とても清々しい気持ちになる。

オープニングセレモニーには、伝統舞楽の福井ばやしが披露された。
350年前、今の福井県にあったお宮が発祥の地という。
開拓移民とともに札幌に渡り、保存会が守ってきた。
笛と鉦の奏でる神事空間の中に、大小6つの太鼓の響きが空気を震わせる。
高天原へ通じる扉を開くかの如くに、太古の血を沸立たせるリズムと力感。
15分ほど休まずの演奏に、こちらも体温が確かに上がった。

皇居・橿原神宮遥拝、国歌斉唱と続き、日本会議北海道本部理事長による式辞。
また明治天皇御製を歌い上げた祝吟は素晴らしかった。

《明星大学教授・高橋史朗先生による講演》

「『教育の危機を救う』伝統的子育て」と題した興味深い講演だった。
現在の日本の教育と子供たちの置かれている惨状に対する深い憂慮と考察、
特に学級崩壊や非行、不登校などの問題が子供の幼児期の育て方による発達障害と密接に関わっていることなどを脳科学の研究をひいて明快に説いて下さった。

日本人の「恥の文化」を身につけることが出来るのは2歳から3歳まで、
そこを疎かにすると他者との共感性を欠いた非常識な人間に育つとのこと。
ゆえに学校で道徳教育を導入してももう遅い、親が変わらなければだめなんだと。

至極もっともである。子育ての仕方を知らない世代が親になって、日本の子供は一気に発達障害が増えたのだ。

《愛されない不幸な子供たちの国・日本》

高橋先生の話の中に信じられない本当の話があった。
子供の名前に親が願いを込めるのは、もう「昔の話」らしい。
とんでもない名前、先生が読めない名前の子が入学してくるという。

「光宙」と書いて「ぴかちゅう」という名の男の子
「愛猫」と書いて「きてぃ」という名の女の子
「強運」と書いて「らっきー」という名の子
「一二三」と書いて「ワルツ」という名の子・・・

冗談ではない本当の話だとのこと。背筋が寒くなる思いがした。
常識もルールも何もない。あまりにひどすぎる。
こんな学校の先生は気が狂ってしまうのではないかと心配する。
ある子供の作文でこんなのがあったらしい。
「大きくなったら法律家になりたい。親のつけた名前を、子供は自由に変えてよいという法律をつくりたい。そして変な名前をつけた親を有罪にして罰金をうんと取る法律を!」

なんてひどい国になってしまったのだろう、わが日本は。
親に愛されず、おもちゃにされるだけの子供たちが急増している。

かつて世界一幸せな子供たちと言われた江戸期の日本の子供たちは
150年たって、今や世界一不幸な子供たちと言われている現実。
あまりに不憫であまりに残酷な話だ。

非常識で幼稚な親たちを「大人」に仕立て直すしかないのだ。
日本が立ち直るか滅ぶのか。われわれは崖っ縁に立たされている。

《パレードで解散》

講演が終わり、紀元節奉祝歌を斉唱して式典が終わった。
その後は有志参加の奉祝パレードに、日の丸の小旗を持って加わった。

大きな雪像が並ぶ大通公園の脇を、「おめでとうございまーす」の声を挙げて道行く人々にも「今日は日本の国が生まれた日なんですよ、みんなでお祝いしましょう」というメッセージを伝えながら歩いたのである。

少々気恥ずかしいが、自分が日本人であることを改めて感じ嬉しくなる。
なかなかよいものだ。

みなさんも、よかったら日本会議に入会しませんか?勧誘ではありませんけど。

「北方領土の日」に寄せて

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2月7日は「北方領土の日」ということで、10年以上も前にNHKで放送された
「北方四島の自然」という番組のビデオを引っ張りだして見た。


四島の中でも、国後島の爺々岳山麓、原始の森の美しさが素晴らしい。
80%を針葉樹が占める針広混交林に、北海道では絶滅あるいは稀少に
なってしまった動物や植物が豊富に生息している。

特にシマフクロウ、ヒグマ、クマゲラなどの多さには驚かされる。
道内ではもう見られないグイマツもある。

ロシアのサハリンテレビの撮影で作られた、当時の貴重な映像を眺めながら
今もこの豊かな自然が変わらずに残されていることを願わずにはいられない。

**
北方四島には江戸時代以前からの日本人の生活史があることを思うと
改めて「何としても取り戻さなければ」との思いが込み上げてくる。
敗戦時のどさくさに不法占拠されたまま、何もできないとは情けない。

なぜ2月7日が「北方領土の日」に制定されたかというと、
幕末の1855年(ペリー来航の2年後)のこの日(旧暦12月21日)
日魯通好条約が結ばれて、北方四島が日本領として確定されたことによる。

これ以後、両国の国境は何度も変わったけれども、四島は一貫して日本領土
だった。

**
ロシアは今、国内状況はボロボロらしい。貧富の差は限界に達し人心は荒廃、産業も財政も軍事も破綻寸前の危機的状態だという。
これまでも日本の経済援助、資源開発援助を求める手段として領土返還をエサにちらつかせてきたが、今後はますます顕著になるだろうという。

まったく残念だが外交センスも国益意識もない今の政権ではそんな死に体のロシアにすら利用されるだけだろう。
だがいずれまともな日本政府ができた暁には、冷静な戦略をもって平和的な形で領土を取り戻す交渉ができると思う。

傲慢なロシアに臆せず、友好の嘘でごまかしたり裏取引で妥協したりせず
きっちりと獲るべき実を獲る、強い交渉が。
そんな日がくることを信じている。

それまで元島民の方がひとりでも多く長生きして下さることを切に願う。

(写真:国後島の夜明け)

目覚めよ日本男児!

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早いもので師走である。
平成22年はみなさんにとってどんな年だったろうか。
私にとって、今年ほど心穏やかならざる年も珍しかった。

寝惚けた民主党政府が改めて教えてくれたことがある。
私たちの国は戦後ずっと世界のシビアな現実から目を背けてきたということだ。

1945年の敗戦後、日本人は一体となり焼け跡から驚異的な復興を遂げた。
70年代にはGDPで世界第二位の経済大国、裕福な国となった。
だが米ソ冷戦の最中にあって日本の高度成長が可能だったのは
国防をアメリカに依存して軍事費を経済復興に回せたことが大きかった。

そして今はどうか。日本は自力では国防もままならない非力な半独立国家のままだ。
頼みの綱だった経済力もその地位を失いつつある。
平和とは国際的バランス上に成り立つ微妙なもので、今後も続くとは限らないのだが、私たちはこの異常な状況に慣れきって国防についての思考回路を失っている。

そんな戦後日本人の平和惚けの象徴が「日本国憲法」前文だろう。
そこにはこう書かれている。

「日本国民は・・(中略)・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」

日本人は自分たちの安全と生存を外国に委ねると明記しているのだ。
そして、平和を維持しようと努めているのは国際社会だという。
なんと現実離れした甘い認識だろうか。

今も昔も国際社会はシビアな弱肉強食の世界であり、自立の気概なき国の存続は危うい。
諸国民は決して公正ではないし、まして弱小国の面倒など見てはくれぬ。
日本が65年間平和でいられたのも、その経済力を利用するアメリカの都合によるものだ。


今、中国は核ミサイルを数百発持ち日本の主要都市に照準を合わせている。
尖閣の漁船衝突事件は小手調べで、来年の夏には本格上陸が計画されているらしい。
中国共産党の本当の狙いは沖縄である。領土を奪われる危機に日本人は鈍感すぎる。


そして何よりも北朝鮮にいる拉致被害者をいまだに取り返せずにいる。
政治とは国家の領土領海を守り、国民の生命と財産、安全を守るものである。
その意味で日本には65年間「政治といえるものはなかった」といってもよい。

戦後日本の繁栄は、シビアな国際社会を経済力で乗り切ろうとしたものだった。
だが、金で国は守れないことは歴史が証明している。
現にチベット、ウイグルは中国の軍事侵略を受けて悲惨な目にあっている。
同様に軍事力で来られたら、日本は戦えるのか。
国を守る意識の薄い今の日本は、あらゆる場面で外国人の干渉に対し無防備である。

何より大事なはずの国籍が軽んぜられ、簡単に取得できるようになった。
さらには、国を乗っ取られる危険がある外国人参政権までホイホイ与えようとする。
そして今はテレビマスコミがパチンコなどの外国勢力に握られ、彼らに都合の良い番組が作られる。
事態は本当に深刻なのだ。国民の生存本能が鈍っているのである。


街で見かける看板には「生活第一」「いのち大切に」「クリーンな政治」・・・
いつまでも、こんな空虚な言葉で騙されて思考をストップさせていてはいけない。
一般国民が性根を据えて「日本人による日本人のための社会」を本気で考えるときがきている。
日本男児よ、覚醒せよ。
「草食系」とか「癒し」などと甘ったるい日常に遊んでいる場合ではない。
今、危機意識を多くの人が共有していかなければ日本は沈没する。明るい未来はないのだ。

(写真:十勝平野に月昇る)

”夏の風物詩”にもの申す(NHKへの怒り)

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毎年よくもまあと思うほど、戦争関連の番組を並べる8月のNHK。
その内容はいつも決まって「旧日本軍の悪いイメージの刷り込み」だ。
ここまで一方的だと却って不自然ではないかとは、露ほども思わないらしい。

今夜は「ソ連によるシベリア抑留」を扱った特集番組だ。
少しは日本の立場に立った番組を作る気になったのかと期待して見てみた。

***
だがやはり期待した私が愚かだった。
「ソ連によるシベリア抑留で57万人の日本人が強制労働をさせられ、そのうち少なくとも5万5千人が亡くなった。」
これは事実である。

私は日本人として「よくもやったな、ソ連め・・・」と自然に思う。
あの頃を生き抜いた軍人の方々の苦労や苦悩を、ひとりの若輩としても
静かに想像してみるのである。「どんなにか帰りたかったろうな」と。

番組はソ連が抑留した日本軍人に対して行った洗脳(思想教育)の
巧妙かつ卑劣な手法を次から次へと悲惨さたっぷりに描き出す。
日本兵士たちの望郷の念を逆手にとって
「社会主義思想を身につけた者から帰国させる」と触れ込むソ連当局。

過酷な労働と、募る日本への思いから
抑留者の中にソ連に恭順する者が現れたのも無理はなかったろう。
当局はそうした者を優遇することで、さらなる裏切りや密告を奨励し
日本兵の連帯感を断ち切り、自ら共産主義に入信するよう誘導したのだ。

昨日までともに戦い信じ合ってきた仲間を裏切らねばならない。
日本人が日本人を売る、友達を密告する。
そうすれば日本に帰れると・・・

こうした話が抑留体験者へのインタビューを中心に語られる。
私は涙が出そうになった。

**
だが番組中ただの一度もソ連に対して批判的と感じられる表現はなかった。

またこんな部分もあった。
ソ連は抑留者たちの軍隊階級に応じて労働の重さや食事に差をつけることで
かれらの間に不満と反感をあおった。極限状態にあった彼らは、果たして
将校の吊るし上げやマルクス主義の勉強会を開くなど、当局の狙い通りになっていく。

番組ではこれを日本軍の階級組織の厳しさが引き起こした悲惨な状況として語るだけで、ソ連の人体実験の非道さという側面を無視した。

このように、事実を述べながらもその解釈が不自然な点が異様だった。
相手の悪行に触れないように無理に逃げ回っているように感じる。

そこで思い出されるのは、広島の平和記念公園の碑文である。

「安らかに眠ってください もうあやまちは繰り返しませんから」

主語がないので有名な碑文だが、マスコミは暗黙了解的に
「日本人のあやまち」という文脈で報道する。
原爆を投下し民間人30万人を大虐殺したのはアメリカであり
「碑文」は彼らに言わせるべき台詞であることは言を俟たない。

「戦争が悪い」とか「向うがやらねばこちらがやっていた」などと
喧嘩両成敗のように原爆投下を正当化するような態度は
一見大人の議論のように見えるが、とんでもないことで、
相手の強弁に正当な議論もできずに従うだけの臆病者の言い訳である。
そして被爆者や懸命に戦った同胞たちへの最大の裏切りである。

日本人の自意識を欠き、事実を曲解した番組を並べて
「戦争を風化」させているのは他でもないNHK自身であるとはっきり言っておく。

**
今日の番組もしかり。
シベリア抑留者たちは同胞を裏切り思想を転換させられた。
帰国後は「アカ」のレッテルを張られ就職に困るなどの多くの辛酸を舐めた。
それを番組は「国家と戦争に翻弄された人生でした」と簡単に締めくくった。
こんな人を馬鹿にした言い方があるだろうか。
「国家と戦争に翻弄され」などと…低劣で浅い歴史認識を自ら露呈している。
また人格を玩弄する思想洗脳を施したソ連の悪行にはいっさい批判もなし。
同胞を57万人(!)拉致し、不法に11年も強制労働させ5万5千人を死なせた相手に対して一言もないとは。
あなたたちはいったいどこの国のテレビ局なのか。

日本人を愚弄するNHKの態度はさらに続く。
戦後、シベリアに囚われの身になった家族を返せと
ソ連大使館前にデモ行進する大勢の日本人の姿の映像が流れる。
NHKはすかさずコメントを忘れない。
「この背景には冷戦を有利に運ぶためのアメリカの意図がありました」
「対日理事会でアメリカは、抑留者を返さないソ連を激しく非難しました。
共産主義のソ連が国際社会から非難される効果を狙ったのです。」

「抑留者を返せ」のデモはアメリカの都合で行われたというのだ。
あきれて言葉もでない。大勢の日本人の思いはNHKに全く無視された。
北朝鮮に拉致された同胞家族にも同じように言えるのか。日本人の気持ちに立った歴史認識を持てと腹立たしく思った。

まさか日本人の気持ちや立場を無視することが
公平公正な番組作りであるとでも思っているのか。
このような歪曲番組を作り続けるならば
N・H・K(日本放送協会)などと名乗る資格はない。
私は本当に憤りを感じている。
日本の歴史的立場や気持ちを無視し続けるNHKは、占領軍放送局である。

(写真:東京上空から 「この繁栄は誰のおかげなのか」)

怒りの矛先がおかしい

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もう昨日のことになるが、
NHKの夜9時のニュースで
ちょっと信じられない光景を見た。

昭和二十年三月十日といえば
僕のような戦後生まれでも知っている。
東京大空襲のあった日だ。

米軍のB29爆撃機が約300機で襲来し
既に防備力尽きた東京の下町を
一晩で四十万発の焼夷弾を落として
焼き払った。

死者は十万人以上。
人類史上最悪の空爆だったといわれる。
当時の悲惨な情景や回顧録を
僕も読んだり聞いたりした。

敗戦後に開かれた極東軍事裁判(東京裁判)では
民間人殺傷を意図したこの大空襲が
戦時国際法違反の犯罪であったとする
日本側の主張は 途中で
日本語訳が打ち切られ、議事録から消された。

東京裁判の不公正さはつとに知られている。
大空襲は明らかにアメリカの戦争犯罪であるが
連合国側の裁判官たちは、原爆投下の罪とともに
徹底的に無視したのである。

***   ***   ***

さて、本題はここからである。
この東京大空襲で亡くなった人たちの遺族が
原告となって訴訟を起こしていた。

相手はだれか?
空襲の被害について訴える相手は、誰なのか。

こともあろうに日本政府だった。

これはどうみてもおかしい。
もしアメリカ合衆国を訴えるなら筋が通る。
実際には無理だろうが、考え方はまともだ。

だが彼らはこういうのだ。
「軍人が恩給や援護法を受けているのに
民間人の被害者は何の援護もなく放置された」と。
亡くなった原告の遺影を胸に涙ながらに訴える兄妹の
映像が、肉声が延々と流れる。ほだされそうだ。

だがちょっと待って欲しい。
戦争で被害を受けたのは、東京大空襲だけではなく
大切な身内を亡くした人は全国にたくさんいる。
あの戦争では300万人が亡くなったのだ。

戦争の惨禍は国民全体が共有した悲劇ではないのか。
身内を失った悲しみを国民みんなが共有し、
力を合わせて昭和の時代を生きてきたのだと僕は思う。

「誰のせいでこうなったのか」
そうした個々の思いをぐっと呑み込んで、
みなで団結して国を守って戦った記憶として昇華する、
そういう暗黙の、重い重い約束があるような気がする。
それでこそ戦後の復興が成ったのではないだろうか。

だから今になって急に
「国は謝罪せよ、一人1千万円だ」というのはどうか。
こう言ってはなんだが
全国の遺族の思いに対する裏切りではないか。
誰が焚きつけたのか、誰がどんな思惑で始めたのか。

僕は原告の方々が本気だということだけは、わかる。
戦後の歴史観がそうさせていると思うからだ。
戦争について、国民はとばっちりを受けた被害者だと
思いこんでおられるのだろう。
だがそれは・・大いなる虚妄である。

真相は占領政策により忘却の淵に沈められた。
アメリカの占領軍GHQは
終戦後7年をかけて日本人を洗脳した。

「軍国主義の侵略国家・日本が支配欲で始めた戦争だった」
という歴史観の刷り込み・洗脳が
図書没収、私信の検閲、学校教育、公職追放…
あらゆる手段で、全ての日本人に対して徹底的に行われたのだ。

当時、報道は100% 占領軍による検閲下にあった。
新聞やラジオは日本軍の暴虐ぶりをねつ造・誇張して
ウソを全国の家庭に送り続けたのである。

そして戦後60年たった今も
マスコミは同じことを続けている。
5月放送のNHKスペシャル
「ジャパンデビュー」シリーズでは
戦前の台湾統治を悪しざまに描き、
事実に反する内容と取材証言の改ざんと
捏造が指摘されている。
(この番組に対し、全国の一般視聴者一万人と
取材を受けた台湾人が原告となり
NHKに対し訴訟を起こし係争中だ)
そして昨日のニュースである。

原告団の訴えは東京地裁で棄却された。
僕は当然だと思った。
だがNHKのテレビカメラは
悔しそうな原告の声や顔をアップで
映し出し、スタジオのキャスターは
無念そうな表情で言った。

NHK:「こうした人々がまだまだいることを
私達は忘れてはなりません」

NHKは、洗脳は全く解けていない。
「占領軍なき占領軍支配が続いている」(田母神俊雄氏)
残念ながら、至言であろう。

タテのつながりという視点

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12月8日は
日本人としては忘れえない対米戦の開戦日。
そして私的には静岡の祖母の誕生日である。

すでに卆寿を迎えた祖母は、
年相応の衰えはあるものの
健康そのものは至って穏やかで、
本当にありがたいことである。

私は少年時に1年半、
祖父母のもとで暮らしたことがある。
父の英国駐在に伴い
家族とともにロンドンでの生活を送っていた私は、
翌年の高校受験を控えて単身帰国した。

家族が帰国するまで、
当面祖父母の世話になることになったのだが
思春期の少年を預かる祖父母たちの気苦労や
また預ける両親の気苦労を思うと、
今更ながら感謝の念を禁じえない。

短い期間ではあったが
祖父母との生活が私に与えたものは
まことに大きなものがあり、
人生を左右する貴重な体験だったと思う。

中でも大切なことは、自分と祖先との間の
「タテのつながり」というべきものを、
生活の中で実感し体得できたことだと思う。

祖先を意識することは、今生きている自分を、
過去から未来へと連綿と続く時間軸の中で
相対化する視点を得ることである。

ともすれば個人中心的な狭い視野に陥りがちな
核家族時代にあって、祖父母という存在は
「絶対的個人たる自分」を離脱して
はるかな祖先から続く果てしない織物の上に
現れた模様の一つである
「相対的な自分」を教えてくれた。

私もまた祖先と同じように、
後世の子孫からは歴史的存在として
扱われるのだという、当たり前の真実に気付くのである。

そのことは、人間に謙虚さという資質を備わらせる。
今、この世に生きている者だけがすべてではない。
死んだ者、まだ生まれてこない者たちも含めた
広い視点でこの世界を見るとき、
初めて私たちは
現代の価値観を絶対正義とすることの
傲慢と愚かさに気付く。

まさしく(私達が今頑張っているのと全く同じように)
私達の前の世代、その前の世代も、
みなそれぞれの時代において最善を尽くしてきたはず、
そう肯定的に信じる根拠がある。

それが祖先への自然な敬愛と尊崇の念と呼ぶべきものかもしれない。

私的な祖先のことだけではなく、国全体の祖先たちに対しても
全く同じことが言えると思う。

たとえば先の大戦に関しての祖先の行いや決断に対して、
否定的な側面からのみ断罪するような教育や報道が
強力になされ続けている。

占領下に流布された虚偽の数々が
今や明らかにされているにも関わらず
いまだに当時の日本の行いに一片の理も認めないような
戦後日本の空気のこわばりがある。

だが大戦時における祖先の必死の思いや真剣さを
単純に「過ち」「悲惨」という絵の具で塗りつぶすことは
その時代を最善を尽くして生きた日本人への冒涜だと思う。

それは歴史に対する謙虚さを欠くばかりでなく
人間としての健全な精神を著しく阻害する状況と
言わざるをえない。

私にとって
12月8日は大切な祖母の喜ばしい記念日であり
また祖父母を含めた祖先に対する誇りと
日本人としての矜持を再確認する日なのである。